第3話:命の対価
昨夜の騒動から一夜明けた朝、私を待っていたのは希望ではなく、鉛のように重い肉体と、焦げ付くような胸の痛みだった。
目覚めた場所は、昨日放り込まれた薄暗いタコ部屋の一角だ。
身体を拘束するものは何もない。だが、逃げることなど不可能だということは、身体の芯から絶え間なく失われていく「熱」が教えてくれている。
「……ッ、体が重い」
起き上がろうとしただけで、激しいめまいに襲われた。
ただの疲労ではない。契約という見えない鎖が魂に食い込み、脈打つごとに指の隙間から砂がこぼれるように生命力が奪われていく感覚がある。
これが『利息』か。
契約に基づき、毎秒約6.36円。
この止まることのない微小な加算は、金銭で払えない分を私の生命力そのもので徴収し続けているのだ。
チリも積もれば山となる。
1分で約380円。1時間で約2万3千円。そして24時間で約55万円。
まだ24歳という働き盛りの肉体を持ってしても、この枯渇感は異常だ。眠っている間も、呼吸をしている間も、私の命は秒刻みで金に変換され、吸い上げられている。
「おい、新入り! いつまで寝ているんだ!」
看守の怒号と共に、私は施設の中庭にある『労働斡旋掲示板』の前へと引きずり出された。
「職探し」とは名ばかりの、処刑方法の選択に近い。
私が震える指で選んだのは、建設現場での資材運搬だった。
肉体を酷使するが、即金性が高い手堅い仕事だ。
だが、現実は無慈悲だった。
日が落ち、終了の鐘が鳴る頃、私は手にした日当――銀貨1枚と銅貨2枚を握りしめ、ギルドの一角にある『返済窓口』の前に立っていた。
窓口には鉄格子越しに無愛想な係員が座っており、手元には水晶のような魔道具が置かれている。
私が硬貨を差し出すと、係員はそれをトレイに放り込み、魔道具を操作した。水晶の表面に、怪しげな光文字が浮かび上がる。
「……お前のような『迷い人』には、こっちの表記の方が見やすいか」
係員が水晶をこちらに向ける。そこには、私の魂に刻まれた負債状況が、日本円へと換算されて表示されていた。
> 所持金:銀貨12枚
> (日本円換算:約12,000円)
>
以前の貧しい生活なら十分な額だ。だが、この借金地獄においては、紙屑同然だった。
続けて表示された数字を見た瞬間、全身の血の気が引いた。
> 本日の発生利息:264,800円
> 利息充当状況:全額生命力徴収済
>
「……は?」
半日働いている間に積み上がった利息、約26万円。
それはすでに、1秒ごとの激痛と共に私の「命」で支払われていた。手元に残った金で払う余地などなかったのだ。
係員は無表情に帳簿へ書き込みを行う。私の稼ぎは、巨大な借金の砂漠に一滴の水を垂らしただけで消えた。
> 入金確認:12,000円
> 処理:本日分の生命力奪還へ充当
> 不足分(生命力欠損):252,800円
>
「はっ、ぐぅ……!」
膝から崩れ落ち、視界が暗転しかけたその時だ。
「おや、初日から満身創痍ですか? 期待外れですね」
頭上から降ってきたのは、慇懃無礼な声だった。
見上げると、そこには片眼鏡をかけたスーツ姿の男――私にこの理不尽な借金を宣告した債権者が立っていた。
「……あんたは」
「そんな端金の仕事を選んでいるようでは、永遠にその痛みから解放されませんよ。コップの水はすでに満杯なのですから」
男は片眼鏡を光らせ、手にした羊皮紙を私の目の前に広げた。
そこには、現在の私のステータスが詳細に記されている。
「5,492万1,437円。これが、あなたの魂が崩壊せず、かつ廃人になる寸前で耐えられるギリギリの限界値です。1円でも多く乗せれば、あなたの魂は砕け散ってしまう」
