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第1話:呼吸する数字

 腐った板きれと泥で固められた、四畳半ほどの薄暗い小屋。


 天井の隙間からは雨がポタポタと垂れ、床に置いた桶が濁った水で満たされていく。ここが、異世界に転生した私の「城」だった。


 その粗末な空間に似つかわしくない、上質なベルベットの外套マントを纏った男が、眉をひそめながらハンカチで鼻を覆っていた。


 男は、テーブル代わりの木箱の上に、一枚の羊皮紙を無造作に放った。


 私の目の前で止まったその紙の一番上には、私のチートかどうかも疑わしい唯一のスキルである『自動翻訳』によって、禍々しい赤字でこう記されていた。



【債務一括請求書(最終通告)】



 心臓が跳ねた。「債務」――その二文字を見た瞬間、日本での忌まわしい記憶がフラッシュバックする。


 恐る恐る視線を下に落とす。そこには、魔導具で焼き付けられた数字が記されていたが……その数字は、奇妙なことに生き物のように動いていた。



請求合計金額:金貨549枚と銀貨15枚、銅貨1枚……



 末尾の銅貨以下の桁が、まるで壊れた計器のように高速で回転し続けている。


 その横には、親切にも日本円換算の注釈が添えられていたが、そこにも曖昧さは一切なかった。

(日本円換算:54,915,125.45円……131.81円……138.17円……)


 一円の位が、ストップウォッチではなく、まるで時限爆弾のカウントダウンのように、正確に「1秒ごと」にリズムよく切り替わっていく。


 呆然としている数秒の間にも、十円の位が「カシャッ」と音を立てるような勢いで繰り上がった。


「……な、なんだこれは」


 乾いた喉から、ようやくそれだけの言葉が漏れた。


 5,000万円を超えている。見間違いではない。私が瞬きをする間にも、その数字は秒速6円を超えるという恐ろしい速度で膨張し続けているのだ。


「計算が違う、と言いたげな顔ですね」


 木箱の向かい、持ち込んだ折り畳み椅子に腰掛けた男が、泥だらけの床を嫌悪しながら言った。


 その胸元には、この街で絶対的な権力を誇る『商工ギルド』の金バッジが鈍く光っている。スラムの住人はおろか、一般市民でさえ平伏する権力者の証だ。


 男は、請求書を見て凍りつく私を楽しみながら、羊皮紙を細い指でトントンと叩く。


「あなたが異界から持ち込んだ『魂の負債』の現在価格ですよ」

「魂の……負債?」

「とぼけても無駄です。私の『鑑定』スキルは誤魔化せませんよ」


 男は片眼鏡モノクルを光らせ、私の汚れた胸元を指差した。


「220日前、あなたがこの世界に現れた時、あなたの『ステータス』には奇妙な称号が刻まれていた。『多重債務者』……そして備考欄には『残高7,000,000円』という異界の数字」

「ステータスだと……?」


 私は自分の胸元を呆然と見下ろした。


 この世界に「ステータス」や「スキル」という概念があることは、スラムでのゴミ漁りの最中に耳にしていた。だが、それを見るための「鑑定の儀」には金貨が必要で、その日暮らしの私には一生縁のない話だと思っていた。


 まさか、自分では見ることのできないその場所に、日本での借金が刻み込まれていたというのか。トラックに轢かれて死んだのに、借金だけが呪いのように魂にへばりついて、この世界までついてきたとでも?


「待て! 仮にステータスにそう書いてあったとしても、あんたには関係ないだろ! あんたに借りた覚えはない!」


 私が食ってかかると、男は呆れたように首を振った。


「これだから異界の迷い人は……。この世界の『商業神の教義』をご存知ないようだ」


 男は羊皮紙の裏面に書かれた条文を指差した。


「『全ての負債は神聖であり、債権者は絶対である』。私はギルドの権限を行使し、あなたのその『持ち込み負債』の管理権を、『世界システム』から正式に購入しました」

「……システム?」


 今度は、聞き慣れない言葉に眉をひそめた。ステータスは聞いたことがあるが、「世界システム」などという単語は、この中世風の世界観には不釣り合いだ。


「なんだそれは。この国の政府機関か? それとも中央銀行みたいなものか?」

「ふっ、無知とは幸せですね」


 男は鼻で笑った。


「組織ではありませんよ。ステータスやスキル……それらを管理・演算している『世界のことわり』そのものです。私はそこへ所定の手続きを行い、代位弁済――つまりあなたの借金を肩代わりした。今のあなたの債権者は私だ」


