第25話:金貨50枚の契約と、買われた時間
翌朝。
私は、今朝の「太腿の一件」で落ち着かない股間と罪悪感を無理やりねじ伏せ、スラムのあばら家を後にした。
隣を歩くリナは、どこか余所余所しい。顔を赤くし、時折恐る恐る私の腰のあたりに視線を向けてくる。
私の生理現象に気づいているのか、それとも何か別の危険物でも隠し持っていると警戒しているのか。どちらにせよ、訂正する勇気も気力も私にはなかった。
朝の冷気が火照った頭を冷やしてくれる。
私たちは無言のまま通りを抜け、足早に商工ギルド・メルテ支部へと向かった。
早朝のギルドロビーは、依頼を求める冒険者や商人でごった返していた。だが、私たちが受付に近づくよりも早く、奥から見慣れたスーツ姿の男が現れた。
ギルド幹部のクラウスだ。
「お待ちしておりました、カイト様、リナ様。こちらへ」
まるで私たちの到着を予知していたかのような手際の良さで、一般人が立ち入れない2階の特別応接室へと通される。
深紅の絨毯。革張りのソファ。以前、借金の猶予交渉をした時と同じ、嫌な汗が出る部屋だ。
クラウスは向かいに座ると、無駄な世間話を一切挟まず、1枚の羊皮紙をテーブルの上に滑らせた。
「エリーゼ様からの『指名依頼』です。まずは条件をご確認ください」
私はリナと共に、羊皮紙に視線を落とす。
そこに記されていたのは、あまりに簡潔な内容と、私たちのようなEランク相当の人間には不釣り合いな数字だった。
【依頼種別:要人護衛および指定地点への輸送】
【依頼主:エリーゼ・フォン・アルニム】
【報酬額:1人につき金貨50枚(5,000,000円)】
※別途、必要経費は全額支給。
「……1人、金貨50枚?」
私は思わず顔を上げた。
2人合わせて金貨100枚。日本円にして1,000万円だ。
前回の「月光草採取」で得た報酬の5倍。
リナに聞いてみたが、金額だけ見れば、中堅以上の実力者が受けるBランク相当の案件らしい。私たちのような最底辺の借金奴隷や、Eランク相当の駆け出しに提示される額ではない。
隣でリナも息を呑んでいるのが気配でわかる。
「桁が間違っているんじゃないか? それとも、この金額に見合うだけの『死地』へ行けと?」
私が低い声で問うと、クラウスは予想していたように薄い笑みを浮かべ、首を横に振った。
「ご安心ください。この金額は、3つの『特殊な事情』を考慮した適正な価格です」
彼は指を1本立てる。
「1つ目に『緊急性』への対価。今回の依頼は本日の正午に出発し、片道約3日の行程を予定しています。本来、この規模の護衛任務には数週間の選定期間を設けますが、今回は今すぐにでも出発できる人材が必要です。正規の手続きを飛ばし、貴方たちの時間を即時拘束するための特急料金が含まれています」
片道3日。往復で6日。
私の脳内で計算が走る。今の私の利息は1日約55万円。6日で約330万円が消える。報酬が500万円なら、手元に残るのは170万円程度。……悪くない。
もしこれが4日以上かかれば、往復のリスクや滞在費で利益は薄くなり、何かトラブルがあり拘束時間が延びれば、利息の支払いに不足するところだった。片道3日なら、ギリギリ黒字が見込めるラインだ。
クラウスは私の思考時間を待ってから、2本目の指を立てた。
「2つ目に『危険度』への対価。今回のルート上では、直近の魔力嵐の影響で生態系が不安定になっており、通常よりも強力な魔物と遭遇する可能性があります。そのため、少数精鋭で脅威を排除、あるいは回避できる実力者への危険手当を上乗せしました」
「……なるほど。だが、それだけじゃ50枚には届かないはずだ」
私の指摘に、クラウスは満足げに頷き、声を一段低くした。
「ええ、その通りです。そして3つ目、これが最も重要ですが……『秘匿性』に対する対価です」
「秘匿性?」
「はい。この依頼はアルニム家の内部事情に深く関わります。失敗はもちろん、内容が外部に漏れることすら許されません。成功した暁には、貴方たちにはこの件に関する『永遠の沈黙』を守っていただく」
クラウスの目が、冷ややかな光を帯びる。
「そのための口止め料、ひいては万が一の社会的制裁のリスクまで含んだ契約金とお考えください」
緊急、危険、そして口封じ。
