第35話:冷たい夜風と冒険者の罠
夜の帳が下りた街を、私は足早に駆けていた。
家から漏れる明かりはまばらで、人間ならば足元もおぼつかない暗さだろう。けれど、獣人の血を引く私の目には、昼間とさほど変わらない視界が広がっている。
目指す先は商工ギルド。
息を整えながら重厚な扉を押し開けるが、期待していたような活気はそこにはなかった。
掲示板の前で足を止める。
……駄目だ。めぼしい依頼はあらかた剥がされた後だった。
残っているのは、熟練の傭兵団でもなければ挑めないような超高難易度の討伐依頼か、あるいは1日中ドブさらいをしても銅貨数枚にしかならないような、割に合わない雑用ばかり。
(これじゃ、カイトさんの役には立てない……!)
私は焦りを飲み込み、カウンターの奥にいた一般職員に詰め寄った。ここは拠点の街メルテじゃない。
クラウス様みたいな知り合いもいないし、特別な配慮なんて望めないことは分かっている。
それでも、今はなりふり構っていられなかった。
「あの、お願いします! 明日の早朝までに終わって、そこそこ実入りがいい仕事はありませんか?」
私はカウンターに身を乗り出し、必死に食い下がった。
職員の男は手元の書類から目を離さず、面倒くさそうに溜息をつく。
「お嬢ちゃん、君のランクで紹介できる依頼は、掲示板に残っているのが全てだよ」
「そこをなんとかなりませんか!? 力仕事なら自信があるんです。重い荷物を運ぶ夜通しの作業でも、荒事の護衛でもいい。なんなら、大人が2人掛かりでやるような仕事だって、私一人でやってみせます!」
「はあ……規則は規則だ。身元引受人もいない未成年の流れ者に、高ランクの仕事や信用が必要な夜警任務なんか回せるわけないだろう? これ以上騒ぐなら、衛兵を呼ぶぞ」
「ッ……!」
取り付く島もないとはこのことだ。
一般職員の事務的な対応に、私は唇を噛み締めることしかできなかった。
「……分かりました。もういいです!」
私は吐き捨てるように言い、踵を返す。
帰り際、背中で職員に声をかけた。
「……あの、冒険者ギルドはどこですか」
「あぁ? ここを出て大通りを西へ抜けた先だ。……さっさと行ってくれ」
追い払われるようにして教えられた場所へ向かう。
夜風が熱を持った頬を冷やすが、胸の内の焦燥感は消えなかった。
†
冒険者ギルドの扉を開けると、ムッとするような安酒と汗、それに嘔吐物が入り混じったような酸っぱい臭いが鼻をついた。
商工ギルドの静謐さとは程遠い。夜になっても荒くれ者たちが酒瓶を片手に怒鳴り合い、賭け事に興じている。ここでも私はただの「見知らぬ子供」だ。
掲示板を目指そうと歩き出した瞬間、私の目の前に大きな影が立ちはだかった。
視界が遮られ、脂ぎった体臭が漂ってくる。見上げると、顔を赤くした大男たちが、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて私の行く手を塞ぐように囲んでいた。
男たちの視線は、私の顔から身体、そして獣人の耳や尻尾へと、まるで品定めでもするかのようにねっとりと這い回る。
それは商工ギルドの職員が見せる事務的な冷たさとは違う、獲物を狙う獣のような、あるいは玩具を見つけた子供のような、生理的な嫌悪感を催す熱を帯びていた。
「おやァ? 迷子のお嬢ちゃんかな。ここはガキの来るとこじゃねえぞ」
先頭に立つ男が、わざとらしい猫撫で声で言った。周囲の仲間たちが、それに合わせて下品な喉音を鳴らす。
「……退いてください。私は割のいい仕事を探しに来たんです。邪魔しないでほしい」
私は努めて冷静に、けれど明確な拒絶の意思を込めて告げた。
ここで怯えたり、感情的になったりすれば、彼らの嗜虐心を煽るだけだ。私はただの通りすがりであり、貴方たちの相手をするつもりはないと態度で示す必要がある。
