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2. 雷鳴の下で響く声(らいめいのしたでひびくこえ)

彼女、エレノア・モーガン医師は小さく笑った。

「中へ入りなさい。外にいたら、昼食前に干からびてしまうわ。」

中へ足を踏み入れると、消毒液の匂いと、古い木の香りが混じって鼻をくすぐった。


懐かしいのに、見慣れない空間。

その一歩で、俺は悟った。

-本当に、帰ってきたんだ。


天井の板も、打たれた釘の跡も、吊るされた古いランプも、昔のまま。

だが、部屋の中はすっかり変わっていた。

居間だった場所に診療台が置かれ、棚には包帯や薬瓶、患者のカルテが並ぶ。


ゆっくりと視線を巡らせる。

変わったのに、懐かしい。

まるで、この壁たちがまだ覚えているように感じた。

父の笑い声、母の足音、そして朝のコーヒーの香りを。


「……ずいぶん久しぶりね。」

エリー先生の声が、思考を引き戻した。


俺は振り返る。

彼女の銀髪は緩くまとめられ、眼鏡が鼻の先で揺れている。

十二年前と同じ穏やかな笑み。

かつて俺は、彼女を“エリーおばさん”と呼んでいた。

だが今、その呼び方は舌の上で少し重たく感じる。

戦場と契約の話ばかりしてきた舌には、もう似合わない。


「ああ。」

短く答える。

「最後にここへ来たときは……まだ居間のままだった。」


エリー先生は静かに微笑んだ。

「ダイチとラトナを失ってからね……この場所を空き家のままにしておくのは、あまりにも悲しくて。

それで、ここを常設の医療所にしたの。

スタッフは毎年変わるけれど、この家だけは、ずっと立ち続けている。

まるで、あなたの心みたいに。」


俺は小さく笑った。

息が漏れるだけの、乾いた笑いだった。

「もし俺の心がこの家みたいなもんだとしたら……もう半分はヒビだらけだ。」

「ヒビなら、まだ直せるわ。」


エリー先生はそう言って、奥の小さなキッチンに向かった。

湯気の立つポットと、古いカップを二つ。

「紅茶、まだ好きでしょう?」

「ええ。変わらず。」


香りがすぐに部屋いっぱいに広がった。

それは記憶の底を撫でるような匂い-

母が竹の椅子に座り、父が任務報告を書いていた午後の風景が、静かに蘇る。

窓の向こう、あの空を眺めていた幼い自分も、確かにそこにいた。


「落ち着いた顔になったわね。」

エリー先生が柔らかく笑う。

「でも、目は昔のまま。いつでも戦う準備ができてる目。」


言葉を返せなかった。

戦う場所が変わっても、理由が変わっても-

俺は、まだ戦場の中にいる。


少しして、静かに言った。

「ありがとうございます、先生。……この場所を守ってくれて。あなたがいなければ、とっくに跡形もなかった。」


彼女は首を横に振る。

「お礼なんていらないわ。ここはあなたのご両親の家よ。

あの人たちが、見返りを求めずに人を助けることを教えてくれた。

私はただ……その続きをやっているだけ。」


短い沈黙が落ちた。

窓から吹き込む風が、乾いた草と砂の匂いを運んでくる。


やがて彼女がまた口を開いた。

「ライ、疲れたでしょう。……両親の部屋、今もそのままにしてあるの。休んでいくといいわ。」


俺は視線を廊下の奥に向ける。

あの細い廊下の突き当たり、そこが二人の部屋だった。

小さな窓があって、父と一緒に夕日を眺めたのを覚えている。

あの頃の世界は、もっと単純だった。


「ええ、先生。でもその前に-」

ソファにリュックを置き、床に置いた黒いケースを手に取る。

「……裏の洞窟に、行ってきます。」


エリー先生の微笑みが少しだけ翳る。

けれど彼女は黙って頷いた。

理解のある目だった。


ケースを少し開ける。

中に納められた黒い鞘の刀-

そこに刻まれた紋章、向かい合う二枚の翼と、昇る太陽。

荘田家の象徴。


夕陽が反射して、鈍い光を放つ。

「ダイチなら、きっと喜ぶわ。」

エリー先生が静かに言った。

「彼はあの刀をとても大切にしていた。“武器じゃない、荘田の責任を示すものだ”って。」


俺は彼女を見つめ、ゆっくりとケースを閉じた。

「気をつけて。今の時期、突然スコールが来るかもしれないから。」

「分かってます。……行ってきます。」


立ち上がると、彼女はしばらく黙って俺を見ていた。

「ライ……あなたの両親、きっと誇りに思ってるわ。」


答えられなかった。

ただ軽く頭を下げて、背を向ける。


裏口を開けると、夕陽の光が顔を照らした。

