第17話:流れ込む雨水と止められた利息
「金に困ってるなら、こんなのがあるんだが……やるか?」
男が指さしたのは、掲示板の隅に貼られた、一枚の湿った依頼書だった。
私はその内容に目を通し、息を呑む。
ギルド地下倉庫の保全。
昨夜からの大雨で地下水路の水位が上昇し、ギルドの地下倉庫へ浸水が始まっているらしい。
「報酬は金貨2枚(200,000円)。さらに特例措置として、この村を出発するまでの間、あんたの借金利息を『完全停止』してやる」
「……停止、だと?」
「ああ。本来、俺たちじゃ紹介できない案件だが、倉庫の中身が水没すりゃギルドにとっちゃ大損害だ。背に腹は代えられねえ、っていう上層部の判断だよ」
私はこめかみを指で押さえた。
金貨2枚(20万円)は大きい。だが、それ以上に『利息の停止』が破格すぎる。
私の借金は、呼吸をしているだけで毎秒約6.36円、一日で約55万円(金貨5枚と銀貨50枚)の利息を生み出す。この村に滞在している間、そのカウントが止まるということは、実質的に数十万円以上の価値があるということだ。
「ただし、失敗したら『違約金』が発生するぞ。水没してダメになった商品の損害額は、全部あんたの借金に上乗せだ」
「……元金はもう限界だぞ」
「んなこた分かってるよ。だから、発生した損害額はすべて『未払い利息』として計上して、即座に生命力から徴収させてもらう」
つまり、失敗すれば死ぬほどの激痛、あるいは死そのものが待っているわけだ。
だが、断る選択肢はない。
ここに来るまでの移動と宿泊、そして今、こうして話している間にも、王都を出た時に確保した『猶予(プール金)』は目減りし続けている。
掲示板を確認してから、このカウンターで説明を受けるまで、およそ20分。
それだけで約7,600円が溶けた計算だ。迷っている時間すら惜しい。
「……リナの利息も停止できるか?」
「無理だ。今回の特例は、あくまで契約名義人のあんただけだ」
「カイトさん」
横に控えていたリナが、私の袖をきゅっと引いた。
その狐耳がぴくりと揺れる。
「受けてください。私の利息なんて、カイトさんに比べれば微々たるものですから。それに、ここで稼いでおかないと……メルテに着く前に、カイトさんがまた『苦しく』なっちゃうんでしょう?」
「……すまん。お前の分まで交渉できなくて」
「ううん、いいんです。カイトさんが助かるなら、それが一番ですから」
私にはカイトさんの借金のことなんて分からない。けれど、借金の支払いが滞り、カイトさんが激痛でのたうち回る姿を何度も見ている。
カイトさんのそんな姿を私は見たくない。そんな一心で、私はカイトさんに気持ちを伝えた。
リナにはリナなりの、借金返済への考えがあるのだろう。私は覚悟を決め、依頼書にサインをした。
その瞬間、私の視界の端にある借金カウンターが、ピタリと数値を止めた。
「分かった。やるよ。……どうせ、この雨じゃ出発もできないしな」
†
案内された地下倉庫は、すでにカビ臭い湿気と冷気に満ちていた。
石造りの床には、くるぶしほどの高さまで泥水が流れ込んでいる。
「道具はこれを使ってくれ。土嚢と、排水用の桶、あとはモップに雑巾だ。足りない道具があれば、遠慮なく言ってくれ。……当然だが、持ち出しは禁止だぞ」
職員が指差した先には、使い古された清掃用具一式があった。
私は倉庫内を見渡す。棚には書類の束や、木箱に入った様々な物品が並んでいる。中には魔力を帯びた光を放つ、高価そうな魔道具の予備も無造作に置かれていた。
(……これを一つ懐に入れて、外で売り払えば……)
一瞬、そんな浅ましい考えが脳裏をよぎる。
金貨数枚、いや数十枚になるかもしれない。そうすれば借金も少しは――。
「カイトさんっ」
鋭い声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、リナが真剣な眼差しで私を見上げている。
「ダメです。バレたら、今度こそ本当に殺されちゃいます」
「……分かってる。ほんの少し、魔が差しただけだ」
幼い子に窘められるとは、情けない話だ。
私は邪念を振り払い、土嚢を担ぎ上げた。
作業は過酷だった。
入り口からの浸水を土嚢で塞ぎ、あとはひたすら桶で水を汲み出し、外の排水路へ運ぶ。
単純だが、終わりの見えない重労働だ。
私の貧弱な体力はすぐに悲鳴を上げ、息が上がる。
リナは獣人としての身体能力があるとはいえ、まだ幼い子供だ。重い水桶を運ぶ手足は震え、その顔には疲労の色が濃い。
「はぁ……はぁ……、大丈夫か、リナ」
「ん……平気です。これくらい、慣れてますから」
リナが桶を持ち上げた拍子に、水が跳ねて彼女の衣服を濡らした。
ボロボロの薄い生地が肌に張り付き、未発達ながらも女性的な曲線を露わにする。
濡れた銀髪が頬に張り付き、スカートの裾からは白く細い太腿が覗いていた。
(……ッ)
私は思わず視線を奪われた。
非常時だというのに、いや、極限状態だからこそなのか。無防備な少女の姿に、どうしようもない劣情が湧き上がる。
自分の理性が腐っていることを自覚しながらも、私はその華奢な肢体から目を離せずにいた。
「ん……?」
視線を感じたのか、リナがふと顔を上げる。
私は心臓が跳ね上がるのを感じながら、反射的に視線を明後日の方向へと逸らした。
(……やばい。つい、見入ってしまった)
幼い少女を性的な目で見ていたなんてバレたら、軽蔑されるどころの話ではない。
私は冷や汗をかきながら、平静を装って作業を続ける。
恐る恐る横目で様子を窺うと、リナは何事もなかったかのように桶を運んでいた。ただ、その頬はほんのりと朱に染まり、口元が少し緩んでいるようにも見える。
(……重労働で熱いのか。よかった、バレてない……よな?)
