第24話:冷たい絨毯と、朝の太腿
石畳を叩くブーツの音が、今日に限ってはひどく鈍重に響いた。
俺は大きく一つ息を吐き、無意識に眉間の皺を揉みほぐしながら、中央区のメインストリートを歩いていた。
本来なら、今の時間はギルド併設の酒場でエールを煽り、若い冒険者たちの喧嘩を拳骨で仲裁しているはずだった。汗と酒と鉄の匂いが充満するあの空間こそが、俺の居場所だ。
だが、今の俺が向かっている先は、そんな粗野な場所ではない。
街の一等地。磨き上げられた白亜の石壁に、瀟洒な装飾が施された四階建ての建物、商工ギルド・メルテ支部だ。
俺たちの冒険者ギルドが見下ろされているようなその威容に、俺はいつものように舌打ちしたい衝動を堪えた。
「……あぁ、気が重ぇ」
誰に聞かせるでもなく、本音が漏れた。
胃の腑が鉛を飲み込んだように重い。あの連中の、人を値踏みするような視線と、鼻をつく香水の匂いを思い出すだけで気が滅入る。
だが、行かないわけにはいかない。
冒険者ギルドの長として、この街の「財布」を握る連中に、昨日の報告を入れなければならないからだ。
商工ギルドの重厚な木製扉を押し開ける。
磨き抜かれたニスの匂いと共に、ひんやりとした空気が肌を撫でた。天井に埋め込まれた氷属性の魔石が、外の熱気を完全に遮断しているのだ。
静まり返ったロビーで、受付の女性職員が俺の顔を見るなり愛想よく微笑んだ。だが、その目は笑っていない。
冒険者ギルドの人間など、彼女たちにとっては野蛮な猛獣と同じだ。ただ、猛獣使いの許可証を首から下げているから、通されているに過ぎない。
「お待ちしておりました、ザイグ様。幹部のクラウスがお待ちです」
「……あ、ああ。わかった、感謝する」
俺は短く答え、案内されるままに奥の大階段へと向かった。
手すりには細やかな彫刻が施され、足元には深紅の絨毯が敷き詰められている。それが、俺のブーツにこびりついた泥を拒絶しているように感じる。
階段を上がるたびに、自分がこの場にふさわしくない異物であることを突きつけられているようだ。
通されたのは、最上階である4階の幹部執務室だった。
俺の執務室の三倍はありそうな広さ。壁一面の本棚には、難しそうな背表紙がびっしりと並んでいる。
部屋の中央、黒檀のデスクの向こうで、その男、クラウスは書類に目を落としていた。
「し、失礼いたしますッ!」
俺は帽子を脱ぎ、ドアの前で直立不動の姿勢をとってから、深く一礼した。
普段、部下の冒険者たちに向ける怒号とは似ても似つかない、裏返ったような猫撫で声。情けない話だが、こうするしかなかった。
クラウスはゆっくりと顔を上げた。細い眼鏡の奥にある瞳が、俺を射抜く。
その視線だけで、俺は反射的に背筋を伸ばし、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
「やあ、ザイグ殿。早かったですね」
「は、はいっ! お呼びとあらば、何をおいても馳せ参じますゆえ! この度は、お忙しい中お時間をいただき、誠に恐縮でございます!」
「どうぞ、おかけください」
クラウスが指し示した革張りのソファに、俺は縮こまるようにして浅く腰掛けた。
体重を預けるなんてとんでもない。このソファ一つで、俺の月給の何倍するのだろうか。汚したら首が飛ぶ。そんな下世話な計算が頭をよぎる。
クラウスは立ち上がりもせず、手元のペンを回しながら口を開いた。
「それで? 例の彼らの件ですが」
「はっ、はい! ご報告いたします! 本日は当ギルドの倉庫で、薬草の選別作業に従事させました! 報酬は銀貨5枚……危険のない、安全な仕事でございます!」
俺は膝の上で拳を握りしめ、言葉を選びながら報告した。
喉の奥から出かかった『まだ若い連中だ、あまり追い詰めるな』という本音を、理性で無理やり押し込む。
