ここ掘れワンワンと呼ばれて
雪が降ってもおかしくないような、寒い冬の朝。
アラームが鳴るより早く、私は目が覚めていた。
布団から出て、スマホを手に取り見てみれば、時刻の下に「マイナス2度」と表示されている。
温度計が内蔵されているわけではないので、おそらくこれは天気予報か何かのアプリと、GPSによる位置情報の複合で「この場所ならば今これくらいの気温のはず」というのが導き出されているのだろう。
つまり、室内ではなく外の温度だ。
実際、暖房を切って窓を開けると、外から冷たい空気が流れ込んできた。
ブルッと体を震わせながら、視線を下げれば、お隣の竹内さん家の庭が視界に入る。
竹内さんは、池を模した形の屋外用水槽で金魚を飼っているのだが、今朝はそこに氷が張っていた。なるほど、確かに現在、外は氷点下なのだろう。
自分の部屋から出て、冷たい廊下を経てリビングルームへ入ると、隅で寝ていた我が家の愛犬が顔を上げる。
待ちくたびれたと言わんばかりに、尻尾を振りながら、私の方に擦り寄ってきた。
今日みたいに寒い朝は、お父さんもお母さんも、散歩には行きたがらない。そんな日の犬の散歩は、私の役割だ。
愛犬の頭を撫でながら、微笑みかける。
「行こうね、ワンワン」
――――――――――――
もう私も、小さな子供ではない。犬を「わんわん」、猫を「にゃんにゃん」と呼ぶような年頃は、とっくの昔に終わっている。
それなのに、愛犬に対してそう呼びかけるのは……。
お父さんが「ワンワン」と命名してしまったからだ。
「犬だから……。そう、ワンちゃんだからね。『ワンワン』でいいんじゃないか? ほら、さすがに『ワン』そのままだと犬を『イヌ』って呼ぶみたいだけど、二つ重ねるなら……」
「あら、いいわね。昔、上野動物園にいたパンダの名前が『カンカン』とか『ランラン』だったらしいし……。それと同じね!」
パンダという言葉は、二つ重ねたところで『カンカン』にも『ランラン』にもならない。
その場に私がいたら、お母さんにツッコミを入れていたはずだが、残念ながら友達と出かけている最中で……。
私が帰宅した時には既に、我が家に来たばかりの子犬の名前は「ワンワン」に決定済み。当の子犬の方でも「ワンワン」と呼びかけられると、嬉しそうに尻尾を振る有様だった。
これでは私も、受け入れざるを得ない。最初は少し抵抗があったけれど、愛犬を「ワンワン」と呼ぶことに、今ではすっかり馴染んでしまっていた。
――――――――――――
愛犬に声をかけながら、一緒に家を出る。
「今日も寒いね、ワンワン」
「ワン!」
竹内さんの家の前を通り過ぎて、住宅街の舗装された道路を歩く。
お父さんやお母さんがワンワンを散歩させる時は、このまま大通りに突き当たるまで真っ直ぐ進み、そこからは大通りを行くらしい。
でも私は、大きな通りよりも小道の方が好きなので、その手前で右に曲がる。
ちょうど豊川さん家の脇にある細道だ。
豊川さんは、二、三年前に越してきた若夫婦。旦那さんも奥さんも、おそらくまだ二十代ではないだろうか。
家の裏側には、ちょっとした山林が広がっていて、小高い丘のように盛り上がっている。その山林の丘を突っ切っていく格好で、山道が通っていた。
私は最初、その山林を豊川さん家の裏庭だと勘違い。中の山道も私道だと思っていたくらいだが、たまたま出会った豊川さんの奥さんから「あらあら、違うわ」と教えてもらった。
「あの山が裏庭だなんて……。うちの土地がそんなに広かったら、私たち夫婦も、もっと楽できるんでしょうけどねえ」
と言って、彼女は笑っていた。
それを聞いてから、私は安心して豊川さん家の裏山へ入っていくようになり……。
その山道が、私とワンワンの定番の散歩コースになっていた。
――――――――――――
豊川さんの奥さんは、結構早起きだ。
犬や猫みたいなペットを飼っているわけではないけれど、よく一人で朝早くから、裏山を散歩している。過ごしやすい春や秋だけでなく、暑い夏や寒い冬もそうしているのは、森林浴みたいなつもりかもしれない。
頭に被っているのは一年中同じ、さわやかな空色のバケットハット。よほどお気に入りの帽子なのだろう。
ちょうど私がワンワンを散歩させる時間帯と重なっているため、彼女と顔をあわせる日も多い。
「ワンワンちゃん、いつも元気で可愛いわねえ」
と可愛がってくれるので、ワンワンの方でも豊川さんの奥さんには、よく懐いていた。
今朝も会えるかな、と思いながら木々の間を歩いていくと……。
山林の細道を半ばまで進んでも、彼女の姿は見かけない。しかしその辺りで突然、ワンワンが吠え始めた。
