第16話:雨の足音と忍び寄る利息
王都での短い自由時間は、瞬く間に過ぎ去った。
屋台で買い食いした串焼きの脂の旨味と、甘酸っぱい果実水の余韻を舌に残したまま、私とリナは集合場所である馬車へと戻った。
手持ちの銀貨5枚(5,000円)は、リナの笑顔と引き換えにほとんど消えてしまった。だが、後悔はない。彼女が頬張る姿を見られただけで、少しだけ心が軽くなった気がする。
「遅いぞ。置いていくところだった」
護衛の冒険者がぶっきらぼうに言うが、時間は定刻通りだ。
私たち奴隷や下働きの者が全員揃っていることを確認し、馬車は夕闇の迫る王都を後にした。
門をくぐり、整備された石畳の道がガタガタと揺れる土の道へと変わる。遠ざかる王都の明かりは、まるで届かない夢のように輝いて見えた。
「……また、来れるかな。カイトさん」
「さあな。借金が返せりゃ、客として来れるかもな」
荷台の隅、リナが小さな声で漏らした言葉に、私は視線を奪われたまま答えた。
遠ざかる王都の灯りに照らされた彼女の横顔は、守ってやりたいと思わせるほど儚い。
借金を返して自由になり、彼女を連れてくる。
それは、今の私にとっては遥か彼方の絵空事だった。
†
王都を出て数時間、街道沿いの開けた場所で一度目の野営を行うことになった。
火を囲み、暖を取る。
当然だが、私たち奴隷への食事支給はない。王都で食べた串焼きのカロリーなど、とっくに消費されている。リナは身を寄せ合うようにして私の隣に座り、無言で火を見つめていた。
この夜は特に何も起きなかった。魔物の襲撃もなく、静かなものだ。
ただ、空模様だけが気にかかる。
星が見えない。重たく湿った風が肌にまとわりつく。焚き火の煙が真上に昇らず、地を這うように流れていた。
「明日は崩れるかもしれん」
御者台の男が空を見上げて呟いた言葉は、翌朝、現実のものとなった。
†
翌朝、私たちは拠点になっているメルテへ戻るために再出発した。
空は鉛色に染まっているが、まだ雨は落ちてきていない。馬車は街道を急ぐ。
だが、昼前にはポツリポツリと雨粒が落ち始め、瞬く間に視界を遮るほどの豪雨へと変わった。
轍はぬかるみ、馬の足取りが重くなる。荷台の幌を叩く雨音が、会話を遮断するほどの轟音となって響き渡った。
夕方、ようやく大きな川に架かる橋が見えてきた。
しかし、馬車は橋の手前で停止した。
「駄目だ! 川が溢れてやがる!」
先頭を行く護衛の冒険者が叫んだ。
幌の隙間から外を見ると、普段は穏やかな川が、濁流となって荒れ狂っていた。橋桁のギリギリまで水面が迫り、一部は水没しているように見える。
これでは渡れない。かといって、この天候で回り道をするのも危険すぎる。
「近くに村があったはずだ。そこへ退避するぞ!」
御者の判断で、私たちは進路を変更した。
†
夜になる少し前、私たちは『リブル村』という小さな集落に到着した。
川沿いの交易ルートにあるためか、規模の割にはしっかりとした商工ギルドや冒険者ギルドの出張所が存在する村だ。
今夜はここで一泊することになった。豪雨の中、これ以上の移動は自殺行為だ。
宿の手配は迅速に行われたが、ここでも明確な格差が存在する。
雇い主であるエリーゼは、この村の宿で最も良い部屋に通された。最高級とはいえ、所詮は田舎の村だ。王都のような豪華さはないが、清潔で広い個室だ。
そして護衛の冒険者たちは、自分たちの財布から金を出し、一般的な個室を確保した。彼らは稼ぎがある。温かいベッドとプライバシーを買う余裕があるのだ。
一方、私たち奴隷や労働者は――。
「お前たちはあっちだ。大部屋が取ってある」
案内されたのは、宿の別棟にある大部屋だった。普段は行商人たちの荷物置き場や、御者たちの雑魚寝に使われているような場所だ。薄暗く、カビ臭い。
だが、屋根があり、雨風をしのげるだけマシだと思うしかない。宿泊費はエリーゼ持ちだ。文句は言えない。
問題は、食事だ。
個室に宿泊したエリーゼや冒険者たちには、宿の夕食と朝食がついている。しかし、素泊まり扱いの私たちには食事が出ない。
「……いい匂いがしますね」
