第5話:貴族の戯れと、命の値段
朝、目覚めた瞬間に感じたのは、生きている実感ではなく、死に近づいた重みだった。
指先一つ動かすのさえ億劫だ。視界が白く霞み、心臓が早鐘を打っている。
前回の返済で、私は稼いだ金をすべて利息に充てたが、それでも足りずに生命力を持っていかれた。その代償がこれだ。
這うようにして小屋を出て、路地の窪みに溜まった雨水を覗き込む。
薄暗い水面に映るその影は、頬がこけ、目が落ち窪んでいた。まるで骸骨か幽霊だ。
「……それでも、行かなきゃな」
休んでいる間も、毎秒約6.36円の利息は私の寿命を削り続けている。
重い足を引きずり、私は商工ギルドへと向かった。
†
「おや、今日は一段と顔色が悪いですね。まるでゾンビのようだ」
ギルドの奥にある執務室に入るなり、債権者であるギルドの幹部職員が愉快そうに口角を上げた。
上質な服に、片眼鏡。今日も彼は、この世の春を謳歌するような涼しい顔をしている。
「……皮肉はいい。仕事をくれ。割のいいやつを」
「ええ、ご紹介できますとも。今回は特別です。前回の特別な依頼の、さらに倍の報酬が提示されています」
男は重厚な机の上に一枚の羊皮紙を滑らせた。
「依頼主は、バルディ男爵家です。報酬は金貨20枚……日本円にして、およそ2,000,000円相当です」
「200万……!?」
前回の100万円相当ですら破格だったが、今回はその倍だ。思わず身を乗り出すと、男は人差し指を立てて私を制した。
「ただし、今回の現場には『同席者』がいます。以前、仕事の依頼主だったアルニム伯爵家のご令嬢と、バルディ男爵家のご子息です」
「男爵家と、伯爵家……?」
なるほど、今回はただの仕事ではないようだ。
爵位の重みはこの世界でも絶対なのだろう。新興の男爵家が、格上の伯爵家をもてなす、あるいはご機嫌取りをする場であることは想像に難くない。
「ええ。バルディ男爵家はこの街で最近急速に力をつけている新興貴族です。金払いはいいが、成り上がり特有の品性のなさで悪名高い。対してアルニム伯爵家は歴史ある名門。この関係性が何を意味するか、あなたならおわかりでしょう?」
「……格下の男爵が、格上の伯爵に媚びを売るための余興、か」
「ご名答。仕事内容は『観賞用魔植物の手入れ』。バルディ家が愛でている、少々気性の荒い植物の剪定作業です」
嫌な予感がした。だが、金貨20枚(2,000,000円)という数字は、今の私にとって命綱そのものだ。
私は震える手で羊皮紙を掴んだ。
†
連れてこられたのは、広大な庭園の一角にある温室だった。
そこには、私の背丈の倍はある巨大な食虫植物――『皇帝薔薇』が鎮座していた。美しい真紅の花弁の内側には、鋭利な牙がびっしりと並んでいる。
「ふん、なんだこの貧相な男は。本当に役に立つのか?」
鼻を鳴らして私を見下ろしたのは、派手な装飾のついた服を着た若い男だった。ギルドで聞いた、バルディ男爵家の子息だろう。
その隣には、以前仕事を請け負ったあの女性貴族が立っていた。
漆黒のドレスが、彼女の豊満な肢体を艶めかしく包み込んでいる。氷のような美貌と、そこから漂う大人の色気に思わず息を呑むが、彼女は私を一瞥すると、すぐに興味を失ったように視線を外した。
「おい、借金奴隷。さっさと始めろ。その薔薇の棘を磨くんだ。一本たりとも傷つけるなよ」
バルディ家の息子が尊大な態度で命じる。
私は剪定用の特殊な魔道具――長い柄のついたハサミとブラシを手渡され、恐る恐る巨大な花へと近づいた。
皇帝薔薇が低く唸り、触手のような蔦が蠢く。
作業は困難を極めた。蔦が鞭のように襲ってくるのを避けながら、繊細な棘を磨かなければならない。一瞬でも気を抜けば、磨くどころか私が肥料にされてしまう。
「遅い! もっと手際よくやれ!」
安全圏で紅茶を飲んでいる男が、苛立った声を上げた。
「ああっ、そこの男! 磨き残しがあるぞ。おい、道具を使うな。直接、手で撫でて艶を出せ」
「……はい?」
「聞こえなかったのか? 愛が足りないから花が機嫌を損ねるんだ。借金奴隷らしく、体で奉仕しろと言っているんだ!」
正気か。
