1. 還る刃(かえるやいば)
東アフリカの空は、長いあいだ太陽に晒されて曇った鏡のようだった。
地平線はゆらゆらと揺れ、まるで空気そのものが燃えているように見える。
俺の乗るジープは、乾いた大地の上をゆっくりと走っていた。
タイヤが砂埃を巻き上げ、その茶色い霧が風に踊る。
助手席から前を見渡しても、あるのは石と枯れ草、そして世界の果てに続くような一本道だけ。
エンジンの唸りは単調だったが、俺はその音が好きだった。
あの音は、定だ。変わらない。
人間とは違って。
膝の上には黒いケース。
脚の長さほどの細長い鞄で、重さはたいしたことないのに、まるで俺の過去ぜんぶを詰めこんだように感じる。
表面には小さな紋章、向かい合う二羽の銀鶴。その上に昇る太陽。
荘田家の家紋だ。
親指でそれを撫でる。
金属が冷たく指先を刺した。
(父さん……約束は、守ったよ。この刀は今日、家に帰る)
大きな岩を踏み越えた瞬間、ジープが大きく揺れた。
だが俺の体は微動だにしない。
兵士時代の反射はまだ残っている。
これくらいの揺れでバランスを崩すことはない。
窓の外、砂漠はまるで死んだ海だ。
時々、思う。戦争にはいくつもの顔がある。
爆音と血の臭いに満ちた戦いもあれば、こうして静かに燃える戦いも。
そして、静かなほうが……残酷だ。
ダッシュボードのデジタルマップを見る。
赤い点が示すのは、旧・荘田基地。
あと数キロ。
今は医療組織の施設として使われているが、かつては……俺の家だった。
深く息を吸う。
熱く乾いた空気が喉を焼く。
だが本当に苦しいのは胸の奥の方だ。
(もう十年か)
時の流れなんて、数えるのをやめた瞬間から早くなる。
あの日、彼らが消えてから、俺は数えるのをやめた。
突然、強い風が吹いた。
砂塵がフロントガラスを叩き、ジープが少し横に揺れる。
隣のアレックスが小さく悪態をつき、ハンドルを立て直した。
俺は視線を逸らさない。
遠くの丘、薄い雲の切れ間から、黒い岩の突起が見えた。
その下に、小さな洞窟の入口。
あの洞窟だ。
両親が最後に目撃された場所。
一瞬だけ、目を閉じる。
静寂。
エンジンの音、風の唸り、そして俺の心臓の鼓動、すべてが同じリズムで鳴っているように思えた。
アレックスが口を開いた。
「なあ、それって……お父さんの刀か?」
俺はすぐには答えなかった。
数秒の沈黙のあと、短く言う。
「ああ。」
アレックスが口笛を吹いた。
「クールだな。たしか、お前の父さんは元自衛隊で……侍の家系なんだっけ?」
「まあ、そんなところだ。」
アレックスは笑い、ハンドルを軽く叩いた。
「売れば高くつきそうだな。アンティークの刀って、コレクターが群がるだろ?」
俺は彼を横目で見る。
視線が冷たくなるのを、自分でもわかった。
「“古びた”って言ったか?」
彼は俺のトーンに気づかず肩をすくめた。
「ああ、いや、そういう意味じゃ-」
俺は静かに言葉を挟む。
「その首、斬って見せようか? この刀がまだ錆びちゃいないって証拠に。」
一瞬、車内が凍りつく。
次の瞬間、アレックスが爆笑した。
「ハハッ! マジかよ! お前、本気で言ってるみたいだったぞ!」
俺は笑わない。
だが数秒後、口の端がかすかに上がる。
「危ない冗談が好きなんだな、アレックス。」
「で、お前は相変わらず冗談の通じない軍人だ。」
「冗談ってのはな、弾が尽きた兵士の最後の武器だ。」
アレックスが数秒黙り、くくっと笑った。
「お前さ、いつも本気なのか冗談なのか分かんねぇんだよ。」
「分からないなら、俺はまだ生きてるってことだ。」
短い笑いが返ってきて、車内の空気が少しだけ軽くなった。
ジープはゆるやかな坂を上る。
遠くの地面が赤く染まり始めた。
まるで大地の皮膚に走る古い傷跡のようだ。
アレックスがぼそりとつぶやく。
「お前とその刀、離れたくない恋人みたいだな。」
俺は答えない。
フロントガラスに映る自分の顔が、ぼやけていた。
黒い髪、濁った目、目の下の線。
止まり方を忘れた人間の顔。
アレックスが速度を落とし、低く呟いた。
「……いろんな戦場に行ったけどな。過去をお前みたいに見つめてる奴は、そういない。まるで過去がまだ生きてるみたいだ。」
俺は短く答える。
