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第10話:運ぶ獣(キャリー・ビースト)

 それは、借金奴隷たちがバルディ男爵家で薔薇の手入れを終えた、翌日のことだった。

 

 成金趣味の悪臭が漂うバルディ男爵家の庭園で、エリーゼ・フォン・アルニムは扇子で口元を覆いながら、冷ややかな視線を投げかけていた。


「これで取引成立ということでよろしいかしら? ロドルフ」

「ははっ、相変わらずお優しいですねえ、エリーゼ様! まさかあの厄介な植物に、これほどの値を付けていただけるとは!」


 ロドルフは下卑た笑みを浮かべ、エリーゼが提示した小切手を懐にしまい込んだ。19歳という若さながら、その表情にはすでに貴族社会のおりのような欲が張り付いている。


 彼の背後には、禍々しい蔦を蠢かせている『皇帝薔薇カイザー・ローゼ』が鎮座している。以前、あの借金奴隷たちに手入れをさせた時よりも、幾分か機嫌が悪そうに見える。


「厄介、ね。貴方のような審美眼のない人間に管理されていたこの子が不憫でならないわ。アルニム家の温室で、最高級の待遇を用意してあげる」

「ご立派な心がけですが……こいつを運ぶのはマジで骨が折れますよ? うっかり近づくと、使用人の指の一本や二本、平気で食いちぎりますから」


 ロドルフの軽薄な忠告に、エリーゼは鼻で笑った。


「ご心配には及びませんわ。運搬のための人手は、商工ギルドを通じて手配済みですもの」


 彼女は背後に控えていた執事に目配せをする。


 危険手当を上乗せした高額依頼だ。借金に首まで浸かった奴隷など、ギルドに声をかければいくらでも湧いてくる。


 たとえ作業中に怪我人が出ようとも、それは「道具」の使い方の問題に過ぎない。彼女が気にするべきは、この美しい薔薇に傷がつかないかどうか、それだけだ。


「さあ、急いで運ばせなさい! 夜風に当てて、この子の美貌を損ないたくはないの」



 †



 商工ギルドの1階。掲示板に貼り出されたその依頼書は、周囲の依頼とは一線を画す異様な高報酬が提示されていた。



『観葉植物の運搬補助。要体力。未経験の借金奴隷も歓迎《アットホームな職場》です!』



 そこに記されていた金額は『金貨1枚』。


 私は迷わずその依頼書を剥ぎ取り、受付へと走った。狐の耳が、興奮でピクリと震える。

 カイトさんの顔が浮かんだからだ。


 あの人は、今も利息という見えない怪物に魂を削られている。


 私もここしばらく借金奴隷として働いているけれど、石板に刻まれた借金の数字は、毎日働いても働いても、なぜか増えていくばかりだ。桁が多すぎて、私にはもうよくわからない。ただ、休めば死ぬということだけは理解している。


 でも、カイトさんはもっと大変そうだった。

 同じ家で目が覚めた時のことを思い出す。


 彼は私の寝顔を見て、少し動揺していたようだった。男性特有の生理現象にも気づいてしまったけれど、私は寝たふりを続けた。彼が必死に理性を保とうとしているのが伝わってきて、なんだか少し、嬉しかったからだ。


(最後はお股に手を伸ばしかけていたけど、おしっこ行きたかったのかな?)


