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第23話:はじまりの朝と、冒険者ギルドの思惑

 カーテンの隙間から差し込む白い光が、瞼の裏を優しく撫でる。


 意識が覚醒へと向かう中、私はいつものように身体を起こそうとして――ふと、その動作を止めた。


 いつもなら肌寒いだけの空間に、確かな温もりが存在していたからだ。


(……ああ、そうか。夢じゃないんだな)


 私は、隣で穏やかな寝息を立てているリナの姿を目に焼き付けながら、昨晩からの出来事をゆっくりと反芻する。


 昨日、慌ただしく引っ越し作業を終え、廃材に囲まれながら食べた、日本で言うところのコンビニ弁当のような味気ない食事。少し照れくさそうに「これからよろしくね」と笑った彼女の顔。そして、同じ部屋、同じ照明の下で「おやすみ」を言い合った瞬間。そのすべてが、これまでの独り身の生活を一変させる出来事だった。


 昨晩、ロウソクの灯りを消した後も、私はなかなか寝付けなかった。暗闇の中に響く衣擦れの音や、わずかに聞こえる彼女の呼吸音が、私の理性を心地よく、しかし鋭く刺激していたからだ。長年染み付いた孤独という習慣が、彼女という存在によって塗り替えられていく感覚。それは喜びであると同時に、彼女の人生の一部を預かるという、ずしりとした責任の重さを実感する時間でもあった。


 私の家に彼女の荷物がある。数こそ少ないものの、机の上には彼女の物が並んでいる。そして今、手を伸ばせば届く距離に彼女がいる。


 この非日常が、これからの日常になるのだ。


 私は込み上げてくる愛おしさを噛み締めるように、まだ夢の中にいる彼女の髪を、視線だけで優しく梳いた。これからの生活で起こるであろう些細な喧嘩や、共有する喜びの数々を想像し、私は静かに覚悟を決める。この寝顔を、これから先もずっと守っていくのだと。



 †



(……ん……朝、かな)


 馴染みのない天井。いつもとは違う家の香り。そして、すぐ近くから聞こえる落ち着いた呼吸音。


 五感がゆっくりと覚醒していくにつれて、胸の奥にじわりと温かいものが広がっていく。


(そっか……私、本当にここで暮らすことになったんだ)


 私は、まだ重たい瞼を少しだけ開け、隣で眠るカイトさんの背中を見つめた。


 昨日の夜、自分の部屋を引き払い、この場所に足を踏み入れた時の高揚感と、一抹の不安。自分の居場所が物理的に変わるということ以上に、「彼との生活」が現実になったことへのドキドキが、昨晩は一晩中私の心臓を早鐘のように鳴らしていた。


 同じ寝具に入る時、彼が気を使って少し距離を取ってくれたこと。それでも伝わってくる体温の熱さ。暗闇の中で彼が寝返りを打つたびに、嬉しさと恥ずかしさが混ざり合い、布団の中で何度も頬を緩ませてしまったことを思い出す。


 これまでデートの終わりに感じていた「帰りたくない」という寂しさが、もうないのだ。


 「また明日」ではなく、「おやすみ」と言って、朝には「おはよう」が言える。その単純で、けれど奇跡のような幸福が、今の私を包み込んでいる。


 1人暮らしの心細い夜はもう終わり。これからは、嬉しいことも悲しいことも、一番好きな人と共有できる。


(……ふふ、寝癖ついてる)


 彼の無防備な後頭部を見つめながら、私は毛布に顔を埋めた。胸がいっぱいで、まだ起き上がりたくない。もう少しだけ、この「初めての朝」の余韻に浸っていたい。


 これからの毎日が、きっと色鮮やかなものになるという予感に、私は幸せなため息を1つこぼした。



 †



 それから数分後。

 私とリナは、ほぼ同時に身を起こした。


 狭い室内で視線が絡み合う。


「……お、おはよう、リナ」

「はい……! おはようございます、カイトさん!」


 私の声は少し上ずり、リナの笑顔は朝日に負けないくらい眩しかった。


 簡単な朝食――と言っても、昨晩の残りの硬いパンを汲んできた水で流し込むだけのものだったが済ませた私たちは、朝の喧騒に包まれたメルテの街へと繰り出した。


 向かう先は、私たちの生殺与奪の権を握る場所。そう、『商工ギルド・メルテ支部』だ。


 現在の借金総額、約5,492万円。

 1日の利息は、約55万円。


 昨日稼いだプール金(約121万円)のおかげで、今すぐ心臓が止まることはない。だが、それはあくまで「猶予」だ。プール金は毎秒、砂時計の砂のように減っていく。今日1日何もしなければ、55万円分の寿命がただ消滅するのだ。