冒険者ギルドは荒くれ者の集団だが、その運営には莫大な金がかかる。依頼の仲介料だけでは、施設の修繕費や、街への被害賠償、そして国への上納金は賄えない。
その金の流れを握っているのが誰かなど、考えるまでもないことだった。
「結構」
クラウスの薄い唇が、三日月のように歪んだ。
まるで、よく芸を仕込んだ犬を褒めるような顔だ。
「彼らに過度な稼ぎを与えず、かといって潰しもしない。絶妙な塩梅です。やはり、荒事だけでなく『人を見る目』も確かだ」
「め、滅相もございません! ……あの男の実力は、せいぜいEランクの魔物が相手なら戦える程度……まともな依頼は荷が重いと判断いたしました。ですが、連れの獣人は筋がいいかと……!」
「ええ、ええ。もちろん、そのあたりは理解していますよ」
クラウスは愉快そうに頷き、紅茶のカップを口に運んだ。
その優雅な所作と、俺の擦り切れた革手袋。
テーブルを挟んだわずかな距離が、果てしない断崖のように感じられた。
「安心してください。明日はエリーゼ様からの『指名依頼』を用意しています。彼らには、引き続きこの街の経済のために貢献してもらいますよ」
「さ、左様でございますか! それは重畳……!」
「貴殿の協力には感謝しています。来期のギルド運営補助金についても、前向きに検討しておきましょう」
その言葉が出た瞬間、俺は条件反射で勢いよく頭を下げていた。
「は、ははーっ! ありがたきお言葉! 今後とも、冒険者ギルド一同、商工ギルド様のよしなに……!」
「退出してよろしいですよ。私はまだ、数字の整理がありますので」
クラウスはすでに興味を失ったように、再び書類へと視線を戻した。
俺は逃げるように席を立ち、何度も頭を下げながら部屋を出る。
重厚な扉が閉まり、カチャリというラッチ音が廊下に響いた瞬間――。
「……ッ、クソが!」
俺は誰にも聞こえない声量で毒づき、深紅の絨毯をブーツの底で踏みにじった。
「何が『絶妙な塩梅』だ、若造が……! 俺を飼い犬か何かと勘違いしてやがる……!」
胃の腑に溜まっていた泥のような感情が、口から溢れ出る。
さっきまでの卑屈な笑みは消え失せ、顔が熱くなるほどの屈辱感がこみ上げていた。
「ただの商売人が、偉そうにふんぞり返りやがって……! いつかそのすましたツラ、石畳に擦り付けてやるからな……!」
俺は拳を握りしめ、扉の向こうにいる男へ向けて、ありったけの呪詛を吐き出した。
だが、その怒りは虚空に消えるだけだ。壁を殴りつけることさえできない。もし壁に傷でもつければ、その修繕費を請求されるのは俺たちなのだから。
ふと、廊下の窓から、西側にある冒険者ギルドの建物が見えた。
古びて、あちこちガタが来ている俺たちの城。
だが、その城の土台を支えているのは、俺たちの誇りではなく、この白い建物からこぼれ落ちる金貨だという厳然たる事実。
「……チッ」
俺は大きく舌打ちをし、乱れた襟元を直した。
「やってらんねぇな、全く」
吐き捨て、俺は再び歩き出した。
激情は去り、後にはやるせない無力感だけが残る。
行きの時よりも、足取りはずっと重かった。
†
スラムのあばら家に、朝が訪れた。
板の隙間から差し込む朝日が、埃っぽい空気を照らし出す。私は重い瞼をこすりながら、意識を浮上させた。
「ん……」
隣を見ると、リナがまだ安らかな寝息を立てていた。
薄汚れた毛布から、無防備な手足が投げ出されている。
そして、その蹴飛ばされた毛布の隙間から、彼女の白い太腿が露わになっていた。
「……ッ」
私の視線は、磁石に吸い寄せられるようにその一点に固定された。
健康的で、柔らかそうな肉付き。銀色の体毛が朝日に透けて輝いている。
昨晩の記憶――同じ布団で眠ったという事実と、目の前の無防備な姿が脳内で化学反応を起こし、私の下半身は意思とは無関係に熱を持ち、大きく膨れ上がっていた。
(……私は、何を考えているんだ)
