3. 二つの太陽の下で
暗闇。
そして、かすかに、水の音。
ゆっくりとまぶたを開けた。
最初に見えたのは、白い靄がゆらゆらと空気の中で踊る光景だった。
頭が重い。まるで意識の半分がまだ夢の底に取り残されているみたいだ。
指を動かそうとしたが、身体が細かな砂に覆われているように鈍い。
……音がする。
-シュゥ……シュゥ……シュゥ……。
柔らかく、それでいて途切れない律動。
まるで大地の奥で、誰かがゆっくりと息をしているような音。
「……ん……」
うめき声を漏らしながら額を押さえ、ゆっくりと身を起こす。
「……何が……あったんだ……?」
周囲を見回す。
心臓が早鐘のように鳴る。
ふと横を見ると、そこに、黒いトランクが転がっていた。
目が覚める。
見間違えようがない。あれは、父さんのトランクだ。
這うようにして近づき、手を伸ばして触れる。
「……少なくとも、お前だけは……一緒に来てくれたんだな」
小さくつぶやいた。
顔を上げると、正面に淡い光が見えた。
それは呼吸するように、やさしく脈打ちながら、俺を導くように揺らめいている。
岩の裂け目の向こう、外の世界から差し込む光。
足を一歩、また一歩と進める。
湿った洞窟の壁が、足音を反射して低く響く。
さっきの音が、次第に近づいてくる。
強く、鮮やかに。
「……波の音……か?」
信じられない気持ちでつぶやいた。
身をかがめ、岩の隙間を抜ける。
光が一気に強まり、目を細めた瞬間-
空気が変わった。温かく、塩の香りを含んだ風が頬を撫でる。
そして俺は、洞窟の口から外へ出た。
息を呑む。
どこまでも広がる青。
本物の、海だ。
波が岩を打ち、白い飛沫が宙に散る。
空は透き通るような水色。薄い雲が水平線に沿って流れていく。
柔らかな砂の上に立ち尽くす。
足がわずかに沈み、海風が顔を包む。
鼻の奥まで潮の匂いが満ちていく。
「俺は……いったい……どこに……?」
返事はない。
聞こえるのは風のささやきと、頭上を過ぎる鳥たちの声だけ。
ただ、波が。
何度も何度も寄せては返していた。
-水平線の曲線が、妙に鋭く見える。
-空の青が、どこか異様に澄んでいる。
あれはアフリカの空でも、インド洋の海でもない。
こんな青、地球には存在しない。
砂を踏みしめながら、前へ。
足裏で砂が音もなく崩れていく。
背後の岩壁に、波の音が反響して不思議な旋律を奏でる。
風が吹くたび、鼻をくすぐる見知らぬ香り。
機械の油も、街の排気もない。
どこまでも、純粋な空気。
見上げた空に、息を呑んだ。
薄雲の隙間に、二つの太陽。
片方は白く淡く、もう片方は黄金色に光っている。
「……そんな、馬鹿な……」
何度も目をこすった。
でも、消えない。確かに二つ、そこにあった。
東には長く続く海岸線。
西には切り立った岩山。
その先には、見たこともない巨大な木々が伸びている。
現実離れしている、けれど、夢にしてはあまりに鮮明だ。
「いや……そんなはず、ない……」
深く息を吐いた。
「科学的に説明できるわけが……ない」
辺りを見渡す。
どこにも人工物は見当たらない。
「俺は……本当に……どこにいるんだ……?」
その瞬間、胸の奥で何かが拒絶した。
-パシン!
