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第19話:冷たい水辺と王家の威光

 商工ギルドのカウンターで『水辺苔』の採取依頼を受諾した後、私たちはすぐには出発できなかった。この依頼には「品質」が求められるため、素人が闇雲に採っても商品にならないらしい。


 ギルドの受付嬢に紹介されたのは、裏手の倉庫で資材の手入れをしていた初老の男、ガンズだった。かつては腕利きの採取職人だったという。


「水辺苔か。ありゃあ、素人が手を出しても半分は腐らせるのがオチだ」


 ガンズは私とリナをジロリと見定めると、作業台の上に置いてあった乾いたスポンジのようなものを指さした。


「いいか、よく聞け。水辺苔は『生きている水』そのものだと思え。金属を嫌う。鉄のナイフなんかで根元を切れば、その瞬間に光を失ってただのドブ臭い藻クズになる。だからこれを使うんだ」


 彼が渡してきたのは、動物の骨を加工して作られたヘラだった。


「骨か、硬質の木で作ったヘラを使う。そして、剥がすときは苔の目に逆らうな。川の流れと同じ方向に生えているはずだ。流れに逆らって無理に剥がすと、繊維がちぎれて商品価値がなくなる」


 私はメモを取るように必死に頷く。ガンズは私の隣にいるリナに視線を移すと、その腰元を指差した。


「嬢ちゃん、その腰のモンもだ」

「えっ……私の、剣ですか?」


 リナが帯びている、赤茶けた錆だらけのショートソード。


「ああ。錆びてようが何だろうが、金属は金属だ。苔を剥がすのにちょうど良さそうに見えても、絶対に使っちゃいけねぇ。触れただけでアウトだぞ」

「は、はい! 気をつけます!」


 リナが慌てて頷くのを見て、ガンズは満足そうに鼻を鳴らした。


「それとな、採取した後はすぐに乾燥させてはいけない。ギルドから貸し出されるこの『湿布袋』に入れるんだが、その前に必ず現場の水をたっぷり含ませろ。水から出した瞬間から劣化が始まる。袋の中が常に湿気で満たされている状態を保つこと。これが一番重要だ」

「現場の水、ですね。わかりました」

「道具のレンタル料は骨ヘラと袋で銀貨1枚(1,000円)だ。前払いだが……持ってるか?」


 ガンズに問われ、私は首を横に振った。今、私の財布には埃しか入っていない。


「すみません、持ち合わせがなくて……。報酬から天引きにしてもらえませんか?」

「チッ、しけた野郎だ。……まあいい、受付にはそう伝えておく。壊したら弁償だぞ。わかったら行け」


 私たちはガンズに頭を下げ、道具を借りて街の北門を目指した。このレクチャーだけで、すでに採取という仕事の奥深さと、自分の甘さを思い知らされた気分だった。



 †



 北門を出て、街道から外れた森の中を進む。

 目指すは北の清流地帯だ。冒険者であれば1時間足らずで到着する距離らしいが、私の足ではそうはいかない。


「ハァ……ハァ……、リナ、少しペースを……落としてくれ……」

「カイトさん、大丈夫ですか? まだ歩き始めて1時間も経っていませんよ」


 リナは涼しい顔で周囲を警戒しながら歩いている。私はと言えば、すでに足が棒のようだ。靴などという高級品は持っていない。裸足で踏みしめる地面の冷たさと小石の痛みが、体力を容赦なく奪っていく。


 結局、目的地である清流のほとりに着いたのは、出発から2時間が経過した頃だった。


「ここですね。綺麗な水……」


 目の前には、木漏れ日が反射する美しい小川が流れていた。そして、その岩陰や水際に、ぼんやりと淡い光を放つ緑色の群生が見える。水辺苔だ。


「よし、始めよう。教わった通りにな」


 私たちは水に入った。

 履き潰したボロ布のようなズボンは元から丈が短いため、捲り上げる必要すらない。


 水は冷たく、酷使して熱を持った裸足には心地よかったが、作業となると話は別だ。


 腰まで水に浸かりながら、岩に張り付いた苔を骨のヘラで慎重に剥がしていく。


「きゃっ!」


 リナが足を滑らせ、盛大に水飛沫を上げた。

 とっさに岩に手をついて転倒は免れたようだが、彼女の服はびしょ濡れになってしまった。


 薄手のボロ着が肌に張り付き、健康的な肢体のラインが露わになる。濡れた布越しに透ける肌の色や、寒さで尖ってしまった胸元の突起が、私の視線を釘付けにした。


「す、すみませんカイトさん……不覚を」

「い、いや、怪我がないならいいんだ。寒くないか?」


 私は、いやらしい視線を悟られないよう、慌てて視線を逸らして作業に戻るふりをした。男としての本能が疼くが、今は借金返済が最優先だ。何より、彼女は私を守ってくれる恩人であり、私のような借金まみれの男が邪な目で見ていい相手ではない。……わかってはいるのだが。