リナが鼻をひくつかせた。
本館の方から、肉や野菜を煮込んだ温かいスープの香りが漂ってくる。窓の隙間から覗くと、食堂で冒険者たちがジョッキを傾け、湯気の立つ料理を口にしているのが見えた。
エリーゼは部屋食だろうが、きっともっと良いものを食べているはずだ。
「私たちはこれか」
私はため息をつき、部屋の窓に近づいた。
宿の食堂は高い。私たちの手持ちの小銭では、温かいスープ一杯すら贅沢品だ。それに、なけなしの小銭を使うわけにはいかない事情がある。水筒のような気の利いた道具も、携帯用の非常食も持っていない。
私は窓を少しだけ開けると、軒先から滴り落ちる冷たい雨水を、両手で作った器で受け止めた。
「飲め、リナ。少しは腹の足しになる」
「……はい。カイトさんも」
雨水で空っぽの胃袋を膨らませ、空腹を誤魔化す。遠くから聞こえる笑い声と食器の触れ合う音が、胃をきりきりと締め上げた。
†
翌朝。
期待も虚しく、雨は降り続いていた。
「川の水位が下がらないらしい。今日は出発できないぞ」
宿の食堂から戻ってきた護衛のリーダーが、全員に向かってそう通達した。
朝食(もちろん私たちにはないが)を終えた彼らとは違い、私たちは昨夜から何も食べていない。
今日は一日、このリブル村で足止めだ。自由時間となる。
労働がないのはありがたいが、私の顔色は優れない。理由は単純だ。時間だ。
時間が経過するということは、借金の利息が発生するということだ。
私は雨の中、外套を頭から被り、村にある商工ギルドの出張所へと走った。
†
ここには、メルテの商工ギルドで私を陥れた幹部・クラウスのような顔なじみはいない。
受付に座っていたのは、田舎の村で退屈そうに欠伸を噛み殺している、見知らぬ中年の男だった。
「ん? 借金の……詳細確認か?」
「ああ。鈴木 海人だ」
私が名乗りながらカウンターの前に立つと、男の手元にある魔道具が鈍く光り始めた。
この呪われた契約は、私の魂そのものに刻み込まれている。魔道具は自動的に対象者を認識し、その身に背負わされた負債を暴き出すのだ。
「……ふむ。結構な額を背負ってるな、兄ちゃん」
男がこちらに向けてきた魔道具の画面には、前回の確認時より確実に、そして無慈悲に更新された数字が羅列されていた。
【現在の借金状況】
借金総額:54,921,437円
(※魂の限界まで残り:0円)
将来利息プール:460,376円
次回、生命力徴収開始予測:約20時間後
現在の利息:毎秒 約6.36円
「……やっぱりか」
私は絶望的なため息をついた。
王都を出てから、丸一日と半日以上が経過している。
一日の利息は約55万円(金貨5枚と銀貨50枚)。王都を出た時点でプールしていた約128万円は、移動と睡眠の間に溶け続けていた。
残るプール金は約46万円。
明日の朝まで持つかどうかだ。
「明日の朝には、プールが尽きる」
元の街メルテへ戻るには、天候が回復してからでも馬車で数日はかかる。
その間、私は利息を払えない。
利息が払えなければ、契約の呪いにより『生命力』が徴収される。
生命力を取られたからといって、すぐに死ぬわけではない。だが、体は鉛のように重くなり、激しい倦怠感に襲われ、寿命そのものが削られていく感覚を味わうことになる。
「……マズいな」
この村で、現金を稼ぐ必要がある。
しかし、エリーゼは部屋で優雅に読書でもしているだろう。彼女からの依頼はない。
雨で足止めを食らっている今、外での労働も難しい。
私はギルドの掲示板を見上げた。
この田舎の村で、私のような奴隷身分でもすぐに現金が得られる仕事。
そして、明日の利息分――少なくとも数千円ではなく、プールを繋ぐための数十万円(金貨数枚)を稼げる仕事はあるのか。
そんな都合の良い仕事など、あるはずがなかった。
「おい、そこの兄ちゃん」
私が深刻な顔で掲示板を睨んでいると、先ほどの受付の男が声をかけてきた。
「金に困ってるなら、こんなのがあるんだが……やるか?」
男が指さしたのは、掲示板の隅に貼られた、一枚の湿った依頼書だった――。




