第4話:一晩で消えた安寧、これが私の適正価格
翌朝。
束の間の安寧は、予想通り夜明けを待たずに終わりを告げていた。
昨日の高額報酬で元金を減らし、確保したはずの約20万円分の『魂の空き容量』。
だが、私が気絶するように眠っている間も、借金は膨張を続けていた。
就寝時の利息は、毎秒約6.21円。
元金が減ったことで、魂が砕ける限界値の利息(6.36円)より、わずかに下がっていた数値だ。
睡眠時間はわずか4時間ほど。
過労と生命力の欠損で泥のように眠ってしまったが、その短い間にも約9万円もの利息が発生していた。
目覚めてから身支度をし、移動する間にも数字は積み上がる。
昨日作った「空き」は刻一刻と埋め尽くされ、借金の元金は再び魂の限界値である『5,492万1,437円』へと、確実にカウントアップを続けている。
私は再び鳴り始めた耳鳴りと倦怠感を引きずり、スラムを出て都市の中心区画へと向かった。
目指す先は、この街の経済を支配する巨大組織『商工ギルド』の本部だ。
威圧感のある石造りの堅牢な建物を前に、私は息を吐く。
冷たく無骨な石の床が続く廊下を抜け、場違いな汚れた服で奥の部屋へと通される。
そこは、一般の利用者は立ち入れない、特別債務者用の応接室だった。
「おはようございます。昨日は素晴らしい働きでしたね」
重厚な執務机の向こう側で、上質なスーツを着た男が優雅に一礼した。
その胸元には、商工ギルドの幹部であることを示す金バッジが鈍く光っている。
彼は単なる借金取りではない。ギルドの権力を背景に、法の内側で私たちを管理する執行者だ。
「……皮肉はいい。今日も仕事があるんだろうな」
「ええ、もちろん。ですが、本日は少々条件が渋い案件しか残っておりませんで」
男が差し出した羊皮紙には、昨日よりも危険度が高そうな作業内容が記されていた。
『地下水路の汚泥撤去および魔獣の卵の駆除』
悪臭と危険がセットになったような仕事だ。
そして、その報酬額を見た私は、思わず声を荒らげた。
「18万……? ふざけるな、これじゃあ今日の利息分にも届かないじゃないか!」
昨日の報酬は、元金を減らせるほどの高額だった。
だというのに、これほど危険そうな仕事が、昨日の日当の五分の一以下だとはどういうことだ。
現在の借金総額はほぼ上限の約5,492万円。そこから算出される1日の利息は、約55万円。
異世界の通貨ならば、利息だけで金貨と銀貨が5枚ずつ必要な大金だ。
この18万円という金額では、今日発生する利息の支払いですら、30万円以上の不足が出る。
「おやおや、勘違いされては困りますね」
男は片眼鏡の位置を直しながら、冷ややかな声で言った。
「昨日の案件は、貴族家からの『緊急特別依頼』……いわばボーナスステージのようなものです。金に糸目をつけない特例だったのですよ」
「……特例、だと?」
「ええ。対して、こちらが本来の相場です。魔獣駆除ギルドの下請け業務……誰にでもできる汚い仕事に、これ以上の値はつきません」
男の言葉に、私は唇を噛んだ。
昨日の仕事が「奇跡」だっただけ。今日突きつけられたこの安い金額こそが、この世界における私の「適正価格」だと言うのか。
「ですが、計算通りではあります。不足分は貴方の『生命力』で補填していただきます。それがこの契約の基本ルールですから」
「そんなことを毎日続けていたら、私はすぐに死ぬぞ。あんたが目論む利息の永久機関が破綻するじゃないか」
「ですが、スラムでゴミを漁っても、得られるのはせいぜい数百円でしょう? それに比べれば、18万円分の生命力を温存できるこの仕事は、破格の待遇と言えるのでは?」
男の言う通りだった。
ここで断って自分で仕事を探したところで、利息の足しになるような稼ぎなど得られない。
そうなれば、1日分の利息――約55万円分の生命力をまるごと持っていかれるだけだ。
死にたくないなら、少しでも稼いで、削られる魂の量を減らすしかない。
「……わかった。引き受ける」
「賢明なご判断です。では、行ってらっしゃいませ」
†
案内された現場は、都市の地下に広がる広大な水路だった。
