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第39話:暁闇の攻防

 地下室の空気は、脂とカビ、そして鉄錆の匂いで淀んでいた。


 『赤錆』のサブリーダー、ヴァークは、目の前の長椅子に横たえられた獲物をねっとりとした視線で舐め回す。


 先ほど攫ってきた、獣人の女だ。

 身につけていた装備はすべて剥ぎ取った。


 今の彼女は無防備な白い木綿の下着姿で、その肌が薄汚れたランプの灯りに浮かび上がっている。


 意識はない。強めの薬を使ったため、長椅子の上に投げ出されたまま、ピクリとも動かない。


 ただ浅い呼吸だけが、彼女が生きていることを証明している。


「いいザマだ……」


 ヴァークは唇を湿らせ、低い笑い声を漏らした。


 上質な獲物だ。ゆっくり「味見」をしたところで誰も文句は言わないだろう。

 肢体へ絡みつくように手を伸ばす。その節くれだった指先が、彼女の無防備な太腿に触れようとした、その時だ。


 カッッ!!


 扉の隙間から強烈な白い光が差し込み、直後に鼓膜を叩くような乾いた破裂音が響いた。


「あぁ!? 何だ!?」


 ヴァークは弾かれたように手を引っ込め、腰の湾刀シミターに手をかけた。


 爆発ではない。もっと鋭い、閃光と音による目くらましだ。


 直後、入り口の方から見張りたちのうめき声と、何かが倒れる音が聞こえてきた。


 このアジトは入り組んでいる。

 入り口には手練れの見張りを2人置いていたはずだ。それが一瞬で無力化されたというのか。


「誰だ……どこのどいつだ!」


 焦燥が脳裏を走る。

 騎士団か? いや、そんな気配ではない。


「クソッ、楽しみを邪魔しやがって!」


 ヴァークは獲物を一瞥し、舌打ちをすると部屋を飛び出した。


 通路の突き当たり、広間へと続く扉を蹴り開ける。


 誰が来たのかはわからない。

 だが、俺の楽しみを邪魔した代償は高くつかせてやる。


 怒りを抱え、ヴァークは怒号を上げながら広間へと踊り出た。


「テメェら、何処のモンだぁ!!」


 その瞬間、視界に映ったのは、目を押さえて転がる見張りたちの姿と、こちらへ向かってくる2つの影だった。



 †



 怒号と共に現れたのは、熊のような大男だった。


 赤茶色の髪を逆立て、血走った目でこちらを睨みつけている。

 手には身の丈ほどもある湾刀が握られていた。


 その異様な威圧感に、私は息を呑んだ。


 こいつが、この集団の頭か……?