単なる護衛任務ではない。これは、貴族の家の事情という、泥沼に足を踏み入れるための通行料だ。
私は動揺を隠し、羊皮紙の最後にある一文を指差した。
「この『必要経費』というのは、具体的に何が出るんだ? 私たちは貧乏暮らしが長い。貴族の旅に何が必要なのか、見当もつかないんだが」
「もっともな疑問です」
クラウスは手元の資料に視線を落とし、すらすらと読み上げ始めた。
「今回は隠密行動となるため、身分を偽装するための衣服や装備品。カモフラージュ用の商隊馬車の手配費用。そして長旅に耐えうる保存食や、野営用具一式の購入費。これら全てを依頼主側で負担します」
「……随分と至れり尽くせりだな」
「それだけ失敗が許されないということです」
私は腕を組み、クラウスを睨みつけた。
条件は破格だ。だが、肝心な点が抜けている。
「条件は分かった。だが、なぜ『私たち』なんだ? 2人合わせて金貨100枚も出せるなら、本職の凄腕冒険者を雇えばいい。わざわざ素人に毛が生えた程度の俺たちを指名する合理的な理由がない」
私の問いに、クラウスは待っていましたとばかりに深く頷いた。
「理由は2つあります。1つは、カイト様、貴方の『適性』です」
「適性?」
「ええ。今回の護衛対象には、あの『皇帝薔薇』も含まれています。エリーゼ様以外で、あの薔薇の機嫌を損ねずに世話ができる人間は、現状カイト様しかおりません」
あの我が儘な植物か。私は思わず天を仰ぎたくなったが、確かにあの薔薇はなぜか私にだけは懐いている。
「そしてもう1つは……皮肉なことですが、貴方たちの『立場』です」
クラウスの声のトーンが少しだけ落ちる。
「高ランクの冒険者は、得てして特定の派閥や貴族と繋がりを持っています。ですが、貴方たちはしがらみを持たない。そして何より、商工ギルドの『借金契約』という絶対的な鎖に繋がれている」
「……裏切ればどうなるか、1番よく理解しているから、か?」
「ご名答です。貴方たちほど口が堅く、信用できる人材はいないという判断です」
褒められている気が全くしないが、理屈は通っている。
だが、その時だった。
「お断りします!」
鋭い声が響いた。
それまで黙っていたリナが、バンとテーブルを叩いて立ち上がっていた。
「リナ?」
「カイトさん、これはダメです。危険すぎます!」
リナは私ではなく、クラウスを睨みつけていた。その瞳には明確な怒りが宿っている。
「先ほど、強力な魔物が出る可能性があるとおっしゃいましたよね? 金貨50枚なんて報酬が出る魔物……そんなの、私たちが太刀打ちできる相手じゃありません!」
リナの声が震える。彼女は野生の勘で、金額と「強力な魔物」という言葉から、その脅威度を察したようだ。
「私だけならまだしも、カイトさんがいたら守り切れません! カイトさんは戦えないんです。ただの護衛ならともかく、そんな危険な場所にカイトさんを連れて行くなんて、絶対に承諾できません!」
リナの剣幕に、場の空気が凍りつく。
彼女は自分の命よりも、私の安全を最優先にしているのだ。大金すら、彼女にとっては私の命に比べれば紙切れ同然らしい。
だが、クラウスは動じなかった。
彼は冷めた紅茶を一口啜ると、静かに口を開いた。
「リナ様。おっしゃる通り、カイト様の戦闘能力は低い。Eランク程度の相手ならいざ知らず、今回想定される脅威に対しては、守られる側と言っていいでしょう」
「……っ、分かっているなら!」
「ですが、勘違いしないでいただきたい。今回の依頼は『殲滅』ではありません。『護衛』と『輸送』です。脅威とは戦うのではなく、避ければいい。カイト様には魔物避けの魔道具を持たせますし、戦闘はあくまで最終手段です」
「それでも、万が一ってことが……!」
「万が一、ですか」
クラウスは薄く笑い、言葉のナイフを突き立てた。
「では、このまま安全なドブさらいを続けて、カイト様を『確実な死』に追いやりますか?」
リナの言葉が詰まる。
「今のカイト様の借金は、通常の仕事では日々の利息すら払いきれない。元金どころか、不足分は毎日生命力から徴収され、いずれ衰弱死する。……それこそが、貴方が恐れる『万が一』ではありませんか?」
「それは……っ」
「この依頼を受ければ、当面の利息を払い、やろうと思えば元金すら大幅に減らせる。カイト様を真に救いたいのであれば、リスクを冒してでも『未来』を掴むべきではありませんか?」