 理屈は飲み込めないが、現実にコイツが私の借金を握っていることだけは理解できた。


 私は木箱を叩いて立ち上がった。


「ふざけるな! だとしても計算がおかしい! 元の借金は700万だぞ!? なんで5,000万なんて数字になるんだ!」


 男は冷ややかな目で私を見据え、淡々と答えた。


「郷に入っては郷に従え、ですよ。あなたの負債がこの世界で管理される以上、適用されるのはこの国の法律です」


 男は決定的な事実を突きつけた。


「この国で、信用度の低い『異邦人』に適用される標準的な金利は――『トイチ(十日で一割)』の複利です」


 トイチ。その言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。だが、私は紙面を指差して反論した。


「トイチなら『10日ごと』に増えるはずだろ!? なんでこの数字は、今この瞬間も秒単位で増えてるんだよ!」


 男は「素人はこれだから」と呆れたように首を振った。


「いいですか、トイチというのは『10日で1割増えるペース』という速度の話です。もし計算が10日に1回なら、あなたは9日目に返済して利息を踏み倒そうとするでしょう? そんな『借り得』を、完全無欠な魔法契約が許すはずがない」


 男は空中に指で螺旋を描いた。


「この世界の借金は、10日後にきっちり1.1倍になるように、1秒ごとに極小の利息が加算され続ける(リアルタイム・コンパウンド)のです」

「……なっ」

「5,500万円に対し、トイチなら10日で550万円。1日なら55万円。1分なら約380円。そして1秒なら……約6.36円」


 男は歌うように告げた。


「呼吸を一回するたびに、心臓が一回脈打つたびに、あなたの借金は積み上がる。一秒たりとも、金利からは逃げられない」


 私は絶句した。


 それはつまり、休むことのない拷問器具だ。


 話しているこの瞬間にも、分速380円、10分で4,000円近く増え続けているのだ。


「計算してみましょうか。元金700万円相当。これをトイチの速度で220日間走らせた結果がこれです。厳密な計算上の債務総額は、5,698万1,924円と57銭になっています」


 男は手元の魔導計算機を弾き、その発光する盤面を私に見せつけた。小数点以下の端数まで、氷のように冷たく確定している。


 しかし、男は羊皮紙の数字を指差した。


「ですが、この羊皮紙の数字は、あえて少し低い数字からスタートさせました」

「……あえて、低くしただと?」


 私は食い入るように男を見た。


「なんでだ。温情のつもりか? ……いや、それ以前におかしいだろ。あんたが俺の借金をそこまで正確に把握していたなら、なんで700万のうちに取り立てに来なかった? 220日前、俺を見つけた瞬間に請求すればよかったじゃないか!」


 安くした理由も不可解だが、放置していた理由はもっと不可解だ。男の行動は矛盾だらけだ。


 男は、雨漏りのする天井を見上げ、商売人としての冷徹な眼差しを向けた。


 まずは「なぜ放置したか」の答えからだった。


「商品価値の問題ですよ」

「商品価値?」

「700万程度の借金では、あなたを合法的に『奴隷』に落とすには金額が足りない。この国の法律では、債務者を完全な所有物(奴隷)とするには、その借金総額が『金貨500枚(5,000万円相当)』を超過していなければならないのです」


 男は愉悦に浸るように続けた。


「700万で捕まえても、ただの期間限定の奉公人で終わりだ。それでは旨味がない。だから、私は待ったのです。あなたが借金の存在に気づかず、あるいは『異世界だから関係ない』と現実逃避し……トイチの複利が雪だるま式に膨れ上がり、あなたが『奴隷』として熟成する今日という日を」


 血の気が引いた。私は泳がされていたのだ。


「……なるほどな。奴隷にするために、5,000万を超えるまで待ったわけか」


 私は乾いた笑い声を漏らし、そしてもう一つの疑問をぶつけた。


「だったら、なおさら最初の話に戻るぞ。計算上は5,698万なんだろ? なのに、なんで目の前の数字は5,491万スタートなんだ? 200万も安くしたら、あんたの損じゃないか」