私は安堵の息を吐き、自分の浅ましさを恥じた。
彼女が私の視線の意味を正確に理解し、その熱に少しだけ心を躍らせていることになど、気づく由もなく――。
†
昼休憩の頃には、流入する水をあらかた止めることができていた。
職員が差し入れとして、硬いパンとスープを持ってきてくれた。
「ほら、これ食いな。……以前、俺が担当した奴が、腹減らしすぎて依頼中に倒れちまってな。その償いってわけじゃねえが」
「……助かる」
職員の言葉には、ぶっきらぼうな態度の裏にある微かな罪悪感が滲んでいた。
私のような借金奴隷を、彼らは何人も見てきたのだろう。そして、その多くがどうなったかも。
「おいしい……っ! 温かいスープなんて、久しぶりです」
リナが目を輝かせてスープを啜る。
その笑顔を見て、私は少しだけ胸が痛んだ。
こんな粗末な食事がご馳走になる生活。抜け出せない貧困。
それをパーティを組んで、彼女と共に歩まなければならない現実が、重くのしかかる。
腹に食物が入ると、冷え切っていた体に熱が戻るのを感じた。
午後の作業再開後、水かさは徐々に減り始めていた。
私は棚の奥、水面にぷかぷかと浮いている羊皮紙を見つけた。
「ん? なんだこれ」
文字が書かれているようだが、水に濡れて判読できない。
重要な書類かもしれないが、今は構っていられない。私はとりあえず水を切って、高い位置にある棚の隙間にそれを押し込んだ。
その時だった。
排水溝の奥から、ぬめりとした影が飛び出してきた。
水流に乗って入り込んだのだろう、巨大なヒルのような魔物だ。
「ッ! 魔物!」
「カイトさん、下がっててください!」
私が反応するより早く、リナが動いた。
錆びついたショートソードを一閃させる。
水飛沫とともに、ヒルの胴体が両断された。鮮やかな手際だ。
だが、別の影が私の足元に迫る。
「くそっ!」
私は手近にあった清掃用のモップを構え、力任せに叩きつけた。
バキィッ!!!
鈍い音と共に、モップの柄が半ばからへし折れる。
魔物は怯んだが、死んではいない。
すかさずリナが飛び込み、止めを刺した。
「はぁ、はぁ……助かりました、リナ」
「カイトさん、怪我はありませんか!?」
「ない。……だが、これ」
私は折れたモップを見つめる。
弁償と言われたらどうしようかと思ったが、駆けつけた職員は溜息をつきつつも、「緊急避難だから請求なんてしねえよ」と言ってくれた。
†
作業が完了したのは、日が完全に落ちた頃だった。
床の水は抜け、湿気は残るものの、物品への被害は最小限に食い止められた。
「確認した。依頼完了だ。……お疲れさん」
カウンターで、約束の報酬が手渡される。
金貨2枚(200,000円)。
ずっしりとした重みが、掌にある。
「リナ。本当にいいのか? これは二人でやった仕事だ。半分はお前のものだぞ」
「ううん、いりません。これはカイトさんが受け取ってください。私は今日、ご飯も食べられましたし……それだけで十分ですから」
リナは頑として受け取ろうとしなかった。
その瞳には、私への純粋な献身が浮かんでいる。
私は金貨を握りしめ、短く礼を言った。
「……ありがとう。助かる」
「えへへ……どういたしましてです」
リナが嬉しそうに目を細める。尻尾が小さく揺れているのが見えた。
私は受け取った金貨2枚を、そのままギルドのカウンターで処理した。
この村で掲示板を確認した時点でのプール金(460,376円)から、契約までの約20分間で失われた利息(7,632円)が差し引かれ、そこに今回の報酬が加算される。
【本日の清算処理】
発生利息(徴収分):0円(※特例措置により免除)
返済投入額:200,000円
余剰金:200,000円
【処理実行】
利息充当:不要
生命力回収:不要
【余剰金配分】
将来利息プール:652,744円
【処理続行】
借金総額(更新):54,921,437円
現在の利息(更新):毎秒 約6.36円(※一時停止中)
これで、約28.5時間の猶予が確保できた計算になる。
根本的な解決には程遠いが、メルテまでの道中、少なくとも私の心臓が止まることはないだろう。
†
翌朝。
宿を出ると、雨は上がっていた。
冒険者の話では川の水位はまだ高いが、流れは落ち着き始めているらしい。
エリーゼや冒険者たちが準備を整える中、私はリナと共に馬車の荷台へと乗り込んだ。
行きとは違い、薔薇のいない荷台は広々としていて、少しだけ手持ち無沙汰だ。
「行くぞ、リナ。メルテへ」
「はい、カイトさん!」
利息のカウントが再開される恐怖と、わずかな安堵を乗せて。
私たちは再び、泥濘んだ街道へと揺られ始めた――。




