第12話:皇帝薔薇と命の前借り
板の隙間から差し込む朝日が、埃っぽい部屋を白く切り取っていた。
スラムにある粗末な小屋。万年床で目を覚ますと、まず脳裏をよぎるのは、いつもの絶望感だ。
――日利、約52万円。
この世界には金貨(10万円)や銀貨(1,000円)といった物理通貨しか存在しないが、私の脳内に埋め込まれた借金システムは、非情にも1円単位で利息をカウントし、請求してくる。
呼吸をするだけで寿命という名のチャージが削られていく感覚。それが私の朝の定番になっていた。
だが、今日は少しだけ違った。
昨晩の記憶が、舌の上に残っていたからだ。
リナと二人、屋台で食べた串焼き。焦げた醤油の香ばしさと、溢れ出る肉汁。そして何より、脂で口元を光らせながら「おいしいね、カイトさん」と破顔した彼女の笑顔。
昨日は私の懐具合を気遣ったリナが、頑として譲らず奢ってくれたのだ。あれは、金では買えない……いや、金を稼がなければ守れない光景だ。
「……行くか」
私は頬を叩き、薄汚れた布団を跳ね除けた。今日も生き延びるために。
†
一方、スラムの別の区画にある一室。
リナもまた、薄い毛布の中で目覚めていた。
彼女はそっと自分の唇に指を這わせる。昨夜食べたものの味が、まだ夢の中に残っているようだった。
奴隷になってから、食事とは「餌」でしかなかった。けれど昨日は違った。カイトが隣にいて、同じものを食べて、笑い合った。
「カイトさん……」
名前を呟くだけで、胸の奥が温かくなる。
パーティ制度。それは借金取りたちが決めた「足枷」なのかもしれない。けれどリナにとっては、公式に彼の隣に在ることを許された証だった。
足手まといにはならない。リナは小さく拳を握りしめ、顔を洗うために共同井戸へと走った。
†
スラムの出口付近で落ち合った私たちは、朝の喧騒に包まれる商工ギルドへと向かった。
昨晩のうちに示し合わせていた通り、私たちは今日から正式な「パーティ」として依頼を受ける。
受付カウンターへ向かうと、職員は私たちの顔を見るなり、一枚の依頼書を提示した。まるで、私たちが来るのを待っていたかのように。
「カイト様、リナ様。パーティ結成おめでとうございます。早速ですが、ギルドより指名依頼が入っております」
事務的な口調で告げられ、提示された羊皮紙を受け取る。
私の視線は、依頼内容や場所よりも先に、紙面の右下――「報酬欄」へと吸い寄せられた。
借金奴隷にとって、そこ以外に価値のある情報はないからだ。
――報酬:1人につき、金貨28枚(280万円)。
私は息を呑んだ。
パーティ合計で金貨56枚(560万円)。Eランクの運搬依頼にしては破格すぎる。
私は不審に思い、視線を少し上げて「品目欄」を確認した。そして、納得と共に眉をひそめた。
「『皇帝薔薇』の移送……?」
「はい。先日、カイト様が手当てをされた個体群です。エリーゼ様が王都の温室へ移すことを決定されました」
依頼主は、あの大貴族の令嬢エリーゼか。
護衛自体は本職の傭兵や騎士が行うのだろう。私たちに求められているのは、あくまで「荷物」としての薔薇のケアと、力仕事だ。だからこその低ランク指定。
しかし、私はこの世界の地理にもまだ疎い。
「なあリナ。この王都とやらまでは、どれくらいかかるんだ?」
「えっと、ここからだとかなり遠いですよ。馬車を使っても片道で2日はかかります。向こうでの手続きや荷物の積み下ろしも含めると……往復で最短4日は見ておいた方がいいですね」
リナの説明を聞き、私は顔を曇らせた。
4日。
今の借金総額は約5,200万円。これを4日間放置すれば、複利計算によって利息は雪だるま式に膨れ上がる。