「ウゥー、ワンッ! ワン、ワンッ!」
唸るような低い声なので、嬉しくて吠えているという感じではなさそうだ。
ここが人通りの多い歩道ならば、私たちみたいな犬の散歩に出くわす可能性も高いし、中にはワンワンが嫌いな犬もいたりする。でもこの山道では今まで、犬の散歩どころか、普通の通行人とすれ違うこともほとんどなかった。
私以外にここを通るのは、それこそ、豊川さんの奥さんくらいだったのだ。
「ワンワン、誰か来るの?」
「ワン、ワンッ!」
愛犬に呼びかけてみたが、返答は鳴き声だけ。イエスなのかノーなのかすら、見当がつかなかった。
立ち止まって周囲を見回しても、それらしき人影はなく……。
しかしキョロキョロするうちに、私の目に留まるものがあった。
斜め右側の大木の根元に、見慣れない紫色の花が咲いていたのだ。
こんな寒い日に開花するくらいだから、きっと冬の花なのだろう。
――――――――――――
「ワンワン、あれに反応してるの? あの花から、嫌いな匂いでも出てるのかな?」
「ワンッ!」
問いかけに答えるかのように、愛犬は手綱を引っ張る。
ワンワンの行きたいようにさせてみたら、右斜めへと向かっていく。
「ああ、やっぱり……」
一瞬そう思ったが、間違いだった。
「ワンッ!」
と一際大きく吠えながら止まったのは、紫色の花が背にする大木ではなく、その二本隣。同じように太い木の前だったのだ。
木々の名前には疎いので、それが何かはわからない。ただ葉っぱの形を見る限り、その一本だけが特別なわけではなく、周りの他の木々と同種のようだった。
しかし犬の嗅覚や視覚では、何か違いを感じ取っているのかもしれない。その木の下まで行くと、いっそう激しく吠えるようになっていた。
「ワンッ! ワン、ワンッ!」
「変ねえ、何かあるのかしら? だけど……」
いくら人の来ない山道とはいえ、住宅街のすぐ近くだ。
犬の鳴き声は届くだろうし、早朝から騒いでいたら近所迷惑になるだろう。
「……ダメだよ、ワンワン。ほら、静かにしないと!」
私は愛犬を宥めつつ、手綱を引く手に力を入れて、半ば引きずるようにして、その場所から離れるのだった。
――――――――――――
その日以来。
私が散歩させて、豊川さん家の裏の山林を通るたびに、ワンワンは同じ場所で吠えて、立ち止まるようになった。
その間、二本隣の木の下では、紫色の花が咲いたまま。豊川さんの奥さんを何故か見かけないのも、最初の日と同じだった。
そんな日々が一週間くらい続いて……。
「今日、お隣の竹内さんから聞いたんだけど……」
お母さんが夕食の席で披露したのは、その日の昼間に仕入れてきた、ご近所の噂話だった。
「……豊川さんの奥さん、体調が悪くて実家に帰ってるらしいわ」
なるほど、しばらく彼女の姿を見かけないのは、そういう事情だったのか。
私は勝手に納得したのだが、話を持ち出した当のお母さんは、頬に手を当てながら小首を傾げていた。
「だけど、本当かしら? 具合が悪いなら遠出なんてせず、おとなしく家で休むか、あるいは病院へ行くべきだろうに……。ちょっと変でしょう?」
「豊川さんのところだったら……」
お父さんが箸を止めて、話に加わってくる。
「……確か前々から、喧嘩の声が聞こえてきた、って話もあっただろう?」
「えっ、何それ」
驚いたのは私だ。愛犬の散歩を介して、豊川さんの奥さんとは個人的に親しくさせてもらっていたつもりなのに……。
そんな豊川さん家の家庭事情、今の今まで全く知らなかったのだ。
お父さんもお母さんも私を子供扱いして、わざと聞かせないようにしていたのか。あるいは、たまたま私の耳に入ってこなかっただけなのか。いずれにせよ、どうやら豊川さん家の悪い噂が、ご近所の間で流れていたらしい。
「もしかしたら……。実家に帰ったのは本当だとしても、離婚とか別居とか、そっちの理由かもしれないな」
とお父さんがまとめて、その話題は終わりになったのだが……。
――――――――――――
その日の夜。
なんだか怖い夢を見た。
湖なのか海なのか、私は水際に立っている。
流れは無いようだから、少なくとも川ではなさそうだが、とりあえず足元のすぐ際まで深いような、そんな水辺だった。
水の中を覗き込むと、底の方から何かが浮かんで来る。ぼんやりとした影みたいで、何だかよくわからないが……。
「寒い……。寒いのよ……」
という声も聞こえてきた。
その瞬間、私は理解する。水底から浮かんでくるのは女の人であり、彼女が私を呼んでいるのだ、と。
そして、そこで目が覚めた。
「嫌な夢だわ……」
しょせん夢に過ぎない。しかも、夢の中でも結局、私自身が水中に引きずり込まれたわけではなかった。