 †



 作業開始から2時間が経過し、規定量の8割ほどが集まった頃だった。


「おいおい、精が出るねぇ」

「いやいや、あいつの股間見てみろよ! 精が出るんじゃなく、別の精が出そうだぜ」

「ガハハハハ」


 不意に、下卑た声が響いた。

 顔を上げると、岸辺に数名の男たちが立っていた。装備の質からして、私たちよりもランクの高い冒険者崩れだ。


「随分と質のいい苔を集めてるじゃねぇか。その袋、俺たちが預かってやるよ」

「……これは私たちの依頼品です」


 リナがヘラを構え、私を庇うように前に出る。だが、相手の男が鼻で笑いながら剣の柄に手をかけると、殺気だけでリナの体が強張ったのがわかった。


 今のリナでは勝てない。私に至っては足手まといにしかならない。


「採取済みの苔なら、誰が採ったかなんて証明できねぇからな。よこせ!」


 男の1人が水に入り、リナを乱暴に突き飛ばした。


 リナが水面に倒れ込み、彼女の腰にあった錆びたショートソードが、岩に生えていた未採取の苔を掠めた。


 ジュッ、という嫌な音が聞こえた気がした。

 次の瞬間、淡い緑色の光を放っていた苔が、見るも無惨なドス黒い色に変色し、鼻を突く腐臭を放ち始めたのだ。


「あ……っ!」


 ガンズの警告は本当だった。金属が触れただけで、商品価値が消滅したのだ。残りの苔まで奴らに荒らされるかもしれないという恐怖が、私の背筋を凍らせた。


 私たちの集めた湿布袋が男の手に渡ろうとした、その時だ。


「――何事か」


 威厳のある声とともに、森の奥から一団が現れた。


 豪奢な馬車を中心とした、整然とした行軍。見慣れない立派な紋章が掲げられているが、私にはどこの家柄かはわからない。ただ、その馬車が纏う空気が、そこらの成り上がり貴族とは次元が違うことだけは理解できた。


「あっ……! あれは、王家の紋章……!」


 リナが小さく息を呑むのが聞こえた。

 王家。その言葉に、私はハッとして馬車を見直す。


 窓から顔を覗かせたのは、見覚えのある初老の男――先日、エリーゼが『皇帝薔薇』を献上した際、引き渡しに立ち会っていた王宮の執事長らしき人物だ。


「ちっ、王家の使いだと……!? ずらかるぞ!」

「待て。狼藉者を見過ごしては王家の威光に関わる。――捕らえよ」


 執事の言葉1つで、護衛の騎士たちが疾風のように動いた。


 冒険者崩れの男たちは、剣を抜く暇さえ与えられず、瞬く間に地面にねじ伏せられ、拘束された。圧倒的な実力差だ。


「……ご無事ですか?」


 護衛の騎士が、奪われそうになった袋を私たちに返してくれた。


 私とリナは呆然としながらも、深々と頭を下げる。


 執事長らしき人物は、私たちに一瞥をくれただけで、興味なさそうに再び馬車の中へと戻っていった。


「連れて行け」


 騎士たちは男たちを乱暴に立ち上がらせると、馬車の後方へと引き立てていく。縄で繋がれ、そのまま私たちが住むメルテまで連行され、衛兵に引き渡されるのだろう。


 彼らにとって私たちは、道端の石ころと変わらないのだろう。だが、その強大な力に救われたのも事実だった。



 †



 騒動の後、私たちは震える手で残りの採取を終えた。


 帰りはさらに過酷だった。

 出発から4時間半が経過した時点で、朝に確認した「利息のプール」が底をついた。


 そこからの3時間半は、地獄だった。


 ――ズキン。ドクン。

 一歩歩くたびに、心臓を鷲掴みにされるような激痛が走る。


 精神的な疲労に加え、冷え切った体、そして襲撃された際の軽い打撲が私の体力を削り取っていたところに、借金のペナルティである「生命力徴収」が追い討ちをかける。


 行きは2時間だった道のりが、帰りには3時間を要した。


 脂汗を流しながら街に戻り、商工ギルドへ納品を済ませた頃には、すっかり日が暮れていた。


「状態は良好。規定量も満たしていますね。報酬をお支払いします」


 カウンターに金貨が並べられる。『金貨8枚(800,000円)』の山が二つ。


 薄れゆく意識の中で、私はまずリナに視線を向けた。


「リナ、君の分だ」

「はい。……あの、道具代を引いた残りは、すべて返済にお願いします」


 リナは迷うことなく、自分の取り分である金貨をすべてギルド幹部のクラウスに差し出した。手元には1円も残さないつもりらしい。


 彼女の目の前の水晶板が淡く光り、返済処理が行われる。


 私はふと気になってその画面を見ようとしたが、私の位置からは数値がぼやけて見えなかった。


 他人の借金総額や利息など、プライバシーの極致だ。パーティメンバーといえど、本人の許可なく覗くことはできない仕様なのだろう。


(まあ、あいつなら心配ないか……)