手の中の黒いケースを、少し強く握りしめる。


足音が乾いた大地を叩く。

家の影が遠ざかるたび、過去の気配が背中にまとわりつくようだった。


丘へ続く細い道を進む。

風が吹き抜け、草を揺らす音が、俺の足音に混じる。

雨はまだ遠いが、空気には電気の匂い、嵐の前触れ。


この道は、もう覚えきるほど歩いた。

毎年ここへ戻ってきた。

ただ、洞窟の中の空の墓碑を掃除するために。

あるいは、沈む夕陽をただ見つめるために。


でも、今日だけは違う。

今日、俺は“置いてきたもの”を持ってきた。


手の中のケースが、いつもより重く感じる。

中身が俺に語りかけてくるようだった。

-忘れるな、と。

-お前の背負うものは、まだ終わっていない、と。

この刀はただの遺品じゃない。

俺がこれから歩く道そのものの証だ。

……もっとも、その“道”がどこに続くのか、俺にはまだ分からないが。


やがて、洞窟の入口に着く。

岩肌をなでる風が、低く唸りながら反響した。


そこに、まだ花があった。

白いバラと、小さな蘭。

きっとエリー先生が供えたのだろう。

膝をつき、墓碑に積もった砂を払う。

刻まれた文字が顔を出す。


-ダイチ・ショウダ

「戦うことより、癒すことを選んだ戦士。」

-ラトナ・アユ・サンティカ

「嵐の中でも決して消えぬ光。」


指先で、石の冷たさをなぞる。

「……父さん、母さん。来たよ。」

自分の声が、洞窟の中で小さく反響する。

「もう、随分経ったね。外の世界はまだ滅茶苦茶だけど……俺は、まだここにいる。まだ、生きてる。」


ゆっくりとケースを開けた。

金属の蝶番がかすかに軋む音。

そして、刃が鞘を擦る、あの独特の音。


黒い鞘、銀の羽根の装飾。

握りの革は古びているが、力強さを失ってはいない。

光の少ない洞窟の中で、刃は淡く光り、まるで闇を呑み込む線のようだった。

「荘田の刀-」

俺は呟く。

「父さんは言ってた。“この刀は人を斬るためのものじゃない。守れない者を守るためのものだ”って。」


刃に映る自分の顔を見つめる。

そこにいるのは、もう“誰か”の息子ではない顔。

自分でも、知らない男の顔だった。

そして-

鞘から刃がほんの少し抜ける。

カチリ。


金属が鳴る。

その音は、遠い空で鳴る稲妻の囁きのように、静かに洞窟の奥へと消えていった。

足が止まった。


洞窟の外を見上げると、空の色が変わっていた。

乾いた平原の上に、黒雲がものすごい速さで渦を巻いていく。

「……こんなに早く変わるなんて。」

思わず呟いた瞬間-

カァアアアン!


遠くの地平で、稲光が空を裂いた。

一拍遅れて、腹の底を震わせるような轟音。

洞窟の壁が微かに鳴る。

俺は慌てて刀を鞘に納め、黒いケースを閉じた。

「……嵐が来る。」


出口へ急ぐ。

だが、外の風はすでに狂っていた。

砂が巻き上がり、枯れ枝が宙を舞う。

まるで見えない何かが空気そのものを掴んで、引き裂こうとしているみたいだった。


「これは……普通の嵐じゃない……!」

空はただ暗いだけじゃない。

-回っている。

巨大な渦を描き、その中心には淡く光る何かが見えた。

耳鳴りのような震動が肌を這う。

空気がビリビリと震え、髪が逆立つ。

足を速めようとした、その瞬間-

ドオォォン!


稲妻が洞窟の真上に落ちた。

閃光の直後、天井の岩が砕けて落ちる。

地面が跳ね上がり、俺の体は弾き飛ばされた。

手からケースが離れ、床に転がる。


世界の音が、一瞬で二重になった。

高い音と低い音が重なり合って、耳の奥をえぐるように響く。


「……くっ!」

必死に立ち上がろうとするが、地面が波のように揺れる。

崩れた石が雨のように降り、視界が白い粉塵で霞む。


ケースが、見えた。

墓標のすぐそばに転がっている。


「刀が……!」

這うように手を伸ばす。

指先が取っ手に触れた、その瞬間-

ガァァァァン!

目の前で、白い閃光が爆ぜた。

息をする暇もない。


それは光じゃない。

生きている“何か”、壁のようなエネルギーの奔流だった。


空気が悲鳴を上げる。

体が軽くなり、見えない力に引きずられる。

掴もうとした岩は滑り、指から離れていく。


抵抗できない。

音も、光も、世界そのものが崩れていく。

そして-

最後に聞こえたのは、

天を裂くような雷鳴の咆哮だった。

-すべてが、闇に呑まれた。



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