言われなくとも分かっている。私の借金は、魂が耐えられる限界――約5,500万円に達している。
だからこそ、これ以上借金を増やす余地がなく、毎秒発生する利息が、即座に私の寿命を削っているのだ。
「そこで、特別に『割のいい』仕事を紹介しましょう。魔導炉の廃棄スラッジ清掃。日当は金貨10枚(約100万円相当)です」
男が差し出したのは、赤い依頼書だった。
100万円。1日の利息である約55万円を大きく上回る金額だ。
「もし、毎秒発生する利息の総額を上回る金額を返済できた場合……徴収された生命力を取り戻すことができます」
「取り戻す……?」
「ええ。返済の優先順位は絶対です。第一に『利息(生命力の奪還)』、そして第二に『元金の返済』。金で利息を払い直せば、担保として取られていた命は返還される。つまり、金を払えば健康な体に戻れるのです」
男は薄く笑った。
「まずは稼ぎなさい。元金を減らすことができるのは、削れた命を全て買い戻し、五体満足に戻ってからだけですよ」
私は震える手で、その赤い紙を掴み取った。
†
翌朝。
私は激しい頭痛と共に目を覚ました。
立ち止まることは許されない。頭の中で秒数を数えれば、今この瞬間も自分の命が6円ずつ安売りされている計算になる。
連れてこられたのは、都市の地下深くにある巨大な魔導施設だった。
鼻をつく異臭と、肌を焼くような熱気。
「お前たちが今回の『消耗品』か。……顔色が悪いな」
現場の入り口で、私たちを見下ろす女性がいた。
艶やかな金髪を完璧な縦ロールにまとめ、深紅のドレスの上に作業用の上着を羽織っている。
エリーゼ・フォン・アルニム。この魔導炉を管理する貴族の令嬢であり、今回の依頼主らしい。
年齢は私と同じか、あるいは少し下……20代の前半といったところだろうか。氷のように冷たい青い瞳と、意志の強さを感じさせる唇。
本来なら私のような借金奴隷が直視していい相手ではないが、その凛とした美貌は、不覚にも私の理想そのものだった
。
「勘違いしないで頂戴。私はあなたたちの命などどうでもいいの。ただ、炉のコアを傷つけられると困るだけよ。……さっさと行きなさい」
ツンデレのヒロインにいそうな彼女の冷徹な一瞥を背に受けて、私は排気ダクトの中へと潜り込んだ。
ダクト内は地獄だった。
こびりついた魔力のヘドロが、肌に触れるたびに焼けるような激痛をもたらす。
「うぅ……っ、重い……」
隣で弱々しい声を上げたのは、私と同じ作業班に割り当てられた一人の少女だった。
頭には狐のようなふさふさとした耳、お尻からは長い尻尾が生えている。獣人族だ。
名前は確か、リナと言ったか。
その姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。
薄汚れた作業着の下から覗く手足は折れそうなほど細く、その顔立ちは幼いながらも驚くほど整っている。
どう見ても10歳にすら届いていないのではないか。
大きな琥珀色の瞳と、泣き出しそうなのを必死に堪える表情。
転生前の世界で私が好んでいたゲームキャラクターを彷彿とさせる、強烈な庇護欲を掻き立てる可憐さがあった。
「が、あぁぁぁッ!」
前を行く男が悲鳴を上げて崩れ落ちた。魔力中毒だ。
男の体が光の粒子となって崩壊していく。
リナが恐怖で足を止めた。
「ひっ……!」
「止まるな! 死ぬぞ!」
私は思わずリナの腕を掴み、強引に前へと進ませた。
ここで彼女が止まれば、彼女も死ぬし、後ろにいる私も巻き添えを食う。
利息による生命力の減少と、環境によるダメージ。思考が焼き切れそうだ。
(稼げ……稼がないと、死ぬ……!)