それでも、明らかにこれは良い夢とは言えない。悪夢の類いだろう。
私は軽く頭を振ってから、水でも飲もうと思って部屋を出た。
我が家のキッチンはリビングルームと繋がっていて、いつも使っているドアはリビング側にある。だからそちらから入ると、黄色っぽい夜間照明の下、うずくまっている愛犬の姿が視界に入った。
ワンワンは眠りながら、体をピクピクさせている。
こうした挙動を見て、飼い始めた頃は「痙攣してる! 具合が悪いのかも!?」と慌てたものだが、それは私が犬というものをよく知らなかったからに過ぎない。
今では私も理解していた。これは犬の眠りが浅くて、夢を見ている状態らしい、と。
そう、犬も人間同様、寝ている間に夢を見る生き物なのだ。
「今夜はワンワン、どんな夢を見てるのかな? 私みたいな怖いやつじゃなくて、楽しい夢だといいんだけど」
小さくつぶやきながら、私は冷蔵庫の方へと向かった。
――――――――――――
次の日の朝。
ワンワンを連れて豊川さん家の裏山に入っても、やはり奥さんの姿は見かけなかった。
紫色の花が咲く辺りでワンワンが激しく鳴くのも、相変わらずだったが……。
「ワンッ! ワン、ワンッ!」
「どうしたの、ワンワン!?」
昨日までとは違う。今まで以上の強い力で、手綱を引っ張るのだ。
やはり紫色の花から二本隣の大木へと向かうのだが、その先の行動も違っていた。
そこで立ち止まるだけでなく、木の根元を前脚で掘り始める!
「あら、嫌だ。あかちゃん返りなの……?」
犬が穴を掘ろうとするのは、元々備わっている野生の習性。あくまでも「野生の」だから、ペットとして飼われている犬には当てはまらず、むしろストレスや病気の兆候だったりするらしい。
うちのワンワンも子犬だった頃は、意味もなく庭の土を掘ろうとしていたけれど、それも幼少期だけ。一歳を過ぎる頃には、穴掘りなんて全くしなくなっていた。
そんなワンワンが、大木の近くを一心不乱に掘っている。まるで何かを見つけたかのように。
「なんだか『ここ掘れワンワン』の昔話みたいね。あの話だと、出てくるのは小判だっけ? だけど、こんな場所に……」
あまりの勢いに愛犬を制するのも忘れて、ただ私は冗談混じりの、のんきな独り言をつぶやくだけだった。
しかし、そんな私の態度も一変する。
「えっ? それって、もしかして……!」
やがてワンワンが掘り出したのは、見覚えのある帽子だった。
すっかり土で汚れている上に、黒っぽい染みまで付いているけれど、元々は空みたいな色のバケットハットだ。
しかもワンワンは、帽子を掘り出しても、まだ穴掘りを止めない。続いて、帽子の下から出てきたのは……。
「きゃあぁっ!」
一目見た途端、私は大声で叫んでいた。
――――――――――――
最初から犬にはわかっていたのだろう。
だから知らせようと思って吠えていたのだ。
でも、それまでは吠えるだけだったのが、今日になって具体的な行動に出たのは……。
私みたいに、夢に出てきたのかもしれない。
ただし私のよりもハッキリした、もっとメッセージ性の強い夢。その夢の中で「ここを掘ってちょうだい、ワンワンちゃん」と呼ばれたのではないだろうか。
「ワンッ!」
目的を果たして、少しだけ満足げなワンワン。
そんな愛犬を連れて家に引き返すと、お父さんとお母さんに報告。警察にも通報することになり……。
これがきっかけで、豊川さんの旦那さんが逮捕された。
その後。
ご近所の集まりからお母さんが聞いてきた話によると……。
豊川さんの旦那さんには浮気癖があり、奥さんとは諍いが絶えなかったらしい。
事件が起きた朝も、いつものように口論が勃発して、しかも何故かその日は喧嘩がエスカレート。それでも奥さんの方が途中で切り上げて散歩に出ようとしたのとは対照的に、旦那さんは収まらず、後ろから花瓶で彼女を殴ってしまう。
頭から血を流して倒れ込み、手足をピクピク震わせる彼女を見て、旦那さんは気が動転。
「病院へ連れていって命を助けたとしても、自分は殺人未遂の罪に問われる。身の破滅だ」
と疑心暗鬼に駆られ始めた。
ならば完全に隠蔽しよう。きっちり絶命させて、死体を埋めてしまえばいいと考えて、とどめを刺す意味で、水を張った洗面台に彼女の顔を突っ込んだという。
「なんて酷いことを……」
聞いているだけで体がブルブル震えてくるような、冷酷で残酷な話ではないか。
これも噂話経由だから、本当かどうか定かではないが……。
豊川さんの旦那さんは、供述の中で「冬の朝の、厳しい寒さに魔が差した」と語っているらしい。
(「ここ掘れワンワンと呼ばれて」完)