激しい自己嫌悪と、それ以上の衝動が私の中でせめぎ合う。
相手は見たところ、まだ10歳そこそこの子供だ。私は24歳。元の世界なら犯罪どころの話じゃない。理性では分かっている。
だが、この過酷な異世界で、明日をも知れぬ命を削りながら生きている今、この温もりだけが私の心を繋ぎ止めているのも事実だ。
彼女は私を信頼してくれている。その信頼を裏切るような行為は許されない。けれど、触れたい。あの柔らかさを、指先で確かめたい。ただ一度、撫でるだけなら。減るもんじゃないし、彼女は眠っている。
いや、それは卑怯者の理屈だ。だが、この昂ぶった欲望をどうすればいい? 私の心臓は早鐘を打ち、呼吸すら浅くなっている。
気がつけば、私の手は震えながら伸びていた。
理性が「やめろ」と叫ぶのと同時に、私の指先はそっと、リナの太腿に触れていた。
「……」
温かい。そして柔らかい……。
指の腹が沈み込むたび、吸い付くような潤いと柔らかな弾力が返ってくる。
長年の労働で硬化した私の掌とは対照的な、陶磁器のようにキメ細やかな肌。その下には確かに熱い血が通っていて、脈打つ命の鼓動さえ感じ取れるようだ。
ただの肉体的な接触ではない。この荒涼とした世界で唯一、私が触れることを許された「生」の実感が、指先を通じて干からびた心を潤していく。
(……カイト、さん?)
リナは、実はとっくに目を覚ましていた。
けれど、彼女は動かなかった。狸寝入りならぬ、狐寝入りだ。
太腿に感じる、カイトの大きくゴツゴツした手のひら。その熱が、リナの胸の奥を甘く焦がしていく。
(撫でて、くれてる……)
普通なら嫌悪感を抱くような年齢差も、今のリナには関係なかった。
むしろ、あのいつもしかめっ面で、余裕のないカイトが、自分に触れたがっているという事実が嬉しかった。それは、自分が彼にとって特別な存在であるという証のように思えたからだ。
(でも……カイトさんのあそこ、なんであんなに大きくなってるんだろう?)
薄目を開けて様子を窺っていたリナは、カイトの股間がテントのように不自然に盛り上がっていることに気づいた。
同居を始めた私の襲撃に怯え、何か武器でも隠し持っているのだろうか。それとも、変な虫に刺されて腫れてしまったのだろうか。
性知識の乏しい彼女には、それが大人の男の生理現象であるとは理解できていない。
ただ、カイトが苦しそうに息を荒げていることだけは伝わってきた。
「んぅ……」
これ以上は心臓が持たない。リナはわざとらしく身じろぎをして、ゆっくりと目を開けた。
「……っ!?」
私の手が、弾かれたように引っ込む。
私は心臓が口から飛び出るかと思うほど焦りながら、必死に平静を装った。
「お、おはよう、リナ」
「ふわぁ……おはようございます、カイトさん」
リナは眠たげに目をこすりながら、あくびをして見せた。
太腿を撫でられていたことになど、まったく気づいていないという風を装って。
「……よく眠れたか?」
「はいっ! カイトさんと一緒だったので、ぽかぽかでした」
リナが無邪気に微笑む。その笑顔に、私は罪悪感で押しつぶされそうになりながらも、安堵の息を吐いた。
(バレていない。奇跡的に、セーフだ)
だが、依然としてズボンの中の膨らみは収まらない。私はリナに悟られないよう、不自然に腰を曲げながら立ち上がった。
「そ、そうか。それはよかった。……さあ、行くぞ。今日も稼がないと、利息に殺される」
「はい! 今日はどこへ行きますか?」
「商工ギルドだ。昨日、クラウスから呼び出しがあったからな」
昨日の冒険者ギルドでの稼ぎは、すべて利息に消えた。すべてを吐き出したにもかかわらず、利息の返済には到底足りていない。
私たちの懐は相変わらず冬のままだ。太腿を撫でている場合か?
私たちは身支度を整え、朝の喧騒が始まりつつあるスラムの路地へと足を踏み出した。




