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第34話:馬小屋の夜と、抜け出した少女

 ベルガの街に到着し、その商工ギルド支部の建物を前にして、私は呆然と立ち尽くしていた。


 私の問いかけに対し、依頼主代理であるヘンリック氏は申し訳なさそうに、しかし淡々と事実を告げた。


「……申し訳ありませんが、私の一存で報酬の残額をお支払いすることはできません」


 その言葉が、重い鉛のようにのしかかる。

 今回の報酬は金貨50枚(500万円)。前金で半額は受け取っているが、残り金貨25枚(250万円)は任務完了時に支払われる契約だ。


 しかし、ヘンリック氏はあくまで「代理」であり、財布の紐を握っているのはメルテにいるエリーゼ様本人だという。


「そんな……。じゃあ、メルテに戻るまで一銭も入らないんですか?」

「ええ。私自身、旅費や必要経費としての現金しか預かっておりませんから」


 私はよろよろと近くの街灯に手をついた。

 現在の借金プールの残高は約90万円。時間に換算して残り1日半程度だ。


 ここからメルテまでは、順調に進んでも数日はかかる。途中でプールが尽き、あの地獄のような生命力徴収が始まることは確実だった。


「あの……カイトさん」


 隣で心配そうに私の顔を覗き込んでいるのは、同じく借金奴隷のリナだ。彼女の獣耳が不安げに伏せられている。


「私、借金を増やしましょうか?」

「は?」

「ここにも商工ギルドの窓口があります。私が一時的に借入額を増やして、その分をカイトさんにお渡しすれば……」

「馬鹿なことを言うな!」


 私は即座に声を荒らげ、リナの言葉を遮った。

 道行く人々の視線が集まるが、構っていられない。私は声を潜め、彼女の目を見据えて言い聞かせた。


「いいか、リナ。自分の身をなんだと思ってるんだ。これ以上、安易に借金を増やすような真似は絶対に許さない。自分の身はもっと大切にしろ!」

「でも、カイトさんがお困りなのに、私だけ平気な顔なんてできません!」

「気持ちだけ受け取っておく。……そもそもだ」


 私はため息交じりに頭を掻いた。


「私たちのような『借金奴隷』に、ポンと大金を貸してくれるような奇特な商売相手が、そうそういるわけがないだろう。お前の借金枠だって、もう限界近いはずだ」


 リナは唇を噛み締め、悔しそうに俯いた。

 とにかく金だ。金が必要なんだ。数時間でも数万円でもいい、寿命を買い足さなければならない。


 私は顔を上げ、目の前の商工ギルドを見上げた。

 ここに入って掲示板を見れば、もしかしたら短時間で終わる割りのいい依頼があるかもしれない。


「ちょっと依頼を見てくる」


 そう言って歩き出そうとした瞬間、背後から鋭い声が飛んできた。


「カイトさん、待ちなさい!」


 振り返ると、ヘンリック氏が真剣な眼差しで私を見据えていた。


「まさかとは思うが、今の状況で別の依頼を受けるつもりですか?」

「い、いや、少し小遣い稼ぎができればと……」

「ふざけないでいただきたい」


 ヘンリック氏は1歩踏み出し、私とギルドの入り口の間に立ちはだかった。


 彼は眼鏡の位置を直し、諭すように、しかし氷のように冷徹な論理で言葉を紡いだ。


「カイトさん、貴方は今、私と契約中だという自覚がおありですか? 我々の契約はメルテへの帰還までを含みます。貴方の時間は、すでに私が買っているも同然なのです」


 正論だった。私は思わず言葉に詰まる。

 ヘンリック氏は、私の目を逃がさないようにじっと見つめ続けた。


「それなのに目先の金欲しさに別の仕事に手を出し、もし怪我をしたり無駄に体力を消耗したりして、いざという時に私の護衛がおろそかになったらどう責任を取るおつもりですか?」

「それは……」

「それは明確な契約不履行であり、プロとしての職務放棄だと言われても反論できませんよ。事情は汲みますが、優先順位を履き違えないでください」


 ……返す言葉もなかった。

 焦りのあまり、護衛として、プロとして最も基本的なことを忘れていた。


「……おっしゃる通りです。申し訳ありませんでした」


 私は深々と頭を下げた。


 ヘンリック氏も、私が素直に非を認めたことで毒気を抜かれたのか、ふう、と息を吐いて表情を緩めた。


「わかっていただければ結構です。カイトさんの腕と判断力は買っていますからね。……今日はもう遅い。この街で1泊して、明日の早朝に出発することにしましょう」

「はい。……ありがとうございます」


 険悪な雰囲気にならずに済んだことには安堵したが、懐事情が変わったわけではない。


 むしろ、手持ちの現金すら尽きかけている現状では、宿代など捻出できるはずもなかった。


 ヘンリック氏は街のちゃんとしたホテルに向かったが、借金奴隷の私たちに、追従する余裕はない。


「私たちはこっちだ」


 私がリナを連れて向かったのは、ヘンリック氏が馬車を預けた宿の裏手、馬小屋だった。


 本来、御者や従者が寝泊まりするために開放されているスペースで、ここなら無料で雨風をしのげる。


 藁が敷き詰められただけの簡素な寝床。そこには、ここまで私たちの馬車を引いてきた馬たちも繋がれている。馬の体臭と乾いた草の匂いが充満していた。


「悪いな、リナ。こんなところで」

「いいえ! カイトさんと一緒なら、どこでも平気です。それに、馬さんたちが一緒なら暖かいですし」


 リナは健気にも微笑んで、藁の上にちょこんと座った。


 その笑顔が、逆に私の胸を締め付ける。

 私は藁の上に横になり、薄暗い天井の梁を見上げた。


(明日の朝には出発だ。……帰りの道中で、必ず『徴収』が来る)


 その恐怖と、リナを巻き込んでしまう申し訳なさに押しつぶされそうになりながら、私は重い疲労感と共に目を閉じた。



 †



 深夜。

 馬小屋の中は静寂に包まれていた。時折、馬が鼻を鳴らす音だけが響く。


 規則正しい寝息を立てるカイトさんの横で、リナは静かに身を起こした。


 カイトさんを起こさないよう、藁が音を立てないように慎重に動く。


(カイトさんは、ああ言ったけれど……)


 脳裏に浮かぶのは、金策に悩み、苦しそうにしていたカイトさんの顔。そして、ヘンリックさんに叱責され、頭を下げていた姿。


 あんなカイトさんを見るのは辛い。

 自分の身を大切にしろと言われた言葉は嬉しかった。胸が熱くなった。


 けれど、それ以上にカイトさんの力になりたかった。カイトさんに死んでほしくなかった。


「……行ってきます、カイトさん」


 リナは音もなく馬小屋を抜け出した。

 夜風が銀色の髪を揺らす。

 目指す先は商工ギルド。


(私一人でできる、高額な依頼があれば)


 それがどんなに危険なことでも構わない。早朝までに終わらせて、お金を作って戻ってくればいい。


 カイトさんに叱られるかもしれない。でも、彼を失うよりはずっといい。


 月の光が、決意に満ちた、しかしどこか危うい少女の背中を照らしていた。

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