単純な掛け算ではない。1円単位で増え続ける利息を、今の疲弊した頭で正確に弾き出すのは不可能だ。
私はカウンターの脇に設置された水晶玉のような魔道具――『借金シミュレーター』に手をかざした。これはギルドが奴隷たちのために用意している計算機だ。
現在の借金総額と、経過日数を入力する。
【計算結果:4日後の累積利息 約2,150,000円】
水晶に浮かんだ数字を見て、私は小さく安堵の息を吐いた。
報酬は280万円。累積利息約215万円を支払っても、約65万円が手元に残る。王都での滞在費を差し引いても十分な黒字だ。元金返済にも回せる。
以前の私なら狂喜乱舞して飛びついただろう。
だが、今の私には致命的な問題がある。それは「タイミング」だ。
昨日の報酬はすべて借金の返済に消えた。今の私の手持ちは、以前リナと出かけた際に、万が一のためにとあえて持ち出さずに部屋の床下に隠しておいた、僅かな「へそくり」の残りかすだけだ。
以前、持ち歩いていた分はすべて債権者に巻き上げられたが、置いておいた分だけは無事だった。だが、こんな雀の涙ほどの小銭では、1日分どころか、数分間の利息すら払えない。
もし今回の報酬を「完全後払い」にされた場合、私は王都への道中で利息未払いによるペナルティ――『生命力の徴収』を受けることになる。
これくらいでは死にはしないだろう。だが、魂を万力で締め上げられるような激痛と衰弱は、仕事を遂行する上で致命的だ。
「……受ける。だが、依頼主の元で交渉させてもらう」
「ええっ!? こ、交渉ですか、カイトさんっ」
私は驚くリナを促し、指定されたエリーゼの屋敷へと急いだ。
†
貴族街にある広大なエリーゼ邸。その庭園の一角に、異様な空気が漂っていた。
以前私が根腐れを処置した場所に、大小様々な『皇帝薔薇』が鎮座している。それらは見違えるような毒々しいまでの鮮やかさで咲き誇っていた。
周囲には屈強な奴隷たちが数名集められていたが、彼らは一様に怯えていた。
それもそのはず、皇帝薔薇の棘付きの蔦が、まるで蛇のように蠢き、近づく者を威嚇しているのだ。
「シャアアアッ!」
「ひっ!?」
一人の奴隷が悲鳴を上げて尻餅をつく。
意思を持つ魔植物。機嫌が悪ければ、その棘で人間など容易く麻痺させ、養分にしてしまう。
「あら、来たのね、カイト」
日傘を差したエリーゼが、優雅に歩み寄ってきた。
その瞬間、薔薇たちの動きが一斉に止まる。そして、私の方へ向かってシュルシュルと蔦を伸ばすと、私の肩をポンポンと叩き、花弁をフルフルと震わせた。まるで子犬が飼い主にじゃれつくようだ。
私が苦笑いして撫でてやると、薔薇たちは嬉しそうに葉を揺らす。
だが、その直後だった。
私の背後にいたリナが、恐る恐る前に出た瞬間、薔薇の態度が豹変した。
「フシャアアアッ!!」
「きゃっ!?」
鋭い棘を逆立て、リナに向かって威嚇音を鳴らす。
「いやああああ!」
リナは、皇帝薔薇がなぜこんなにも暴れるのか、何となく察した。以前、仕事とはいえ無理やり掘り返して移動させた一員として、リナ自身の顔を覚えているのだ。
蔦がリナの足元を執拗に叩く。ただし、寸止めだ。棘を刺せば私が怒ると理解しているのか、あるいは麻痺毒で動けなくしては運搬に支障が出ると分かっているのか。
「うう……やっぱり、嫌われています……」
「あら、その狐獣人の娘……確か、以前庭を掘り起こした時の作業員かしら? 随分と好かれているようね、熱烈なご挨拶だこと」
エリーゼが口元を扇子で隠してくすりと笑う。
エリーゼには、リナの名前など記憶にもなかった。リナは以前雇った有象無象の労働者の一人に過ぎない使い捨ての道具同然、当然である。
