第三話 下地災禍
師があちこちから聞き込んで調べあげたところによれば、お鈴と恋仲にあるのは雨宮惟之という名の御家人の子息であるらしい。長屋住まいの町人と御家人の子息では身分違いも甚だしいが、お鈴の母がかつて雨宮家の乳母をしていた縁で、幼い頃より雨宮の屋敷に出入りしていたという。よくよく長い付き合いである。
「なんでぇ、腰に大小差してるだけの貧乏小役人の倅がしゃしゃり出てきやがって」
「お師さん、飲み過ぎですよ」
絵師見習いの少女は管を巻く師をなだめたが、ぎょろぎょろと血走った目を見る限り、とても聞き入れられるとは思えない。己に八つ当たりの雷が落ちるのを恐れて、少女は師の仕事場にさっと紙を敷いた。
「いつまでもくさくさしてたら、版元に叱られッちまいますよ」
師はふらふらと千鳥足で仕事場に向かい、どっかりと腰を下ろすと乱暴に墨をすりはじめた。少女はほっと胸をなでおろしたが、すぐに師の描き上げた錦絵にぎょっと目を剥くことになった。
往来で人目を忍んで雨宮惟之にしなだれかかるお鈴が描かれていたのである。
「お師さん、これ見てたんですか」
「ああ? 見ちゃいねぇよ! 貧乏小役人の倅なんざ、大方こんなもんだろうよ!」
筆の乗った師は止まらず、あっという間に何枚もの下絵を描きあげた。墨の乾く間、画房のあちらこちらに下絵が散らばって足の踏み場もないものだから、少女は部屋の端から端へと縄を渡し、切り目を入れた竹の布挟みで下絵を一枚ずつ吊るしていった。春画まがいのあられもない姿、惟之でない男たちとのふしだらな交わり、さらには金銭を受け取る様や、それを金勘定する惟之の姿まで……下絵の中のお鈴と惟之はどれもひどい描かれようで、少女は大いに胸を痛めた。
錦絵新聞が版元から売り出されるや、市中は騒然となった。茶屋の看板娘・お鈴へと向けられていた淡い思慕や熱狂は、木っ端微塵に打ち砕かれた。何の咎もないお鈴は、哀れにも、根も葉もない醜聞の只中に引きずりこまれてゆく。ついには茶屋や長屋に押しかけて口汚く罵る者まで現れたものだから、当初こそ懸命に笑顔を取り繕っていたお鈴も、ついに気を病んで茶屋を辞めてしまった。
少女は人々のあまりの変わりように、ただ絶句するばかりであった。
──あんまりだ。私がお鈴を描かなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。
長屋の前で見かけたお鈴は、まるで幽鬼のようにやつれ、顔は青白く、つややかだった髪も乱れて見る影もない。おぼつかない足取りで長屋に帰って行くお鈴を見て、少女は師と己の引き起こしたこの災禍を心の底から悔いた。声などかけられるはずもない。
──お願いだから、もう描かないで。
お鈴の言葉が思い出されて、少女の胸の奥にずんと重く沈んでいく。水底から砂が巻きあがるように、ふと頭をよぎった「お鈴はちやほやされていい気になっていたから、罰が当たったんだ」という言葉を、少女は頭を振って必死に打ち消した。