皮膚がただれ、爪が割れる。
口の中に血の味が広がる。
それでも私は、震えるリナを叱咤しながら、狂ったようにヘドロを掻き出し続けた。
地獄のような時間が終わり、生きて地上に戻れたのは、私とリナを含めて半数だけだった。
出口で待ち構えていたエリーゼが、ボロボロになった私たちを一瞥し、わずかに眉をひそめた。
「……ふん、意外としぶといのね」
彼女は従者に指示し、報酬の入った革袋を私たちに投げ渡した。
小さな革袋に入った、金貨10枚。
手のひらに収まる量だが、その価値は日本円にして約100万円。
私の命を繋ぐ、重すぎる輝きだ。
その足で、私は債権者の男が待つ執務室へと向かった。
1秒ごとに襲ってくる魂の激痛に耐えながら、私は祈るような気持ちで、稼いだ金貨の袋を男のデスクへ叩きつけた。
「……払いに来たぞ」
「ほう、生きて戻りましたか」
男は優雅な手つきで袋を開け、中身を確認すると、満足げに頷いた。
そしてデスク上の魔道具――高価な石板に手をかざす。
「金貨10枚。確かに受け取りました」
石板が淡く発光し、計算結果が表示される。
> 入金確認:金貨10枚(1,000,000円)
> 優先処理1:本日の発生利息支払い(置換)
> 支払額:549,504円
>
「今日一日、毎秒あなたが命で払っていた利息……それをこの金で『払ったこと』に書き換えます」
男がそう告げた瞬間、身体の奥底で燻っていた痛みが、嘘のように消え去った。
すでに徴収されていた生命力が、対価として支払われた金と引き換えに還流してくる。まるで泥水を真水に入れ替えたような、劇的な回復。
> 処理結果:生命力の奪還(当日分) 完了
> 残り資金:450,496円
>
「ふぅ……っ」
私は大きく息を吸い込んだ。
肺の痛みが消えている。手足の痺れもない。
死にかけた身体が、金によって新品同様に修復されたのだ。
「さて、あなたは生き返った。残りの金はどうします? 次回の利息のためにプールしておきますか? それとも……」
「……元金だ」
私は迷わず告げた。
プールしておけば、明日は楽ができる。だが、それでは何も変わらない。
この呪いのような元金を、1円でも減らさなければ未来などないのだ。
「元金を減らせ」
「気が早いですね。……忘れていませんか?」
「……何のことだ?」
男が冷ややかに指摘する。
私が元金返済を指定しようとした瞬間、石板に警告のような赤い文字が浮かんだ。
「返済の優先順位は絶対だと言ったはずです。元金よりも先に、返すべきものがあるでしょう?」
男が指さしたのは、昨日発生した未払いの利息――
つまり、昨日私の命で支払ったままになっている負債だ。
「昨日の利息発生額は26万4,800円。対してあなたの返済額は1万2,000円。差引額、25万2,800円。……この未払い分は、現在あなたの生命力によって補填されています」
男は感情のこもらない声で、正確な数字を突きつけた。
「元金を減らしたいのなら、まずはその25万2,800円を支払って、過去の自分を救済しなさい」
「……ッ、それもか!」
「当然です。すべての『命の負債』を金に変えてからでなければ、元金には指一本触れさせませんよ」
男が指を鳴らすと、手元の石板の数字が強制的に書き換わる。
私の意志など関係ない。これは絶対のルールなのだ。
> 優先処理2:過去の生命力欠損の補填(奪還)
> 支払額:252,800円
> 処理結果:生命力の奪還(前日分) 完了
> 残り資金:197,696円
>
全身にさらに力がみなぎる感覚がある。昨日の疲労すらも消え去った。
だが、その代償として手元の資金はごっそりと減っている。
「さあ、これでようやく身体は完済だ。残り19万7,696円。どうしますか?」
「……元金だ」
私は歯を食いしばって唸った。
100万稼いでも、元金に届くのはたったこれだけなのか。
> 優先処理3:元金返済
> 支払額:197,696円
> 元金:54,921,437円 → 54,723,741円
>
その文字を見た瞬間、私はその場に大の字に寝転がった。
100万円相当という大金を稼ぎ、死に物狂いで働いた。
まずは今日と昨日の自分を買い戻し、その残りでようやく、膨大な元金のごく一部を削り取ったに過ぎない。
だが、確かに一歩進んだはずだ。
次の瞬間、いつもなら心臓を鷲掴みにされるような冷たい痛みが走るはずだった。
……痛くない。
私は恐る恐る、男のデスクにある石板を見上げた。
> 借金残高:54,723,741円
> (1秒経過)
>
> 利息発生:6.21円
> 処理:元金へ加算(生命力徴収なし)
> 借金残高:54,723,747円
>
カチリ、と石板の中で数字が動く音が聞こえた気がした。
だが、あの身を焦がすような苦痛は走らない。
ただ、目の前の数字が増えただけだ。
「……そうか」
私は悟った。
魂の限界値に対して、元金を減らして作った約20万円分の「空き」。
この空き容量が再び毎秒の利息で埋め尽くされるまでの約9時間だけ、私は「ただ借金が増えるのを見ているだけ」で済むのだ。
それは解決ではない。
だが、この地獄で初めて手に入れた「血を流さなくていい休息」だった。
私は増え続ける数字を見つめながら、泥のように眠りに落ちた。