鼻を突く腐敗臭と、肌にまとわりつく湿気。足元には正体不明の汚泥が溜まっている。
与えられた鉄の棒で、水路に詰まった泥や魔獣の巣をかき出すのが今日の仕事だ。
「……うっ」
作業開始から数時間。休憩の合図とともに、私はその場にへたり込んだ。
作業中に「空き容量」はすべて埋まり、再び借金額は魂の限界値に達してしまった。
今は1秒ごとに、心臓を直接握りつぶされるような激痛とともに、私の生命力がリアルタイムで徴収され続けている。
「……あの」
不意に、背後から遠慮がちな声が聞こえた。
振り返ると、薄暗いランプの明かりの中に、見覚えのある獣耳が揺れていた。
「君は……昨日の」
リナ、と呼ばれていた獣人族の少女だ。
体中を泥だらけにし、その大きな狐のような耳も煤で汚れている。
小柄な体には大きすぎるスコップを抱え、彼女は不安そうに私を見上げていた。
「お兄ちゃんも、ここの仕事だったの?」
「ああ。どうやら、私たちは腐れ縁らしいな」
子供がやるような仕事ではない。
だが、彼女もまた借金奴隷なのだ。私と同じように、今この瞬間も命を削って働いている。
薄汚れた作業着はサイズが合っておらず、彼女が動くたびに、その華奢な肩や鎖骨が露わになる。
大きく開いた襟元と袖口。
その隙間から覗く肌はあまりに無防備で、彼女が作業着の下に下着すら身につけていないことを、残酷なまでに突きつけてくる。
借金奴隷の身だ。衣類など買う余裕があるはずもないことはわかっている。
だが、栄養失調で痩せ細ってはいるものの、泥汚れの下にある肌は驚くほど白い。
こんな極限状態だというのに、私はふと、そのあどけなさと不釣り合いな艶めかしさに目を奪われていた。
借金と過酷な労働で理性が摩耗しているせいか、私の視線は無意識に彼女の体つきをなぞりそうになる。
「……これ、食べる?」
「うわっ!?」
突然かけられた声に、私は心臓が止まりそうなほど驚いた。
やらしい心を見透かされたかと焦って顔を上げるが、リナは気にした様子もなく、おずおずと何かを差し出していた。
配給された、硬い黒パンの欠片だ。
彼女自身の分も少ないだろうに。
「いいのか?」
「うん。私、あんまりお腹すいてないから」
嘘だ。
彼女の細い手足を見れば、慢性的な栄養失調であることは明らかだった。
私は首を横に振ることで、自分の卑しい思考を振り払った。
「気持ちだけ受け取っておくよ。しっかり食べておけ。体力が尽きたら、それこそ終わりだ」
「……うん。ありがとう」
彼女は小さく微笑むと、パンを齧り始めた。
その光景を見ながら、私は拳を握りしめた。
同情している余裕なんてない。
だが、この理不尽なシステムの中で、彼女のような少女さえもがすり潰されている現実に、胸の奥で黒い感情が渦巻くのを止められなかった。
そして、股間もムズムズしてきたのだが、そんなものは「利息」という生命力を削る悪魔によってかき消されていくのだった……。
†
日が暮れるまで泥にまみれ、ようやく手にした報酬袋を握りしめて、私は商工ギルドの窓口へ戻った。
魔道具のプレートが、無慈悲な数字を映し出す。
【本日の清算処理】
発生利息:546,981円
返済投入額:180,000円
不足金:366,981円
【処理実行】
利息充当:未達
生命力回収(回復):不可
ガクン、と膝から力が抜けた。
心臓を鷲掴みにされたような不快感と、鉛のような倦怠感が全身を襲う。
わかっていたことだ。
今日の報酬の18万円はすべて利息の穴埋めに消え、それでも足りない分は、私の生命力で支払われたまま。
だが、利息を超える返済が可能になれば、支払った生命力も取り戻せる。
ただ、それだけの事実だ。
「お疲れ様でした。今日は少し顔色が優れませんね?」
債権者の男が、わざとらしい心配顔で覗き込んでくる。
「……うるさい。まだ、死んでないだけマシだ」
「ええ、その通りです。明日も期待していますよ。貴方の命が尽きるその瞬間まで」
男の薄ら笑いを背に、私はふらつく足取りでギルドを出た。
借金は減らない。体は重くなる一方だ。
それでも、明日は来る。
再び限界に達した魂を、毎秒6.36円削り続けながら。




