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第2話:逃げ得だと思っていた

 人生が終わる音を聞いたことがあるだろうか。


 私のようにトラックに轢かれた人間ならば、それは耳をつんざく急ブレーキの音こそが「終わりの合図」だったと言うべきだろう。


 だが、私の感覚は違った。


 肉体が潰れるよりもっと前、私の魂が死んだ瞬間の音。


 それは深夜のコンビニのバックヤード、その静寂の中で硬い事務机を震わせる、スマホの無機質で鈍い振動音バイブレーションだった。


 現代日本、東京。

 深夜2時。

 私は休憩中のバックヤードで、ヒビ割れたスマホの画面に齧り付いていた。


 画面に映っているのは、バイト先の無料Wi-Fiを使って読み込んだ、Web小説の更新ページだ。


 『チート能力で異世界無双』――そんなありきたりな物語の続きを読んで、惨めな現実を忘れようとしていた、その時だった。


 ブブブッ……!


 無機質な振動と共に、画面上部に最悪の通知が割り込んだ。


 主人公がヒロインを救う輝かしいくだりが、どす黒い脅迫文によって無慈悲に塗り潰されていく。


『オイ、期限過ぎたぞ』

『テメェの叔父貴はもう吊った』

『次はテメェの番だ。内臓売る準備しとけよ』


 その低く唸るような通知音こそが、私の社会的な死を告げる鐘のチャイムだった。



【借入残高:7,000,000円】



 時給1,163円。

 東京都の最低賃金で働くコンビニバイトの私が、まともな金融機関でこれほどの額を借りられるわけがない。


 ここにあるのは、法律など通用しない、闇の底から借りた金だ。


 始まりは、パチンコとスロットだった。


 「次はコンプリートだ」。そんな到底あり得もしない夢を追いかけて消費者金融の枠を使い切り、それでも足りずに「審査なし、即日融資」の怪しいビラに電話をかけた。それが地獄の一丁目だった。


 だが、トドメを刺したのは「人」だった。


 高校時代の友人に「絶対に迷惑はかけないから」と泣きつかれて連帯保証人になり、その友人は一度も返済することなく飛んだ。


 さらに、知らぬ間に親族である叔父の事業失敗の保証人にもさせられていた。実家の親も既に破産し、頼れる場所などどこにもない。


 残されたのは、私には縁もゆかりもない巨額の負債と、ヤクザまがいの取り立て屋たちだけ。


「……あは、は」


 自分のギャンブル狂いと、他人の尻拭い。


 あちこちから借りた半端な額を、ヤミ金どもはあえてキリの良い「700万」という数字にまとめ上げた。


 「端数は切り捨ててやったぞ。俺たちの温情に感謝して、きっちり返せよ」


 そんな恩着せがましい演出が、かえって計算高い冷酷さと、逃げ場のなさを強調していた。


 金利は違法のトイチ(10日で1割)。700万の1割は、きっかり70万だ。


 私は眠る時間を削り、深夜バイトを掛け持ちして必死に働いた。


 家賃と光熱費を払えば、手元に残る金などたかが知れている。それをすべて利息の支払いに充てても、10日ごとにやってくる70万円の請求額には程遠い。


 足りない分は、また別のヤミ金から借りて埋めるしかない。


 どれだけ働いても、元金は一円たりとも減らないどころか、雪だるま式に膨れ上がっていく。


 この無限回廊のような借金地獄は、私の人生を完全に押し潰していた。


 明日にはまた、店に怒号が飛び交うだろう。家賃の更新も迫っている。もう住む場所すら維持できなくなるかもしれない。


 逃げ道はない。

 バイト明けの早朝。


 私は防犯カメラの死角で、廃棄期限切れの弁当をこっそりとリュックにねじ込んだ。


 バレれば窃盗で即クビだ。だが、今の私には1円の金もなく、背に腹は代えられなかった。


 店を出て、盗んだ弁当の重みを感じながら横断歩道を渡ろうとした、その時だった。


 プァーーーッ! キキキーッ!! ドンッ!!