 ギルドのドアをくぐると、朝の冷たい空気が肌を撫でた。

 私はいつものカウンターへ向かう。今日の担当は、見慣れた事務的な女性職員だった。


「……仕事の紹介を頼みたい」

「はい、確認します。……スズキ カイト様ですね。現在ご紹介できる案件はこちらになります」


 提示されたリストを見て、私は眉をひそめた。



【市街地清掃】

報酬:銅貨5枚(500円)


【建築資材の運搬補助】

報酬:銅貨80枚(8,000円)


【食堂の皿洗い(臨時)】

報酬:銀貨1枚(1,000円)



「……これだけか?」

「はい。本日は高額な緊急依頼や、特別指定の案件は入っておりません。一般ランクの方にご紹介できるのは、これらが全てです」


 私は舌打ちを噛み殺した。

 ショボすぎる。一番マシな運搬補助でも8,000円。今日の利息55万円に対して、焼け石に水どころか、霧吹きの一吹きにもならない。


 昨日の『月光草の採取(1,000,000円)』のような美味しい話は、そうそう転がっていないということか。あるいは、あの幹部クラウスが「飴」を与えた後は、こうして現実という「鞭」を見せつけているのかもしれない。


「もっと単価のいい仕事はないのか? 危険手当がつくようなやつでもいい」

「申し訳ありません。Dランク以上の採取依頼等は、事前に許可が出ている場合を除き、幹部の承認が必要です。本日は幹部が不在のため、即決できる案件はございません」


 マニュアル通りであろう回答。

 これならスラムでドブ掃除をするよりはマシだが、53時間の猶予を削ってまでやる価値があるかと言われれば微妙だ。


「……わかった。出直す」

「ありがとうございました」


 私は踵を返した。

 隣で不安そうにしていたリナが、私の袖をちょんと引く。


「カイトさん、どうするんですか?」

「ここじゃ埒が明かない。……アテが外れるかもしれないが、場所を変えよう」


 私たちは商工ギルドを出て、中央通りを西へ向かった。


 目指すのは、もう1つの荒くれ者たちの巣窟――『冒険者ギルド』だ。



 †



 商工ギルドが「銀行」や「役所」または「スーパー」だとしたら、冒険者ギルドは「酒場」と「闘技場」を足して2で割ったような場所だった。


 重厚な木製の扉を押し開けた瞬間、汗と鉄、そして微かな血の匂いが鼻をつく。


 昼間だというのに、ロビーには武装した男たちがたむろしていた。私たちが足を踏み入れると、数人の視線が突き刺さる。


 ボロボロの服を着た貧相な男と、娘のような年頃の狐獣人の少女。場違いな客だと思われているのは明白だった。

 私は視線を無視して、巨大な掲示板へと向かった。


 そこには、商工ギルドとは桁違いの報酬が踊っていた。



【Bランク:暴れバイソンの討伐】

報酬:金貨15枚(1,500,000円)


【Cランク:街道護衛任務】

報酬:金貨3枚(300,000円)



 金額だけを見れば魅力的だ。だが、内容はどれも「死」と隣り合わせ。


 魔法もチート能力もない私には、Cランクはおろか、Dランクの討伐依頼ですら自殺行為だ。リナは戦えるが、彼女1人に全てを背負わせるわけにはいかない。


(……クソッ、やっぱり地道な採取系を探すしかないか)


 私がEランク相当の雑用依頼を探そうと視線を下げた、その時だった。


「――おい。そこで何をしている」


 背後から、岩石が擦れ合うような低い声がかかった。


 振り返ると、巨岩のような男が立っていた。

 顔の左半分には古傷が走り、鍛え上げられた筋肉は鎧の上からでも分かるほど隆起している。


 冒険者ギルドの中でも偉そうな雰囲気を醸し出している。私は反射的に身構えた。リナも瞬時に私の前に出ようとする。


「……仕事を探してるだけだ。冷やかしじゃない」

「そう警戒するな。俺は冒険者ギルド・メルテ支部のギルドマスター、ザイグだ」


 ザイグの鋭い眼光が、私とリナを値踏みするように上下した。


 心臓が早鐘を打つ。

 私たちが借金奴隷であることは、一般には知られていないはずだ。だが、この男はただの冒険者ではない。冒険者ギルドという、大きな組織人間だ。どこまで知られているか分からない恐怖が背筋を走る。


 だが、ザイグの思考はカイトの予想とは違っていた。


(……こいつらが、例の2人組か)


