第五話 落款応報
師の断末魔の叫びにすっかり腰を抜かして、少女はお鈴の幽霊を見上げた。
薄ぼんやりとしたお鈴の幽霊は小首を傾げるようにして、相変わらずじっとりと恨めしそうな目で睨んでいる。恨まれるのも当然だ。世間に根も葉もない醜聞を撒き散らし、お鈴から仕事を奪い、あまつさえ命まで奪ったのは、師と己なのだから。
次は己が狙われる──息を詰める少女の前で、お鈴の幽霊はただ静かに姿を薄れさせ、やがて消えていった。少女は呆然としたまま、その場にへたりこんだ。
ようやっと我に返った少女は、ほうほうの体で師に駆け寄る。ろうのように白くなった師にくりかえし声をかけるが、返事はついぞなかった。
夜が明けはじめた頃、少女はとぼとぼと重い足取りで役人の詰め所に向かった。画房に役人がやってきて師の遺骸を検分したが、傷一つないのを不審がるばかりで、お鈴の幽霊の話は一笑に付された。
師が亡くなったことで、錦絵新聞の仕事は途絶えてしまった。最初にお鈴を見出し、描いたのは己であるという自負が少女にはあったが、絵筆を迷わせている身で師の仕事を引き継いだとて、果たして何ができようか。
少女は唇を噛んで、己の力量のなさにふさぎこんだ。
かつて奉公先の商家の奥方に「お前はどうにも間が抜けているねぇ」と呆れられたことが思い起こされる。読み書きそろばんも、竈周りのことも、うまくできた試しがない。それでも、花を活けることと、絵を描くことだけは褒められた。
少女は幼い頃より絵を描くことを好んだ。花を活けるのは、絵の構図を考えるのに似ていた。
──己から絵を描くことをとったら、何が残るというのだろう。
寺から僧侶がやってきて師の葬儀の段取りを済ませたあと、少女は長屋の裏を流れる川縁に座り、ぼんやりと日の暮れるのをながめた。ときおり水面から跳ねる魚も、川縁に吹き渡る風にそよぐ草花も、洗濯物を取り込むのに忙しい長屋の人々も──どれも少女の描きたいという心に火をつけるものではなかった。
淡い群青色の空に、つんざくような悲鳴が響いた。少女がハッと顔を上げると、長屋の井戸の前で倒れている女の姿が見えた。倒れたまま、後ろ向きにじりじりと井戸に近づいていく動きが不気味だったが、黄昏時のことだからよくわからない。少女が近づくと、倒れた女の足に黒々とした髪の毛がまとわりついて、井戸に引きずり込もうとしているのが見えた。
あわてて手を伸ばす少女の目の前で、ざぶんと井戸の水が跳ねた。土に爪痕が残っている。井戸に引きずりこまれた女の目──突然の事態におののいて見開かれた目が、少女の心に強く残った。恐怖に固まる少女をよそに、黒々とした髪が井戸の中にすっ……と消えていった。おそるおそる身を乗り出して井戸を覗くと、中に女の姿はなく、ただ静かな水面があるばかりだった。
──あれは幻だったのだろうか。
もっとよく見ようと井戸の縁に手を付いた少女の指に、髪の毛が絡んだ。
生ぬるい風が、草花をざわめかせた。
師がお鈴の幽霊に襲われたのを皮切りに、市中ではさまざまな異変が起きた。少女が版元の傍を通りかかると雷が落ちて、版元は焼け落ちてしまった。焼け跡からは版画の一つも見つからなかったらしい。師のように赤黒い蟻の怪異に襲われる人々も見た。皮膚に滲むように血の色の染みが広がって、すっかり全身を覆いつくして命を落とした人も見た。目の血走った辻斬りが出たり、強盗に滅多刺しにされて亡くなった者が出たりと血なまぐさい事件が相次いだ。
市中では「お鈴の祟りだ」とまことしやかに囁かれるようになり、お前のせいだという言い合いが引きも切らない。
ついにはお鈴の鎮魂の儀式をしようという話が持ち上がった。組み上げた炉で炎がゆらめく中、大勢の人がめいめいの宗派の念仏を唱えた。
少女がそっと手を合わせていると、怒鳴り声が聞こえてきた。もうこれ以上の祟りはよしてくれとばかりに、人々が必死で手をこすりあわせる。少女が息をひそめて恐々と振り向くと、男がいた。それがお鈴と恋仲にあった雨宮惟之であると気づくのに、誰もが時間を要した。
「貴様ら、何の咎もない女一人に、ひどい言いがかりをつけていびり殺したんだ。呪われて当然だろうが!」
惟之の声に応えるように、炉の炎がぼっ……と燃え盛った。




