第31話:沈黙の廃都と、計算外の空白
馬車の車輪が、砕けた石畳の上で乾いた音を立てて停止した。
私は荷台の囲いに手をかけ、地面へと飛び降りる。着地の衝撃で痺れた足をさすりながら、空を見上げた。
太陽はまだ高く、今日中に到着するという大まかな目標は達成できたようだ。
「ふう……なんとか、予定通りの日程だな」
道中、盗賊や巨大狼との遭遇というイレギュラーはあったものの、結果だけ見れば3日目での到着だ。
私は御者台から降りてくるヘンリック氏と、続いて荷台からひょいと飛び降りたリナに声をかける。
そして、改めて目の前に広がる光景、かつて『王都ロストリア』と呼ばれた場所を見上げた。
そこは、圧倒的な「静寂」に支配されていた。
かつて数万の人々が生活していたであろう巨大な都市の痕跡。だが今の私の目に映るのは、風化し、崩れ落ちた灰色の墓標の群れだ。
以前、私が訪れたことがある現在の王都は、白亜の城壁が輝き、活気に満ちた喧騒が絶えない場所だった。
整然と並ぶ石造りの建物、色とりどりの看板、行き交う人々の熱気。それこそが王都の姿だと信じていた私にとって、目の前の光景はあまりにも異質だった。
かつて大通りだった場所は、ひび割れた石の隙間から伸びた雑草に浸食され、緑の絨毯へと変わり果てている。
建物の多くは屋根を失い、空に向かって肋骨のような梁を突き出していた。黒ずんだ石壁には苔が張り付き、かつて華やかだったであろう装飾のレリーフは、何が彫られていたのか判別もつかないほどに摩耗している。
風が吹くと、廃墟の隙間を通り抜ける音が、まるで亡霊の嗚咽のようにヒューヒューと響いた。今の王都が「陽」であるなら、ここは完全なる「陰」。
壮大でありながら、どうしようもない寂寥感が漂うこの場所は、栄華を誇った文明が土へと還っていく過程をまざまざと見せつけていた。
「……すごい場所ですね。なんだか、悲しい感じがします」
隣に立ったリナが、狐耳をペタリと寝かせて呟く。私も無言で頷くしかなかった。
だが、ふと疑問が浮かぶ。これほどまでに死の気配が濃厚な場所で、なぜあの華やかで我儘な『皇帝薔薇』が生まれたのだろうか。
私の視線に気づいたのか、考古学者であるヘンリック氏が、眼鏡の位置を直しながら崩れた城壁の一部を愛おしそうに撫でた。
「不思議そうな顔をしていますね、カイトさん。なぜこのような廃墟が、あの薔薇の故郷なのかと」
「ええ、正直なところ。今の王都とは似ても似つかない環境ですから」
「ふふ、歴史の皮肉というものでしょうな」
彼は遠くを見つめるように目を細め、学者としての顔つきで静かに語り始めた。
「この旧王都が放棄されたのは、今から約300年前のことです」
ヘンリック氏は杖の先で、彼方に見える崩れ落ちた宮殿を指し示す。
「当時の宮廷魔術師たちが、国を富ませるために行った大規模な地脈操作の儀式。その失敗がすべての原因とされています」
「儀式の、失敗ですか」
「ええ。制御を失った地下深くの『竜脈』が暴走し、この土地全体が過剰な魔力に飲み込まれました。さらに儀式の反動で生じた特殊な瘴気が、都市全域を汚染したのです」
彼は悲しげに首を横に振った。
「結果、人は住めなくなり、都は捨てられました」
壮絶な過去だ。私は足元の地面を見る。かつての人々の営みが、この土の下に埋もれているのだろうか。
ヘンリック氏はゆっくりとしゃがみこむと、その足元の土をそっと指先でつまみ上げた。
「ですが、その『汚染』こそが鍵でした」
「鍵?」
「通常の植物にとっては猛毒となる過剰な魔力と瘴気が、長い年月をかけて土壌と混ざり合い、他にはない特異な栄養素へと変質していったのです」
パラパラと、乾いた土が彼の指の間からこぼれ落ちる。
「皇帝薔薇は、その変質した特殊な魔力土壌に適応し、毒を鮮やかな色彩へと変えることで生き残った変異種なのです」
「毒を、美しさに変えた……と?」
「ええ、左様です。今の王都の清浄な土では、皇帝薔薇が本来の輝きを失ってしまうのはそのためです」
彼はパンパンと手の土を払い、立ち上がった。
「彼らにとって必要なのは、綺麗な水や肥料ではなく、かつての文明が滅びる際に撒き散らした、この『傷跡』そのものなのですから。滅びの記憶を吸い上げて咲く花……それが皇帝薔薇の正体なのです」
なるほど、と私は唸った。
ただ美しいだけの花ではない。この廃墟そのものが、巨大な植木鉢のようなものだったわけか。あの気難しさも、過酷な環境を生き抜くための防衛本能なのかもしれない。
「さあ、作業に取り掛かりましょうか」
ヘンリック氏は荷台の幌を開けながら言った。