すると今度は、薔薇たちが一斉にエリーゼの方を向き、「シャーッ!!」と最大の敵意を向けた。
「まったく! この子たち、少しは大人しくできないのかしら」
自分たちをここから引っこ抜くよう命じた張本人として、獣人の幼女以上に嫌われているらしい。
だが、エリーゼ自身が手間暇をかけて与える高級な肥料と水には抗えないのか、攻撃までは仕掛けられない様子だった。
「ふん、可愛げのない。……それで? ギルドから話は聞いているわよ」
エリーゼは不機嫌そうに扇子を閉じ、私に向き直った。
ここが勝負所だ。
「エリーゼ様、単刀直入に申し上げます。今回の依頼、提示された報酬を『全額前払い』でいただきたいのです」
周囲の家令や護衛が息を呑む気配がした。借金奴隷が貴族に条件をつけるなど、本来は不敬に当たる。
だが、私には引けない理由がある。
「前払い? どうして私がそんな特例を認めなければならないの?」
彼女が疑問を抱くのはもっともだ。むしろ、すぐに却下されないことに幸運を感じる。
「見ての通り、この薔薇たちは非常に繊細で、情緒が不安定です。これから積み込みを行い、王都までの2日間、馬車の揺れというストレスを与え続けることになります。今の機嫌を維持し、暴れさせずに運べるのは……私だけかと」
私は暴れようとする蔦を素手で掴み、優しく撫でて落ち着かせた。薔薇は私の手の中で大人しくなる。
「ですが、私には今、街に残した借金の返済という憂いがあります。このままでは道中で利息の支払いが滞り、『徴収』が始まってしまう」
「徴収……ああ、生命力の」
「はい。死にはしませんが、あの激痛と衰弱の中で、この気難しい薔薇たちのメンタルケアを完璧に行う自信はありません。もし私が苦痛で意識を飛ばした隙に薔薇が暴れ出し、花が散るようなことがあれば……」
「……それは困るわ。この子たちは陛下への献上品でもあるのですから」
エリーゼが柳眉を寄せ、考え込む。
私はさらに言葉を重ねた。
「報酬を今いただければ、私の憂いはなくなります。そうすれば、寝ずの番でこの子たちの機嫌を取り、最高の状態で王都へお届けすることを約束します」
嘘ではない。利息さえ払えれば、私は命がけで働く。
エリーゼは扇子で私の胸元をトンと叩いた。
「いいでしょう。貴方のその『薔薇望』には価値がある。ですが、全額は認められません。貴方が金を持ち逃げしないという保証がありませんからね」
「……ではっ…」
「半額! それをカイトに手付金として支払います。残りは王都で、薔薇を無事に引き渡した後に」
彼女の合図で、執事が革袋を投げ渡してきた。
受け取ると、確かな重量感があった。
中を確認するまでもない。私の報酬の半額、金貨14枚(140万円)だ。
全額ではないが、これで十分だ。王都までの片道2日分の利息、約104万円を支払っても、まだ手元に余裕が残る。
残りの半分は向こうで受け取れば、帰りの利息も払える。
死なずに仕事を全うできる。
「ありがとうございます。――よし、リナ、積み込みにかかるぞ」
「は、はいっ! ……あ、あの、蔦が、私の服を引っ張って……!」
「シャーッ!」
薔薇は私に媚びを売りつつ、隙を見てはリナのスカートの裾を蔦で捲り、恥ずかしがったリナを転ばそうとしていた。
(いいぞ、もっと捲れ!)
出発は今夜。
私の命と、リナの受難を乗せた馬車が、まもなく動き出す――。
【現在の借金状況】
借金総額:54,642,837円
魂の限界までの猶予額:278,600円
次回、生命力徴収開始予測:残り約12時間
現在の所持金:金貨14枚(1,400,000円)