 足がすくみそうになるのを、必死の理性で抑え込む。


「カイトさん、行ってください! ここは私が食い止めます!」


 叫んだのは、私の隣に立つヘンリック氏だった。

 彼は懐から取り出した特殊警棒のような護身用の短杖ステッキを構え、躊躇なく男の前へと躍り出る。


「老いぼれが! 死に晒せぇ!」


 男の湾刀が唸りを上げて振り下ろされた。

 直撃すれば、人間など容易く両断するであろう一撃。


 だが、ヘンリック氏は考古学者とは思えない身のこなしでそれを紙一重で回避すると、短杖で刀の側面を叩き、軌道を逸らした。


 今だ。

 私はその一瞬の隙を見逃さず、壁際を走った。


 戦闘の役に立たない私ができることはただ一つ。リナを取り戻すことだけだ。


 背後で金属音と怒声が響く中、私は男が出てきた奥の部屋へと滑り込んだ。


「リナッ!」


 部屋の中は薄暗く、むっとするような熱気が籠もっていた。


 そして、部屋の中央。

 長椅子の上に、リナがいた。


 その姿を見て、私は思わず息を呑んだ。

 白い木綿の下着姿で、長椅子の上に力なく投げ出されている。


 私は慌てて駆け寄った。


「リナ、おい! 起きろ!」


 肩を揺するが、反応がない。

 ぐったりとしていて、まるで人形のようだ。


 顔を近づけると、微かにだが規則正しい寝息が聞こえる。生きている。

 だが、普通の状態じゃない。おそらく薬か何かを使われたのだろう。


 素人の私にできることは、一刻も早くここから連れ出すことだけだ。


「……クソッ」


 彼女の装備は見当たらない。このまま連れ出すわけにはいかない。


 私は自分の着ていた安物の薄汚れた上着を脱ぎ、彼女の体に巻き付けた。


 そして、ぐったりとした彼女を背負い上げる。


「ぐぅっ……!」


 幼いなりに、ずしりとした重みが肩にのしかかる。

 これが命の重さだ。


 私はリナを背負い直し、部屋の出口へと向かった。

 その時、広間から鈍い音が響き、何かが壁に叩きつけられた。


「ぐぅっ……!」


 ヘンリック氏の苦悶の声。

 私が広間を覗き込むと、そこには片膝をつき、肩で息をするヘンリック氏の姿があった。


 彼の短杖は無残に折れ曲がり、額からは血が流れている。


 対する大男は、衣服こそ薄汚れているが、ダメージらしいダメージを受けていない。


「へへッ、ちょこまかと鬱陶しい動きをしやがって。学者崩れが、本職の冒険者に勝てると思ったか?」


 男が嗜虐的な笑みを浮かべ、ゆっくりと間合いを詰める。


 やはり、正面からの戦闘では分が悪すぎたのだ。ヘンリック氏の技術は護身の域を出ていない。


「そこまでだ、老いぼれ。……おっと、そっちのネズミも出てきたか」


 男の視線が、リナを背負って出てきた私を捉えた。

 蛇に見入られたような悪寒が背筋を走る。


「女を取り返して逃げようって魂胆か? 泣かせるねぇ。だが、ここで全員死ねば誰にも見つからない。そうだろ?」


 男が湾刀を構え直す。

 逃げ場はない。入り口までは距離がありすぎる。


 詰んだ。

 死ぬ。ここでまた借金を抱えたまま、ただ暴力によって理不尽に殺される。


 男が踏み込み、トドメの一撃を放とうとした、その瞬間だった。


「――『穿うがて』」


 凛とした声が、空間を切り裂いた。


 ヒュンッ、と風を切る音の後、男の足元の石畳が爆ぜた。


 何かが高速で飛来し、彼の進行方向を阻むように突き刺さったのだ。それは、一本の矢だった。


「あぁ!?」


 男が体勢を崩し、バックステップで距離を取る。


 私たち全員の視線が、入り口の方へと向いた。


 そこに立っていたのは、4人の男女。

 冒険者ギルドで私たちが助けを求めた際、遠巻きに見ていた上位ランクらしきパーティだった。


 先頭に立つエルフの弓使いが、二の矢を番えながら冷ややかに告げた。


「まったく、無茶をする素人たちだ」

「チッ、また客かよ……! お前ら、何の用だ!」


 男が顔を歪める。

 パーティのリーダーらしき戦士が、大剣を構えながら呆れたように言った。


「勘違いするなよ。俺たちは『赤錆』との揉め事を避けていただけだ。ギルドの上層部と繋がってるお前らに手を出すと、こっちの活動に支障が出るからな」


 戦士は私とヘンリック氏を一瞥し、ニヤリと笑った。


「だが、お前らみたいな無関係な市民が殴り込んで、現行犯の現場を押さえたとなれば話は別だ。『緊急の人命救助』という大義名分ができる」


 そうか。

 彼らは私たちを見捨てたわけではなかった。腐敗したこの街のルールの中で動くために、介入する「口実」を待っていたのだ。


 私たちが命がけで突っ込んだことが、彼らを動かす引き金になった。


「助かる!」


 私が叫ぶと、戦士は「合点承知」とばかりに踏み込んだ。


「行くぞ! これより人質救出作戦を開始する! 賞金首を逃がすな!」


 戦況は一変した。

 私は安堵の息を吐き出すと同時に、再びリナの方へと向き直る。


 戦いは、もう彼らに任せておけばいい。


「リナ、帰るぞ」


 私は意識のないリナを背負い上げた。

 ヘンリック氏も足を引きずりながら駆け寄ってくる。


 広間では激しい金属音と怒号が響き渡っていた。


 上位パーティの連携は完璧だった。


 私たちが入り口へたどり着く頃には、背後で男の断末魔のような叫び声が響き、そして静かになった。



 †



 出口を抜けると、ひやりとした外気が火照った頬を撫でた。


 空を見上げると、東の空が白み始めている。


 長く、暗い夜が終わろうとしていた。


 紫から茜色へと変わりゆく空の下、私は廃商館の裏手にある茂みにへたり込んだ。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 背中のリナをそっと地面に下ろす。


 上着の隙間から覗く彼女の寝顔は、安らかではない。眉間にしわを寄せ、苦しげだ。


 だが、その温もりが背中越しに伝わってくる。生きている。


「なんとかなりましたね……」


 ヘンリック氏が眼鏡を拭きながら、安堵の息を漏らした。


 しばらくして、商館の方から冒険者たちが出てきた。


 リーダーの戦士が、縛り上げた男を引きずっている。


 彼は私たちの姿を見つけると、軽く手を上げた。


「礼を言うぜ。お前らが暴れてくれたおかげで、堂々とこいつらを狩れた。首には懸賞金がかかっててな」


 彼らはあくまで自分たちの利益のために動いたようだが、その計算高さが私たちを救ったのは事実だ。


 私は深く頭を下げた。


「助かりました。恩に着ます」

「いいってことよ。……さて、長居は無用だ。衛兵が来る前にずらかるぞ。手柄はお前らに譲る気はないからな」


 彼らは笑いながら去っていった。


 静寂が戻ってくる。

 私は再びリナを背負い直す。


 その重みは、私たちが守り抜いたものの証だった。


「帰ろう」


 私の言葉に、隣を歩くヘンリック氏が、朝日の中で頷いた。


 無事に助け出すことはできた。


 だが、これで終わりではない。

 手持ちの金はほとんどない。


 正確な数字を見ることはできないが、私の体内時計と恐怖が告げている。


 借金の限界まで、残り時間はもう30時間を切っているはずだ。


 私はヘンリック氏と共に、朝日が照らすベルガの街へと歩き出した。


 完済への道のりは果てしなく遠いが、少なくとも今日、私は死なずに済んだのだ。

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