 男の返答は絶望的だった。


「温情だとでも? まさか。これはあなたの『魂の限界スペック』の問題ですよ」

「魂の……限界?」

「ええ。借金奴隷の契約紋は、対象の魂に直接刻み込みます。ですが、あなたには魔力もなければ特別なスキルもない。ただの脆弱な魂だ」


 男は憐れむように、しかし残酷に告げた。


「本来の請求額である5,698万1,924円分の呪いを刻めば、あなたの貧弱な魂は耐えきれずに砕け散って死んでしまう。死なれては元も子もない」


 男は羊皮紙の数字を爪で弾いた。


「5,492万1,437円。これが、あなたの魂が崩壊せず、かつ廃人になる寸前で耐えられるギリギリの限界値です。1円でも多く乗せれば、あなたの魂は砕け散ってしまう」


 その言葉を聞いて、私はハッとした。


 視線を羊皮紙に戻す。


 私がこの男と会話をしていた十数分のうちに、数字は6,000円以上も進み、限界値に肉薄していた。


54,921,424.20……424.21……


 チッ、と音がして、数字が動く。

 今、6.36円が加算された。


……430.57……


 また、動いた。


 今度は端数の繰り上がりで6.37円が増えた。


 限界値は437円。

 現在の数字は430.57円。


 次の一秒で6.36円が足されれば、436.93円。

 その次は437円を超え、私は死ぬ。


 つまり、あと2秒。


「お、おい! 止めてくれ! 死ぬぞ!」


 私が叫ぶのと、数字が切り替わるのは同時だった。


……436.93……


 限界値まで残り0.07円。

 次の一撃で、確実に死ぬ。

 私の魂が終わるまで、残り一秒。


「あ、ああ……っ!」


 男は無言で、私が恐怖に歪む顔を眺めていた。


 そして、次の数字が刻まれる直前。


 パチン。


 乾いた指パッチンの音が、狭い小屋の空気を裂いた。


 それと同時に、羊皮紙の上で暴れていた数字が、ピタリと静止した。


請求合計金額:金貨549枚と銀貨21枚、銅貨4枚と屑鉄貨3枚

(日本円換算:54,921,436.93円)


 魂の限界まで、あと0.07円。

 文字通り、魂の皮一枚。


 私が息を吸うのも忘れて固まっていると、男はニッコリと笑った。


「たった今、『債務上限固定リミット・ロック』の術式を発動しました」

「……は、ぁ……」

「危ないところでしたね。あと一秒遅れていれば、次の6.37円が加算され、あなたはキャパシティオーバーで魂が砕け散るところでした」

「ふ、ふざけるな……! 殺す気か!」

「生かしましたよ。ギリギリまで太らせてね」


 男は懐から取り出した極上のワインを、私が水を飲んでいた欠けたマグカップに勝手に注いだ。


「さて、これで『借金総額』はコップのふちで止まりました。これ以上、元金が増えることはありません」


 男はテーブルにマグカップを置いた。そして、その上からさらにワインボトルを傾けた。


 当然、ワインはカップからあふれ出し、泥の床を濡らしていく。


「ですが、毎秒注がれる水――『利息』が止まるわけではありません。あふれた分はどうなると思います?」

「……まさか」

「この契約において、魂の容量からあふれ出した利息分は、あなたの生命力、つまり『寿命』から、毎秒即座に強制徴収されます」


 私は息を呑んだ。


「魔力を持たないあなたには、身代わりになってくれるエネルギーがない。つまり、あなたは秒刻みで発生し続ける利息を払い続けなければならないのです。払えなければ、その金額分の『命』が削り取られ、激痛と共に徴収される」


 ズキン、と胸の奥が痛んだ気がした。


 気のせいではない。心臓が動くたびに、命が小銭として抜き取られていく感覚。


 男は外套を翻し、この汚い小屋から一刻も早く立ち去ろうと出口へ向かった。


 私はその背中に向かって、すがるように叫んだ。


「ま、待ってくれ! こうして利息を払っていれば……命を削り続けていれば、いつか元金は減るのか!? いつか借金は終わるのか!?」


 男は足を止め、振り返らずに言い捨てた。


「元金を減らす? 夢のような話ですね。あなたはこれから、ただ生きて呼吸をするためだけに、あふれ出る利息を払い続けなければならないのです」


 借金が止まったのではない。


 地獄の釜の蓋が閉められ、逃げ場がなくなっただけだ。


「さあ、支払い能力がないことはステータスを見て知っています。契約成立だ。これより先、あなたの人生は全て、この毎秒あふれ出る数字を処理するためだけのものとなります」


 男が去った後、私は震える手で、その羊皮紙を握りつぶした。


 だが、どれだけ強く握っても、その数列が私の魂に刻み込まれた呪いである事実は、もう消せそうになかった。

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