 クラクションと、耳をつんざく急ブレーキの音。


 信号無視で突っ込んできたトラックが、最期に慌ててペダルを踏んだ音だ。


 だが、当然間に合うはずもなく、衝撃と同時に私の意識はブラックアウトした。


 薄れゆく意識の中で、最後に思ったのは恐怖ではなく、心からの安堵だった。


(ああ……これで、もうあの怖い人たちに追われなくて済む……)


 金は返しきれなかった。

 けれど、借りた人間がこの世から消えれば、取り立ても終わる。


 本来の「完済」とは呼ばないかもしれない。だが、永遠に続く利払い地獄から解放されるという意味では、死こそが俺に残された唯一の、そして実質的な「完済」手段だ。


 死んでチャラ。

 それは、負け続けた私の人生における、最初で最後の『勝ち逃げ』になるはずだった。



 †



 目が覚めると、そこはゴミ溜めだった。


「……う、さむっ!?」


 全身を走る悪寒と、鼻を突く腐敗臭。


 見上げれば、見たこともない灰色の空。


 私は泥の上に大の字で倒れていたのだが、違和感はそれだけではなかった。


「なっ……!?」


 服がない。

 パンツ一枚すら身につけていない。


 私は生まれたままの姿――完全な全裸で、ゴミ山の上に放り出されていたのだ。


「うわっ、まずい!」


 私は慌てて体を隠そうとした。


 幸い、周囲に人はいないようだが、代わりにハエがたかっている。


 私は足元に埋もれていた、カビと油にまみれた麻袋のようなボロ布を引っ張り出し、必死に腰に巻き付けた。


 最低限の尊厳を守り、ようやく息をつく。


「……生きてる?」


 いや、周りの景色がどう見ても日本じゃない。中世ヨーロッパ風の、それもスラム街のような場所だ。


「まさか、異世界転生……!?」


 金がなくて娯楽など買えなかった私が、唯一無料で楽しめた暇つぶし。


 それが、バイト先のコンビニの無料Wi-Fiに繋いで読み漁っていた、素人が投稿する『Web小説』だった。


 通信料すら払えなかった私にとって、このヒビ割れたスマホと、法律で定められたバイトの休憩時間だけが、唯一の現実逃避だったのだ。


 そこで読み耽った、あの物語と同じ展開だ。


 死んで異世界へ。ということは、私にも何かすごい能力が?


 期待に胸を膨らませ、私は泥だらけの手を天にかざした。


「ステータス、オープン!」


 ……シーン。

 何も起きない。


 半透明のウィンドウも、ファンファーレも、女神の声もない。


 ただ、薄汚れたスラムの風が裸の肌を撫でただけだ。


「あれ? 発声がいけないのか? それとも念じるタイプか?」


 私は眉間にシワを寄せ、脳内で強くイメージした。


 (出ろ、俺のステータス画面! システム起動!)


 ……シーン。


 視界には汚い空があるだけ。


「ま、まさか、コマンドが違うのか? 『メニュー』! 『ウィンドウ』! 『マイページ』!」


 虚しく響く自分の声。


 私は焦った。いや、諦めるのはまだ早い。ステータスが見えないタイプの異世界もある。


 なら、魔法だ。魔法ならきっと使えるはずだ。


「集え、魔力よ……! 我が手に炎を! ファイアボール!」


 カッ! と燃え上がるイメージと共に、右手を突き出す。


 だが、指先からは煙一つ出ない。


「……詠唱が足りないのか? 『我、契約に従い炎の精霊に命ず』……ファイアッ!!」


 シーン。


「『メラ』! 『アギ』! 『イグニス』!」


 私はありとあらゆるゲームやWeb小説の知識を総動員し、恥ずかしいポーズも試行錯誤し、最後には座禅を組んで魔力感知…のつもりまで行った。


 一時間後。


 私は泥の上に大の字で倒れていた。


「……嘘だろ……」


 何も起きない。

 魔力循環の感覚もない。身体能力が上がった気配もない。

 そもそも、魔力循環ってなんの話だ。当然そんな力を持ったことなどないし、感覚を掴めるわけがない。


 ただ場所が変わっただけの、無力な人間。


 絶望しかけた私だったが、ふと、ある事実に気づいて手が止まった。


 ボロ布だけの腰回りを探る。

 当然、スマホはない。財布もない。

 あの、「殺すぞ」と書かれた督促状の束もない。


「……借金は?」


 あの700万の借金は?