「今回の里帰りは、弱った個体を救うための治療ではありません。本来の環境であるこの土地の気を吸わせ、活力を維持するための定期的なメンテナンスのようなものです」
彼は木箱の中を指さした。中の薔薇たちは、まだ興奮が冷めやらぬ様子で棘を逆立てている。
「現に、彼らは数時間前に盗賊を撃退したばかりで、むしろ血気盛んでしょう? ですから、今回はこの『代表団』にたっぷりと故郷のエネルギーを吸収させて持ち帰るのです」
「持ち帰る、ですか?」
「ええ。エネルギーを溜め込んだ彼らを再び屋敷の庭に植え戻すのです。そうすれば、その余剰エネルギーが周囲の留守番をしていた薔薇たちにも伝わり、一族全体が活性化するのですよ」
なるほど、物理的なバッテリーのような役割を担っているわけか。
私たちは指示に従い、持参した皇帝薔薇をすべて荷台から降ろし、廃墟の土へ植え替える作業を開始した。
作業は順調だった。これなら、すぐに帰路の準備に入れるだろう。
額の汗を拭いながら、私はヘンリック氏に声をかけた。
「順調ですね。このペースならすぐに植え替え終わります。一息ついたら、すぐに帰りの支度を」
「おや、何を言っているのですかな?」
ヘンリック氏はきょとんとした顔で私を見た。
「植え替えてすぐに動かしては意味がありませんよ? この子たちが土壌のエネルギーを限界まで吸収し、他へ分け与えられるほどに満たされるまで待たなければ。最低でも丸1日、この状態で定着させる必要があります」
「……はい?」
私の手が止まった。
今、なんて言った? 最低でも、丸1日?
「え、あ、つまり……今日はここで一泊して、明日回収するってことですか?」
「ええ、当然でしょう。十分に精気を溜め込む前に引き抜いてしまっては、屋敷にいる同胞たちへ分け与える分がなくなってしまいますからな」
サーッと、私の顔から血の気が引いていくのがわかった。
いや、専門的なことはわからない。彼の言うことが正しいのだろう。
だが、私の脳内の計算には、その「1日」は計上されていない。
往復の日数は完璧に計算していた。だが、現地での『滞在時間』を、私は移動の小休止程度にしか考えていなかったのだ。
1日滞在が伸びる。それは単に帰りが遅くなるという話だけではない。
私の思考の隅で、金貨がチャリンチャリンと音を立てて崩れ落ちていくイメージが浮かぶ。
借金の利息……。
私が確保していた利息返済用のプール金は、今回の報酬の半額である金貨25枚(2,500,000円)分だ。
現在の残高は、約195万円。日数にして残り3日と13時間分ほど。
ここからメルテへの帰路は、順調にいって丸3日かかる。
つまり、すぐに帰れば半日分ほどの余裕を持って到着できる計算だった。
しかし、ここで「丸1日」滞在したら?
3日と13時間の猶予から、滞在で1日(24時間)が消える。残りは2日と13時間。
帰るのに必要な時間は3日(72時間)。
足りない。
計算上、帰りの道中、あと半日というところでプール金が尽きる。
その瞬間に待っているのは、あの悪夢のような「生命力徴収」だ。
心臓を鷲掴みにされるような激痛に襲われ、寿命そのものがゴリゴリと削られていく。そんな状態で、まともに馬車旅など続けられるわけがない。
「ま、まずい……」
いや、落ち着け。
ここですぐに利息分を支払えばいい。ヘンリック氏に頼んで前借りを……いや、金があっても意味がない。
ここは廃墟だ。
ここには、商工ギルドのカウンターもなければ、あの忌々しい水晶板の端末もない。
私の経験上、借金の返済は、ギルドの窓口で現金を渡すか、専用の端末に硬貨を読み込ませない限り、絶対に受理されない。物理的に、あの場所に金を納めなければならないのだ。
つまり、ギルドの支部が存在しないこの場所では、たとえ山のような金貨を持っていたとしても、1円たりとも利息を止めることは不可能なのだ。
私は慌てて周囲を見渡した。
崩れた壁。苔むした石。風に揺れる雑草。
文明の利器など、300年前に消滅している。
つまり、ここで一泊している間、私は物理的に返済ができない。
そして時間が経てば経つほど、私の命綱であるプール金は確実に削られていく。
早く帰って拠点の街で支払うか、旧王都で支払いができないと、私は帰りの道中で激痛にのたうち回り、野垂れ死ぬことになる。
「……詰んだ?」
美しく咲き誇る薔薇と、静寂に包まれた廃墟の中で私だけが一人、冷や汗にまみれていた。
このままでは、報酬をもらう前に利息であの激痛に襲われる。
しかし、解決策など、どこにも見当たらなかった。