 ザイグは表情には出さず、脳内で舌打ちをしていた。


 先日、王家の騎士に捕縛され、商工ギルドへ引き渡された5人の元冒険者たち。彼らが破滅した原因が、この貧相な男と獣人の少女への襲撃だったことを、俺は把握している。


 あの5人は、今頃クラウスの手によって地獄を見ているはずだ。


 商工ギルドは、自らの所有物(借金奴隷)を傷つけられることを極端に嫌う。特にあのクラウスという男は執念深い。


 もし、この2人が冒険者ギルド内で、また他の荒くれ者に絡まれでもしたら――今度こそ、商工ギルドと冒険者ギルドの全面抗争になりかねない。


(厄介な火種が転がり込んできやがった。……だが、追い返せばそれはそれで角が立つ)


 俺は、あくまで「偶然」を装い、太い腕を組んだ。


「お前らに、ちょうどいい仕事がある」

「……え?」

「最近、倉庫の在庫整理が追いつかなくてな。薬草の仕分け作業だ。冒険者の連中は大雑把すぎて使い物にならん。……手先が器用そうなやつを探していたところだ」


 ザイグは掲示板の隅から、1枚の依頼書を剥がし、私の前に突き出した。



 【ギルド倉庫内・薬草選別作業】

 報酬:銀貨50枚(50,000円)

 条件:丁寧な作業ができる者。識字能力必須。即日払い。



 私はその依頼書を凝視し、次いでザイグの顔を胡乱げに見上げた。


 商工ギルドで提示された最高額が8,000円だったのに対し、こちらは50,000円。


 もちろん、1日の利息55万円には遠く及ばない。だが、安全な屋内作業でこの金額は破格すぎる。スラムの住人が1ヶ月かけて稼ぐ額を、1日で出す?


 美味すぎる話には裏がある。それがこの世界の、いや、何度も騙されてきた私の人生の鉄則だ。


「……金額がおかしい。相場の数倍だ。それに、私は薬草に詳しくない。素人が手を出していい案件じゃないはずだ」


 私の指摘に、ザイグはニヤリと口の端を歪めた。


「相場より高いのは『迷惑料』込みだ。この仕事はとにかく地味で、根気が要る。血の気の多い冒険者共にやらせたら、5分で飽きて薬草を握りつぶしやがった。……お前らが賢いなら分かるはずだ。『丁寧さ』と『文字が読める』人材ってのは、この街じゃ意外と高くつくんだよ」


 ザイグは肩をすくめ、倉庫の奥を親指で指した。


「知識なんざ要らん。図鑑マニュアルに見分け方が書いてある。それを読んで、棚のラベル通りに箱へ入れるだけだ。……似たような見た目の草でも、名前が違う。字が読めなきゃ、どれだけ目が良くても仕分けられねえんだよ」


 なるほど、単純作業だが正確性が求められる、日本で言うところの『検品バイト』か。


 ラベルを読むだけなら、この世界の文字が読める私には問題ない。書くことはできないが、棚への仕分け作業に筆記は不要だ。

 それなら、魔力も腕力もない私にも勝機がある。


 疑念が完全に晴れたわけではないが、今の私にこれ以上の選択肢はない。


「……分かった。やらせてくれ」

「交渉成立だ。ついてこい」


 私はその背中を見ながら、小さく息を吐く。

 5万円でもいい。少しでもプール金の減少を食い止められるなら、どんなチャンスにも食らいつくしかない。


「行こう、リナ」

「はいっ、カイトさん!」


 私たちは、強面のギルドマスターに導かれ、ギルドの奥へと足を踏み入れた。



 †



 案内されたギルドの倉庫は、乾燥した草と埃、そして薬品特有のツンとする匂いが充満していた。


 私たちの仕事は、木箱に無造作に放り込まれた『薬草』と『毒草』を選別し、指定の棚へ収めることだ。


 作業自体は単調そのものだった。

 私は図鑑マニュアルを片手に、葉の葉脈が「赤」なら毒、「青」なら薬、という具合に目視で判定していく。そして、私の判定に従って、リナがそれを束ねて棚へ運ぶ。


 会話はない。あるのは、乾燥した葉が擦れる乾いた音と、リナが動き回る衣擦れの音だけだ。


 その単調さが、私の意識を余計な方向へと誘導した。


 リナが高い棚に薬草を収めようと、背伸びをした瞬間だった。


 古びたスカートの裾がふわりと持ち上がり、引き締まったふくらはぎと、その奥にある白い太腿が露わになる。


 薄暗い倉庫の中で、その白さは目に痛いほど鮮烈だった。


 私は反射的に視線を逸らすべきだった。だが、脳裏には昨晩の「同居初夜」の記憶と、彼女がこの下に何も身につけていないという事実が焼き付いている。


 スカートのひだの奥、絶対に見えてはいけない聖域を想像し、私は作業の手を止めてその背中を凝視してしまった。


 罪悪感と背徳感。それが混ざり合った熱い塊が、喉の奥にこみ上げる。


(……カイトさんの視線、すごく熱い……)