 続いて、私の番だ。


 往復と作業で約8時間が経過している。その間に発生した利息は約18万3000円。


 プールにあった約10万円はとっくに消滅し、差額の約8万円分が、今この瞬間も私の命を削り続けている。


「ここからレンタル料の銀貨1枚(1,000円)をいただかなくてはなりませんが……」


 クラウスの言葉に、私は震える手でカウンターにしがみついた。


 金貨を崩して銀貨を受け取り、そこから支払うような悠長な時間は惜しい。


「……そこから引いてくれ。あと、借金の返済もだ」


 私は金貨の山を指先で押しやる。


「銀貨5枚(5,000円)だけ、俺にくれ。残りの79万4000円は、すべて返済に回す」


 私の言葉にクラウスが頷き、手際よく処理を進める。


 重い、あまりにも重い借金の山からすれば、小石を1つどかした程度にしかならない。だが、今まさに心臓を握り潰そうとしているこの手を、振りほどくことはできる。


「承りました。……確かに、受領いたします」


 クラウスが魔道具を操作すると、私の胸の痛みが嘘のように引いていく。


 移動中に発生し、肉体への未払いとなっていた「生命力への負債」が清算され、残りがプールの補充へと回ったのだ。


 水晶板に、本日の清算結果が表示される。



【本日の清算処理】

 発生利息(徴収分):79,928円(※プール枯渇による生命力負債)

 返済投入額:794,000円

 余剰金:714,072円

【処理実行】

 利息充当:完了

 生命力回収:実行(回復)

【余剰金配分】

 将来利息プール:714,072円(約31時間10分)

【処理続行】

 借金総額(更新):54,921,437円

 現在の利息(更新):毎秒 約6.36円



 プールされた金額は約71万円。


 約31時間――1日と少しの猶予ができた。

 とりあえず、今夜寝ている間に心臓が止まる心配はなくなった。


 ギルドを出た後、私たちは露店で安い串焼きを買い、それぞれの家路につくことにした。


 リナとはまだ一緒に住めない。私はスラムのあばら家、リナは共同宿舎だ。


「今日は……助かったよ、リナ。ありがとう」

「いいえ、カイトさんこそ……。もっと強くなります。あんな奴らに舐められないように」


 リナと別れ、私は暗いスラムの路地を歩き、冷え切った我が家へと戻った。


 ボロ切れのような布団の上で、確保しておいた低級ポーションの小瓶を開ける。


 苦い液体を飲み干すと、身体の節々の痛みが和らいでいくのを感じた。



 †



 一方その頃。

 共同宿舎に戻った私は、薄暗い部屋の硬いベッドに腰掛けていた。


「ん……っ……」


 水で濡らした布で膝の擦り傷を拭うと、ヒリヒリとした痛みが走る。


 あの時、冒険者に突き飛ばされた傷だ。

 私は手元にある小さな包みを開いた。中に入っているのは、乾燥させた薬草だ。


 別れ際、カイトさんが「少しだけど、傷に当ててくれ」と無理やりに握らせてくれたものだった。


(カイトさん……)


 ご自身だって、顔色が真っ青になって、胸を押さえてあんなに苦しんでいたのに。


 なけなしの銀貨を使って、私のためにこれを買ってくれた。その優しさが、傷よりも胸の奥を締め付ける。


 薬草を傷口に当てながら、今日の出来事を思い返す。


 川で足を滑らせてしまった時のこと。

 びしょ濡れになって恥ずかしかったけれど、カイトさんの視線が私に向けられていたのを、私は知っている。


 カイトさんは慌てて目を逸らしていたけれど、嫌悪感は抱かなかった。


 むしろ、カイトさんが私を「女の子」として意識してくれたことが、少しだけ嬉しかったなんて……誰にも言えない。


 でも、その後のことは悔しさしか残っていない。

 あの冒険者たちに囲まれた時、私はカイトさんを守ろうとしたけれど、ただ突き飛ばされることしかできなかった。


 力が足りない。


 あの王家の紋章を掲げた馬車が来なければ、私たちは稼いだ苔を奪われ、カイトさんはまたあの痛みに倒れていたかもしれない。


「……強くならなきゃ」


 私は薬草を押さえた手に力を込めた。

 カイトさんは、戦う力も魔力もない。だからこそ、私がカイトさんの剣になり、盾にならなきゃいけないんだ。


 カイトさんの「借金」という首輪が外れるその日まで、私は絶対にカイトさんの傍にいる。


 それが、孤独だった私とパーティを組んでくれたカイトさんへの、私なりの恩返しであり――私の生きたい道だから。


 窓から見える月を見上げ、私たちはそれぞれの場所で、明日も生き延びる決意を固めていた。

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