「いってぇ!」
頬を叩く音が洞窟の方にまで響いた。
ヒリヒリとした痛みが耳まで走る。
思わず顔をしかめる。
……痛い。
間違いなく、現実の痛みだ。
「……夢じゃ、ないってことか。」
乾いた笑いが漏れる。
まるで、自分の声が他人のものみたいだ。
「まさか、本当に……異世界に飛ばされたとか?」
我ながら、バカげた台詞だと思った。
だが、笑うしかなかった。
-父さんがよく読んでいた異世界ものの物語。
-剣と魔法、転移、冒険。
笑っていたはずなのに。
今、その中に俺がいる。
膝が砂に沈む。
疲れているわけじゃない。
ただ、脳が現実を受け入れきれないだけだ。
「……なるほどな。理屈じゃ説明できない現実ってのは……こういうことか。」
深く息を吸う。
潮の香りが胸を満たす。
遠く、見知らぬ樹海の方角から風が吹く。
鳥の鳴き声が、澄んだ空を切り裂いた。
すべてが新しい。
すべてが恐ろしく、そして、美しい。
俺は再び、海を見た。
そして、本当に久しぶりに、
自分が「どこへ行けばいいのか」分からなくなっていた。
ゆっくりと立ち上がり、俺は浜辺を歩き出した。
二つの太陽が、少しずつ西へと傾いていく。
この空気……どこかおかしい。
暖かいのに、やわらかくて、まるで全身を包み込むようだ。
海風が吹くたび、細かな砂が舞い上がり、ズボンと手にした黒いトランクにまとわりつく。
もう三十分は歩いただろうか。
ただ、歩くだけ。
左に海、右に森。前方には、どこまで行っても届かない水平線。
「……このままじゃ、日が暮れる前に倒れそうだな。」
つぶやきながら空を見上げる。
ゆっくりと流れる雲が、ここにも“夕方”という時間が存在することを教えてくれる。
そのとき、耳に届いた。
水の音。
かすかなせせらぎ。
葉の間を縫って届く、小さな歌のような水音だった。
耳を澄ます。
間違いない。
どこかに、川がある。
考えるより先に、俺の足は森の方へ向かっていた。
空気が変わる。
涼しい。湿り気を帯びた匂い。
木々の間を抜ける陽光が揺れ、見知らぬ虫の声が遠くで響く。
湿った土の匂いが、なぜか懐かしい。
-ああ、母さんの故郷、インドネシアの雨季も、こんな匂いだったな。
数分も歩かないうちに、それは見えた。
白い岩の間をゆったりと流れる、ガラスのように透き通った川。
俺は川辺にしゃがみ込み、水面をのぞき込む。
そこに映るのは-俺。
けれど、どこか違う光の中にいる俺。
まるで、この世界そのものが、すべてを少しずつ異質にしているみたいだった。
「……きれいな水だな。」
そっと指を入れる。
冷たい。
それでも心地よい。
迷いもなく、手ですくって口に含む。
喉を通る冷たさが、頭のもやを洗い流していくようだった。
「……よし。」
顔を上げ、周囲を見回す。
地面は平らで、水辺から少し離れた場所には大きな木々が生えている。
風も穏やかだ。ここなら、夜を越せる。
「悪くない。」
俺は黒いトランクを下ろし、大きな岩の上に腰を下ろす。
「混乱してても仕方ない。……まずは、生き延びる。」
トランクの留め金に手をかけ、静かに開けた。
中から現れたのは、漆黒の刀。
正田家に代々伝わる家宝だ。
陽の光が、刃の曲線をきらりと照らした。
俺はしばらく、それを無言で見つめる。
「……悪いな、親父。」
唇の端が自然とゆるむ。
笑っているのか、自嘲しているのか、自分でもわからない。
「家宝を、ちょっと……不本意なことに使わせてもらう。」
刀を持ち上げる。重さも、重心も、昔のままだ。
完璧なバランス。
「ご先祖様、呪わないでくれよ?」
くすりと笑うと、風が木々を揺らした。
まるで笑い返されたように。
それから俺は動き始めた。
枝を払う。草を刈る。地面をならす。
身体が勝手に覚えている。
現実感はまだ薄いのに、手は迷いなく働いていた。
ザシュ、ザシュッ-
刀の音と、枝が折れる音。
汗が頬を伝って落ちる。
それでも、胸の奥は静かだった。
……不思議なほど、落ち着いている。
二つの太陽が、木々の影に隠れ始めるころ。
小さな空間が出来上がった。
「……これで、しばらくは十分だな。」
刀を木に立てかけ、柄が空を向くように置く。
夕風が吹き抜け、枝葉を揺らした。
それがまるで、この場所を祝福しているように思えた。
空がゆっくりと橙に染まっていく。
「知らない世界で、最初の……拠点、か。」
自分の声が、祈りのように小さく響く。
大きな岩に背を預け、川面に目をやる。
黄金の光が水の流れに反射して、まるで星屑のようにきらめいていた。
-なぜだろう。
この世界に来て、まだ誰にも会っていないのに。
それでも今、ほんの少しだけ……孤独じゃない気がした。