「過去は、生きてる。」
「どういう意味だ?」
「もし死んでるなら-」
俺は視線を前に戻す。
「なぜ、今も俺を追ってくる?」
アレックスはそれ以上、何も言わなかった。
ジープは砂を巻き上げながら、無言で走り続ける。
胸の中で、俺は静かに呟いた。
(もうすぐだ、父さん。……最近、なかなか顔を出せなくて、悪かった)
ジープが速度を落とし、やがて錆びついた鉄の門の前で止まった。
上に掲げられた看板の文字は、かすれてほとんど読めない。
それでも、薄く残った跡を目でなぞる。
-「荘田人道医療支援基地(Shouda Humanitarian Medical Outpost)」
長いあいだ風に晒され、色を失った文字。
だが、確かにそこには「荘田」の名が残っていた。
かつて“希望”を意味した名。
今では、墓碑のように見えた。
アレックスがギアを入れ替え、俺を見やる。
「ここ、なんだな?」
俺は小さく頷いた。
「ああ。」
彼が短く口笛を吹く。
「まだ残ってたとはな。てっきり紛争のときに更地になったと思ってた。」
「いいや。守る人たちがいた。」
ドアを開けると、軋む音が耳に刺さる。
熱風が顔にぶつかり、砂の匂いが鼻を刺した。
外の空気は想像より乾いている。
足を地につけるたび、砂塵がふわりと舞い上がった。
黒いケースとリュックを降ろし、ドアを閉める。
金属音が乾いた空気の中に響いた。
アレックスが窓を少し下ろす。
「用が済んだら連絡くれ。東の監視所で待ってる。」
俺は彼を見て、わずかに笑う。
「ああ。ありがとう、アレックス。」
「長居するなよ。お前が消えたら、俺は捜索任務なんてゴメンだ。」
「俺がここで死んだら、放っとけ。」
アレックスが一瞬黙り、そして爆笑した。
「マジでヤベえな、お前。ほんとに冗談のキレが最悪だ!」
親指を立て、アクセルを踏み込む。
ジープは砂を巻き上げ、遠ざかっていった。
舞い上がった埃が空中で渦を描き、やがて静かに消える。
俺はその背を見送りながら、目の前の建物を見上げた。
-まだ立っている。
灰色のコンクリートの壁。
いくつかは新しい赤レンガで補修されている。
鉄のドアは木製に取り替えられ、裏手には水塔が立っていた。
屋根の上で翻る白い旗-
その上に描かれた赤い十字は、色あせながらもまだ見えた。
庭では数人の医療スタッフが動き回っている。
補給箱を運ぶ者、水を汲む者、テントの下で報告書を書いている者。
皆忙しそうだが、ちらりとこちらを見る者もいた。
ほんの一瞬、探るような視線。
そしてすぐに、彼らはまた仕事に戻る。
俺はゆっくりと足を進めた。
一歩ごとに、古い記憶が土の下から顔を出すような気がした。
靴底が石畳を叩く音、トン、トン、トン-
やけに大きく響く。
古い窓の下で足を止める。
昔、母がいつもここから手を振ってくれた。
俺が祖父と訓練を終えて帰るたびに。
いま、その窓の向こうには薬瓶と医療器具の棚が見える。
家の居間は、いまや小さな診療室に変わっていた。
指先で窓枠に触れる。
塗り直されたペンキの下に、かすかに昔の感触が残っていた。
「父さん……母さん……この場所は、まだ生きてる。」
声に出して呟く。
「けど、生きてるのは“場所”だけだ。」
視線を丘の方へ向ける。
家の裏の岩山、その頂に、あの洞窟がある。
薄暗い入口がここからでも見えた。
胸の奥が、冷たく締めつけられる。
あそこを見るたびに、呼吸が浅くなる。
息をひとつ吐き、再び歩き出す。
正面の扉へ。
取っ手は新しいが、枠の形は昔のままだ。
ゆっくりとドアノブを押し下げる。
中から、誰かの足音と女性の声がした。
次の瞬間、扉が少し開き、柔らかな室内の光が俺の顔を照らす。
立っていたのは、銀色がかった髪の中年の女性だった。
白衣は少しくたびれている。
だがその目が、俺を見た瞬間-
懐かしさにわずかに揺れた。
「……ライ・ショウダ?」
驚きと信じられないような笑みが、彼女の唇に浮かんだ。
「まあ……なんてこと。こんなに大きくなって。」
その声、懐かしくて、優しくて。
一瞬、暑さが和らいだ気がした。
俺は軽く頭を下げる。
「お久しぶりです、エリー先生。」
第1章を読んでくださって、ありがとうございます