だが、私が睨みつけると、男たちは顔を見合わせて嘲笑った。
「ギャハハ! 割のいい仕事だァ? 世間知らずが偉そうな口きくんじゃねぇよ」
「おいおい、そんなに金が欲しいなら、とびきり『イイ仕事』があるぜ?」
男の一人が、半歩踏み出して距離を詰めてくる。
私の肩に馴れ馴れしく手が置かれた。荒れた指先が鎖骨のあたりをなぞり、私は反射的に身を強張らせる。
ゾワリとした鳥肌が立ち、今すぐこの手をへし折ってしまいたいという衝動に駆られるが、ここで騒ぎを起こせば衛兵沙汰になりかねない。そうなれば、カイトさんに迷惑がかかる。
「今晩、俺たちが『買って』やるよ。ガキだが……まぁ、顔立ちは悪くねえ。それに、こいつはそういう幼いのが好みでな」
男は背後にいる仲間の巨漢を指差して、舌なめずりをした。指差された男は、黄ばんだ歯を見せ、濁った瞳で私の身体を舐め回すように見つめている。
今の私は、いつものボロボロの服じゃなく、カイトさんが用意してくれた綺麗な服を着ている。
革鎧も新品で、肌の露出も少ない。だからこいつらは、私が借金奴隷だなんて思ってもいないのだろう。
単に金に困った家出少女か、あるいは少し腕に自信のある新米冒険者気取りだと思っているのだ。
(買われる……慰みものになるってことか)
背筋に悪寒が走る。
カイトさん以外の男に触れられるなんて、想像しただけで吐き気がする。身体の芯が拒絶を叫び、視界が赤く明滅するような怒りと恐怖が湧き上がる。
でも、今の私には「金」が要る。
カイトさんの心臓は、今も刻一刻と削られ続けている。私はその恐ろしい速度を知っている。
もし、この男たちが提示する金額が、あの水晶板の数字を止められるほどの大金だとしたら?
私のプライドなんて、カイトさんの命に比べれば安いものなのかもしれない。
唇を噛み締め、鉄の味が口の中に広がる。葛藤の末、私は感情を押し殺し、震える声で尋ねた。
「……一晩、いくらですか」
私の問いに、男たちは「落ちた」と確信したような顔を見合わせ、勝利の笑みを深めた。
私の値踏みをするように視線を巡らせた後、男はもったいぶって指を立てた。
「ほう、話が早いな。そうだな……銀貨25枚ってところか」
男が得意げに提示した金額を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。
恐怖も、葛藤も、すべてが一瞬で冷え切り、乾いた笑いが漏れる。
「はっ、話になりませんね」
私は男の手を乱暴に振り払い、冷たい目で見下ろした。
銀貨25枚。
それは、一般の市民にとっては大金かもしれない。
けれど、あの恐ろしい借金地獄においては、何の足しにもならない端金だ。
カイトさんはいつも、金貨の束さえ、湯水のようにあの機械へ吸い込ませている。
銀貨数十枚程度じゃ、瞬きする間の時間稼ぎにもなりはしない。
たったそれだけ。
そんなはした金のために、身を売ろうとした自分が馬鹿みたいだ。その程度の額じゃ、カイトさんの苦しみを癒やすことなんてできやしない。
「どいて。貴方たちに用はありません」
私は興味を失い、男たちを突き飛ばして冒険者ギルドの依頼板へ向かおうとした。
その時だった。
「──威勢がいいねぇ、お嬢ちゃん」
背後から、不意に別の男の声がした。
振り返ろうとした瞬間、背後から伸びてきた太い腕に拘束され、口と鼻を強い力で塞がれる。
「んぐっ……!?」
鼻孔に吸い込まれたのは、甘ったるい薬草のような臭い。
思考が白く染まり、視界が急速に歪んでいく。手足の力が抜け、身体が鉛のように重くなる。
背後に潜んでいた仲間か──。
(しまっ……た……カイト、さん……)
意識が闇に落ちる寸前、男たちの嘲笑う声だけが遠く聞こえた。




