第一話 素描因縁
長屋の裏をさらさらと流れる川に、脚を浸す女がいる。もっとよく見ようと、絵師見習いの少女はかぶっていた笠をわずかに持ち上げた。女の白いすねが、水面のきらめきよりもまぶしい。
季節は夏の盛りである。素描の帰り道、すっかり疲れ果てていたはずの少女はその光景に目を奪われた。風呂敷から紙と筆を取り出すと、人目もはばからずに素描をはじめる。
じわじわとにじんだ汗が額から滴り落ちるのも喉が渇くのも忘れて筆を走らせるうち、今しがた描いたばかりの絵が何枚か飛んでいきそうになる。風呂敷を結び忘れたらしい。あわてて紙を左手で抑えた拍子に、ぐにゃりと線が歪んだ。
お鈴のことは、噂で耳にしたことがあった。茶屋で働く評判の器量よし──この女性に違いない。
お鈴は手ぬぐいを川に浸して首筋を滴る汗をぬぐったのち、そっと立ち上がった。
「あっ」
少女はあわてて筆を口にくわえると、墨壺と紙をかき集めて抱え、立ち上がる。お鈴の動きに合わせて歩を進めながら、無我夢中で絵筆を走らせる。真っ直ぐに線を引けないのがもどかしい。往来を行く人々の「邪魔だよ!」という怒鳴り声も耳に届かず、首を伸ばしてお鈴を目で追いつづけた。
軒下に干してあった桶にぶつかったところで、少女はお鈴を見失った。あたりを見回して姿を探すが、見つからない。少女は描ききれなかったと肩を落とし、とぼとぼと帰路に着いた。
「お師さん、ただいま戻りました」
開ける前に一声かけて、建て付けの悪い戸を引いた。師は板張りの床に置いた錦絵をじっと見つめ、腕を組んでいる。描きかけの錦絵に一筆足してはながめ、また一筆足してはうなっている。
少女は師の邪魔にならないよう、首をすくめて草履を脱いだ。
部屋の端に先ほどの素描を広げる。目に焼き付けたお鈴を紙の上に描くうち、いつの間にか師と同じようにうなっている己に気がついた。
「ああ、帰ってきてたのか。どうだった」
自身の仕事に一区切りをつけた師が、ひょいと少女の手元を覗きこむ。途端に師は前のめりになった。
「ほう。お前ぇにしちゃあ、なかなかいい出来じゃねぇか」
「本当ですか!」
「別嬪だねぇ。どこの娘だい」
「わかりませんけど、お鈴さんじゃないかと思うンですよ。大通りを曲がったとこにある茶屋の」
「ふぅん。ちょいと貸してみな」
師は少女の描いたお鈴の絵を横に置き、あっという間に模写をした。
「こいつはいいねぇ。今日納品する錦絵はこれで行こう」
墨の乾いた錦絵に夢中で色付けをする師を手伝いながら、少女はふと、お鈴を素描をしていた自分もこんなふうだったのかもしれないなと苦笑いした。
少女の素描を元にした錦絵は版元に持ち込まれ、数日後には絵草紙屋の店先に並んだ。なかなか評判のようだ。
一枚買い求めて帯にしまう。少女はうきうきとした足取りで、画房へと戻っていった。
高鳴る胸ではなく、錦絵をしまいこんだ帯を押さえながら、少女は建て付けの悪い引き戸を足で小突いて、半ば無理やり開けた。上り框に腰を下ろして錦絵新聞を取り出す。
──初めて自分の考えた絵が、版元に認められた。
少女はためつすがめつして錦絵新聞をながめると、師の落款を指でそっとなぞった。自分の落款入りの錦絵が刷られる日も、そう遠くないうちに来るに違いない。
それにしても、と少女はうっとりとため息をついた。
なんという美しい絵だろう。
少女の胸の内に、もっとお鈴を描きたいという欲望がふつふつとあふれてくる。同時に、己の器量がよければ絵師見習いなどせずとも世間に名が知れ渡るのに、と少女はわずかに唇を引き結んだ。