 もっと稼いで、生活の足しにしなければ。

 ポーションをくれ、さらには気絶した私を介抱し泊めてくれた恩に報いるには、それしかない。


「……おい、嬢ちゃん。本気か?」


 受付の職員が、依頼書と私の顔を交互に見比べて顔をしかめた。


 いつもの事務的な態度とは違う、少しだけ声を潜めたトーンだ。


「はい! 私、力仕事には自信があります。獣人の体力なら、荷運びくらい……」

「いや、重さの話じゃねえんだ」


 職員はカウンターから身を乗り出し、周囲に聞こえないように囁いた。


「これ、運ぶのは『皇帝薔薇』だぞ。貴族様は何も言わずに募集してるが……こいつは人を喰う植物だ。棘にかすっただけで麻痺して。下手すりゃ呼吸困難で死ぬぞ」


 私は息を呑んだ。

 依頼主からの通達事項には、そんな危険性は一言も書かれていなかった。ただの「観葉植物」だと。


 貴族にとって、私たち借金奴隷の安全など、伝える必要すらない些細な情報ということか。


 だが、その危険があるからこその『金貨1枚』なのだ。これだけあれば――。


 私の手は依頼書を離さなかった。


「……やります。お金が、必要なんです」

「……そうか。なら止めはしねえ。だが、絶対に薔薇の『ツタ』の近くには立つなよ」



 †



 現場は地獄のような緊張感に包まれていた。


 巨大な鉢に植えられた薔薇は、まるで生き物のように蔦をくねらせ、近づく作業員を威嚇している。


「おい、もっと右だ! バランスを崩すな!」

「ひっ! 蔦が、足に!」

「と、棘が刺さっ……」


 他の人間の奴隷たちが悲鳴を上げる中、私は鉢の底部を支える最も負荷のかかる位置に入った。

 私が獣人であり、9歳相応の小柄さであることも考慮された配置なのだろう。


 銀色の髪を振り乱し、獣人特有の筋力を全開にして踏ん張り運び続ける。


 カイトさんなら、この重さには耐えられないだろう。


 彼には魔力もなければ、私のような獣人の膂力りょりょくもない。

 だからこそ、これは私がやるべき仕事だ。彼ができないことを私がやる。それが、私がここにいる意味だから。


 馬車への積み込み、そしてアルニム家の屋敷への搬入。

 道中、馬車の窓から優雅に外を眺める貴族の令嬢の姿が見えた。彼女は一度もこちらを見なかった。彼女の関心は、荷台の薔薇が無事かどうか、それだけに向けられているようだった。


 作業が終わる頃には、日はとっくに落ちていた。

 体中が泥と擦り傷だらけだったが、なんとか五体満足でやり遂げた。


「ご苦労様。これは報酬よ」


 背後に控えていた執事から受け取った革袋を、捨てるように投げ渡される。ずしりとした確かな重み。金貨特有の、高く澄んだ音がかすかに響く。

 私は震える手でそれを握りしめ、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます……!」


 これで、カイトさんに美味しいものでも食べさせてあげられる。この前のお礼をしなきゃ!


 私は痛む体を引きずりながら、商工ギルドへと急いだ。



 †



 夜の商工ギルドは、昼間とは違う異様な静けさに包まれていた。


 今日の稼ぎを返済に充てるためカウンターへ向かおうとすると、黒服の職員が私の前に立ちはだかった。


「リナ様ですね。本日はこちらの窓口へどうぞ」


 案内されたのは、いつもの1階一般窓口ではなく、階段を上がった先にある2階の部屋だった。


 深紅の絨毯が敷かれ、革張りのソファが置かれたその空間は、スラムの住人である私にはあまりに場違いだった。


「あの、私はただ返済を……」

「ええ、金貨を用いた高額の返済処理はこちらで行う規定となっております」


 そうなのだろうか。確かに今日の報酬は、スラムの住人が一生かけても拝めるかどうかの大金だ。


 私は緊張しながら手続きを進める。


 ふと、部屋の隅にある別のブースが目に入った。

 誰かが座っていた形跡がある。カイトさんも、時々ここに来ているのだろうか?


 いや、まさか。彼は私と同じ借金奴隷だ。こんな豪華な部屋に通されるはずがない。


 私は報酬の一部を手元に残しつつ借金の返済手続きを終え、逃げるようにその部屋を後にした。


 早く帰って、カイトさんにこの成果を伝えなければ。


(カイトさん、会えますよね?)



 †



 リナが出ていった扉を見つめながら、男は4階の吹き抜けの手すりから視線を戻した。


 片眼鏡モノクルの奥にある瞳が、冷徹な計算の光を帯びる。


「……なるほど。体力フィジカルと従順さ、そして金銭への執着。ピースとしての性能スペックは悪くない」


 ギルド幹部である彼は、先ほどまでのリナの返済の一部始終を、手元の『真実の石板』を通して観察していた。


 彼女には気づかれていない。ただの事務処理だと思わせている。

 男の執務室の机には、二枚の報告書が並べられていた。


 一枚は、現在スラムで生き延びようとあがいている『鈴木スズキ 海人カイト』。

 もう一枚は、今日「皇帝薔薇」の運搬という危険なクエストを完遂した獣人『リナ』。


「カイト君単体では、そろそろ資金の『プール』が枯渇する。このままでは数日中に寿命が尽き、せっかく育てた元金アセットが焦げ付いてしまう」


 男は顎に手を当て、思考を巡らせる。


 カイトに直接、高額な仕事を斡旋するのは容易い。だが、それでは面白くない。彼自身の手で稼がせてしまえば、彼の中に「特別依頼でなんとかなる」という甘えが生まれる。


「……だが、このリナという燃料リソースを投入すればどうだ?」


 男の脳内で、盤面が切り替わる。

 カイトという脆弱なキングを生かすために、彼自身を強化するのではなく、リナというクイーンもどきをサポートにつける。


 リナが稼ぎ、その金をカイトの維持費に回させる。

 男が求めているのは、カイトが自力で借金を返す姿ではなく、他者に依存し、情けない姿を晒しながらも利息だけを永遠に吸われ続ける地獄図だ。


「『パーティ』を組ませるのが最適解ベスト・ムーブですね」


 男は愉悦に口元を歪めた。

 稼げる女と、借金まみれのヒモのような男。その共依存関係は、実に美しい破滅のドラマを生むだろう。


「次は彼らに、より『効率的』な搾取の場を提供してあげましょう。……投資家としての、慈悲ですよ」


 男はカイトの資料の上に、リナの資料を重ねて置いた。


 そしてこの薔薇が、明日にも根腐れを起こし、再びカイトとエリーゼを引き合わせるきっかけになることなど、この時の彼ですら完全には予測できていなかった。

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