この世界の植物のことは詳しくないが、あのどす黒く光る棘を素手で触れというのは、自殺行為にしか見えない。
何より、あの薔薇はこちらの隙を伺うように、絶えず牙を鳴らしているのだ。
私が躊躇していると、男は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「貴族の命令が聞けないのか! 報酬が欲しくないようだな。いいか、今すぐその手袋を外して――」
「およしなさい、ロドルフ」
凛とした、しかし絶対的な響きを持つ声が、男の暴言を遮った。
それまで黙って本を読んでいた女性貴族だ。彼女は本から視線を上げず、冷ややかに言った。
ロドルフ。
彼女にそう呼ばれた男は、忌々しげに舌打ちをして引き下がった。
男爵と伯爵。この世界の詳細な事情には疎いが、前世の知識に照らし合わせれば、その階級差が絶対であることくらいは想像がつく。彼が大人しく従ったのが、何よりの証拠だ。私の考えは間違っていなかった。
「その下等生物が死ぬのは勝手だけれど、皇帝薔薇が人間の血を吸うと、花の色が濁るわ。来週の品評会で恥をかきたいの?」
「う……し、しかし、エリーゼ様……こいつの態度が……」
「皇帝薔薇の棘には麻痺毒があることくらい、あなたも知っているでしょう。麻痺した肉を啜らせれば、花の鮮度が落ちる。肥料にするなら、もっと上質な餌を与えればいいでしょう」
エリーゼ。
その名を聞いて、前回の仕事の際に債権者から聞かされていたフルネームの一部であることを思い出した。当時はあまりの空腹と疲労で聞き流していたが、確かに彼女はアルニム伯爵家のエリーゼ・フォン・アルニムといったはずだ。
彼女の言葉で、ようやく確信した。あの棘はやはり、ただの棘ではない。
彼女は、私を助けたわけではない。
ただ、自分の美意識と利害において、私がここで死ぬことが「損」だと判断しただけだ。
だが、その冷徹な合理性が、今の私には救いだった。
ロドルフと呼ばれた男は悔しそうに口を噤み、ドカッと椅子に座り直した。
†
夕暮れ時、私はボロ雑巾のようになりながらも、なんとか生きて商工ギルドへ戻ってきた。
手には、ずっしりと重い革袋。
中には金貨20枚(約2,000,000円)。
「お疲れ様でした。生還おめでとうございます」
債権者の男が待っていたかのように出迎える。
私は革袋を握りしめたまま、彼に問いかけた。
「……金を入れる前に、確認だ」
「なんでしょう?」
「この金で、今日の分の利息と、奪われた生命力は取り戻せるな? そして、余った分は元金返済ではなく、『将来利息プール』に回せる……間違いないか?」
命が削られる感覚に耐えながら、私は必死に言葉を紡ぐ。
元金を減らすことも重要だが、今の私に必要なのは、明日死なないという保証だ。
「ええ、もちろん可能です。元金を減らすよりも、直近の安全を買う……賢明なご判断かと」
男の肯定を聞き、私はようやく震える手で金貨を返済用の魔道具の投入口へ押し込んだ。
ジャラジャラと硬貨が吸い込まれていく。
魔道具のプレートが、無慈悲な数字を映し出す。
【本日の清算処理】
発生利息:546,981円
生命力代償弁済:366,981円
返済投入額:2,000,000円
余剰金:1,086,038円
【処理実行】
利息充当:完了
生命力回収(回復):完了
将来利息プール:1,086,038円
その瞬間、体の奥底から温かい何かが湧き上がってくるのを感じた。
鉛のようだった手足に血が通い、霞んでいた視界がクリアになる。
奪われていた「命」が、金で買い戻されたのだ。呼吸ができる。心臓が力強く脈打つ。
生きている。そう実感した途端、目頭が熱くなった。
「素晴らしい」
債権者の男が拍手をした。
「ご希望通り、余剰分は未来の利息としてプールしました。これで約2日、あなたは利息の恐怖に怯えることなく眠れるというわけです」
元金は1円も減っていない。
だが、今の私にとって、痛みなく眠れる夜が2日も続くことは、何よりの贅沢だった。
「……ああ、そうだな」
私は深く息を吐き出した。
借金地獄は終わらない。けれど、少なくとも今夜だけは、悪夢を見ずに眠れそうだ。