リナが悔しげに唇を噛み、俯く。
彼女の震える拳が、その葛藤を物語っていた。反論したいが、正論すぎて言葉が出ないのだ。
私はため息を1つ吐くと、リナの肩に手を置いた。
「……リナ、私なら大丈夫だ」
「でも、カイトさん……」
「クラウスの言う通りだ。このままじゃジリ貧だ。それに、お前がいるんだろ? 私のことはお前が守ってくれる、そう信じてる」
私がそう告げると、リナは瞳を揺らし、やがて覚悟を決めたように顔を上げた。
「……分かりました。でも、カイトさんに指1本でも触れさせたら、私が相手を殺しますから」
「ええ、期待しておりますよ」
クラウスは満足げに頷いた。
だが、契約書を差し出す前に、彼はふと思い出したように指を鳴らした。
「ああ、そうです。カイト様。契約の前に、今の『現実』を直視していただいた方が、より決心が固まるでしょう」
クラウスが空中に手をかざすと、私たちの目の前に半透明のウィンドウが投影された。
【現在の借金状況】
借金総額:54,921,437円
(※魂の限界まで残り:0円)
将来利息プール:504,351円
次回、生命力徴収開始予測:約22時間後
現在の利息:毎秒 約6.36円
「昨晩の時点ではまだ余裕がありましたが、この12時間の睡眠と移動だけで、プールの残量は大きく目減りしました」
クラウスの指先が、空中のウィンドウをなぞる。
「時間にして残り22時間。もしこの依頼を受けずに帰れば、明日の朝にはプールが枯渇し、生命力徴収が始まります」
「……」
私は言葉を失った。
昨夜、必死の思いで稼いだ5万円も、一晩の安眠料として消え、さらに20万円以上がマイナスになっている。
これが、毎秒約6円という利息の暴力だ。
「ですが、この契約書にサインをすれば、前金として半額――金貨25枚を即時お支払いします」
金貨25枚。日本円にして250万円だ。
クラウスは悪魔のような笑みで、契約書と羽ペンを私の前に押し出した。
「死か、一発逆転か。選ぶのは貴方です」
私は迷わずペンを取り、契約書にサインをした。
続いてリナも、震える手でサインをする。
その瞬間、クラウスの手元にある革袋から、重々しい金属音が響いた。彼はそこから金貨の束を取り出し、私とリナの前に積み上げた。
「契約成立です。こちらは前金となります」
私は目の前の金貨25枚を鷲掴みにすると、クラウスを睨みつけた。
「……すぐに返済処理をしてくれ」
「承知いたしました。配分はどうなさいますか?」
「全額、利息の『プール』に入れてくれ」
私は即答した。元金を減らす誘惑に駆られるが、今は1秒でも長く生き延びるための「時間」が必要だ。
クラウスが手元の端末を操作すると、私のウィンドウの数値が書き換わった。
【本日の清算処理】
現在プール残高:504,351円(※経過時間12時間分の利息274,752円を減算済)
返済投入額:2,500,000円
【処理実行】
利息充当:完了
生命力回収:なし
【余剰金配分】
借金総額:54,921,437円(※変動なし)
将来利息プール:3,004,351円(約5日と11時間分)
約5日半の猶予。
だが、まだ安心はできない。今回前払いしてもらえたのは、報酬の半分のみだ。
(全額前払いしてもらえれば安心だったが、そこまで甘いわけがないか)
片道3日ということは、往復で6日かかる。もし現地で残りの報酬が支払われなければ、私は帰りの道中でプールが枯渇する。
魔物が蔓延る危険地帯で『生命力徴収』の発作が起きれば、それはそのまま死の危険を意味する。
「クラウス、確認だ。残りの報酬はいつ支払われる?」
「指定地点への到着時、現地にて即時お支払いします。現地のギルド出張所にて、今回と同様に利息プールへ充当することも可能です」
その言葉を聞いて、ようやく私は大きく息を吐き出した。
現地に着けば、残りの250万円でさらに日数を稼げる。それなら、帰りの道中で発作に怯えることもない。
ふと隣を見ると、リナも受け取った金貨をそのままクラウスに差し出していた。
「私も、お願いします……」
彼女の借金状況は私には見えない。だが、その表情が少しだけ安堵に緩んだのを見て、彼女もまた「時間」を買ったのだと分かった。