 店の前で待ち伏せしていたチンピラも、脅迫電話も、ここにはない。


 ステータス画面が出ないということは、私の人生は完全にリセットされたということではないか?


 能力チートはない。

 金もない。


 けれど、あの命を脅かす「闇」もない。


「……ははっ、やった……逃げ切ったんだ」


 私は泥の中で笑った。


 ゼロからのスタートだ。いや、マイナス700万からの復帰と考えれば、これ以上の幸福はない。


 もう二度と借金なんてしない。ギャンブルもやめる。他人の保証人になんて絶対にならない。


 私はこの世界で、今度こそまっとうに生きよう。そう誓ったのだ。



 †



 それから、220日が過ぎた。


 異世界生活は、想像以上に過酷だった。


 唯一の救いは、言葉が通じたことだ。


 会話だけではない。看板や張り紙の文字も、まるで日本語字幕がついているかのようにスラスラと読めた。どうやら『自動翻訳』のようなスキルが最低限の生きる術として備わっているらしい。


 だが、その恩恵もそこまでだった。


 こちらから文字を書こうとしても、書けるのは日本語だけ。現地の文字は書けないため、代筆屋としての仕事すらできなかった。


 戦闘力もなければ、魔法もない。


 ギルドに行っても登録料が払えず門前払い。


 結局、私が住み着いたのは街外れのスラム街だった。


 毎日を生き延びるための仕事はゴミ漁り。


 市場の裏に捨てられた腐りかけの野菜や、一般市民が出した残飯。運が良ければ貴族街まで足を伸ばし、まだ食べられそうなパンの耳を探す。


 濁った井戸水を布で越し、命からがら飲み繋ぎ、腐りかけた廃材を集めて小屋を作った。


「くそっ、腹減ったな……」


 それでも、私はどこか楽観視していた。


 なぜなら、この220日間、誰も取り立てに来なかったからだ。


 やはり、借金は消えたのだ。


 今の生活は底辺だが、あの「いつ拉致されるか分からない恐怖」がないだけマシだ。


 いつかチャンスが来る。金を貯めて、少しずつ這い上がればいい。


 今日は雨が降っていた。


 私の「城」である、腐った板きれの小屋。


 天井の隙間からは雨がポタポタと垂れ、床に置いた桶が濁った水で満たされていく。


 私は桶に溜まった水面を見つめながら、ニヤリと笑った。


「ざまあみろ。死んでチャラだ」


 そう呟いた、その時だった。


 コン、コン。

 小屋の入り口である、ドアのない剥き出しの柱がノックされた。


 乾いた音が、狭い小屋に響く。


 スラムの住人はノックなんてしない。


 いきなりズカズカと入ってくるか、こっそり盗みに入るかだ。


 こんな礼儀正しい音を立てる人間など、この辺りにはいない。


「……誰だ?」


 私は警戒しながら、入り口に垂らしていたむしろをめくった。


 そこには、このゴミ溜めには似つかわしくない人物が立っていた。


 仕立ての良い、上質なベルベットの外套マント


 ピカピカに磨かれた革靴。

 そして、その顔には片眼鏡モノクルをかけ、知性的だが感情の読めない瞳をこちらに向けている。


 男は、鼻をつまむようにしてハンカチを口元に当て、小屋の中を見回した。


 そして、まるで逃亡者を見つけた執行官のように、私に冷徹な視線を合わせた。


 男の手には、一枚の羊皮紙が握られている。


 男は眉をひそめながら、テーブル代わりの木箱の上に、その紙を無造作に放った。


 私の目の前で止まったその紙の一番上には、私の『自動翻訳』によって、禍々しい赤字でこう記されていた。



【債務一括請求書(最終通告)】


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