 一方、リナはその視線に気づいていた。

 背中に突き刺さるような、ねっとりとした熱量。獣人としての鋭い感覚が、彼が今どこを見ているのかを正確に伝えてくる。


 恥ずかしさで耳が熱くなる。けれど、リナは決して振り返らなかった。


 もし振り返れば、カイトさんは気まずそうに目を逸らし、優しい「大人」の顔に戻ってしまうだろう。

 だから私は、気づかないフリを続けた。


 わざとらしく棚の上の荷物を整え直し、スカートを揺らす。彼がもっと自分を見てくれるように。もっと自分に夢中になってくれるように。


 尻尾が嬉しさで揺れそうになるのを必死に抑え込みながら、私は平静を装って次の箱へと手を伸ばした。



 †



 夕方になり、私たちは倉庫を出た。

 ザイグによる検品は一発で合格だった。「思ったより使えるな」というぶっきらぼうな褒め言葉と共に、報酬の入った革袋が投げ渡された。


 中には、約束通りの銀貨50枚(50,000円)。

 私たちはその足で商工ギルドへと向かった。


 夕暮れ時の商工ギルドは、1日の稼ぎを精算する人々で混雑していた。


 私が一般カウンターの列に並ぼうとした時だ。


「おや、カイト様ではありませんか」


 よく通る、理知的な声が響いた。

 人々の波が割れ、その奥から現れたのは、整ったスーツに身を包んだ優男――商工ギルド幹部、クラウスだった。


 彼はまるで、私たちが来るのを待ち構えていたかのようなタイミングで声をかけてきた。


「本日は私が直接担当しましょう。……ほう、冒険者ギルドでのお仕事でしたか。あの筋肉達磨ザイグの下で働くとは、あなたも物好きですね」


 クラウスは私が持っている革袋の刻印を一瞥し、薄い笑みを浮かべた。


 私は無言でカウンターに革袋を置く。


「……返済だ。全額頼む」

「承知いたしました。銀貨50枚ですね」


 クラウスの手際よい操作で、空中にウィンドウが展開される。


 金額は少ないが、今の私にとっては血と汗の結晶だ。


「今日の返済はどう処理しますか? 元金に充てますか? それとも……」

利息プールだ。……少しでも時間を稼ぎたい」


 元金5,492万円に対して5万円を返しても意味がない。それよりも、確実に減り続ける「寿命のストック」を補充するのが先決だ。


 クラウスは「賢明なご判断です」と頷き、手元の水晶板を操作した。



【本日の清算処理】

 現在プール残高:729,103円(※経過時間 約21時間分の利息 約481,257円を減算済)

 返済投入額:50,000円

【処理実行】

 利息充当:完了

 生命力回収:なし

【余剰金配分】

 借金総額:54,921,437円(※変動なし)

 将来利息プール:779,103円(約34時間)


 朝の時点で53時間あった猶予は、労働している間の経過時間(利息発生)により減少し、今回の報酬を足しても34時間まで目減りしていた。


 5万円稼いでも、それ以上のスピードで利息が食いつぶしていく。


 まさに、呼吸をするだけで金が消える地獄だ。

 私が表示された数値を見て唇を噛んでいると、クラウスが書類を整理しながら、独り言のように呟いた。


「そういえば先ほど、エリーゼ様のお屋敷へ伺いましてね」

「……エリーゼ様の?」

「ええ。彼女は相変わらず、あなた方のことを気にかけておられましたよ。『あの無能たちは、ちゃんと息をしているのかしら』と」


 クラウスは眼鏡の位置を直しながら、私とリナに意味深な視線を送った。


「カイト様、リナ様。明日は予定を空けておいてください。……エリーゼ様より、あなた方に『是非お願いしたい』という仕事をお預かりしています」


 その言葉に、私の背筋に冷たいものが走った。


 あの貴族のお嬢様からの指名依頼。

 それが単なる善意であるはずがない。だが、断ればこのクラウスの機嫌を損ね、最悪の場合は今の「猶予」すら奪われかねない。


「……分かった。明日、朝一番でここへ来ればいいんだな」

「ええ、お待ちしております。――では、良い夜を」


 クラウスの慇懃無礼な会釈に見送られ、私たちは商工ギルドを後にした。

 手元には、明日の約束という名の新たな鎖が残された。

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