はじまり
柔らかな日差しが降り注ぐ、森の中をその少女は走っていた。
10歳は超えていると思われる少女はボロボロだった。
手足は擦り切れ、髪は伸び放題。
全身も顔を覆った髪の毛もベタベタしていて走るのに合わせてダマになった髪が重く跳ねていた。
布をくり抜いて作ったような簡易なワンピースを着せられて、擦り切れたり破れたりした部分が動きに合わせて翻る。
口元しかはっきり顔が見えない少女の右足には枷がはまっており、そこに中途半端に切れた錆びた鎖が汚い金属音を立てながら跳ねてうねっている。
さらに、息を切らした少女の背後には足音が複数迫っていた。
いずれも屈強な男のものである。
少女は痩せた手足を必死に動かし、その男たちから逃げていた。
彼女は使い魔という立場だった。
言い方を変えれば、奴隷という言葉が一番近いのだが、そんなことは少女はわからない。
ただ、まだ主人はいない。正確には所有される前に脱走したのだ。
「いたぞ!」
「逃すな、回り込め!」
野太い声が森に響き、彼女は恐怖で口元が歪む。
見つかってしまった、少女は心の中でそう思った。
彼女は弱った体でよたよた走り出す。
もう体力の限界をとっくに迎えていた。
髪に隠れて見えないが、彼女は泣いていた。
少し黄みがかった白色に近い肌、真っ黒な髪。
彼女は日本人の子どもだ。
使い魔なんて耳馴染みのない、ごく一般的な家庭の子どもだった。
「傷一つつけるなよ!価値が下がる!」
もう少女が目視できる距離まで迫った追手の声が響く。
ビリビリするような低い怒声が、薄暗い森に響き渡る。
「異世界人のガキだぞ! お前らの給料10年分でもたりねぇ価値があるんだ!絶対逃すな!」
足を動かしながらもその言葉に少女は、びくりと肩が震わせる。
少女は平和な国で育った。
戦いも魔法も、使い魔という名前の奴隷としての扱いも縁遠い生活をしていた。
魔法もないから召喚なんて日常とは程遠い、アニメや漫画の世界の話だった。
だからだろう、まるで物みたいな扱いをされていることに、途方もない嫌悪感を抱いていた。
そしてそういう扱いをされるたびに、少女の心に真っ黒な穴が開くような嫌な感じが渦巻いていた。
だから彼女は逃げた。
異世界人である彼女には、元の世界にいた時は無かった力がある。
それに彼女が気づいたから、鎖を弾き飛ばし走り出したのだ。
「あ」
大人ではない、掠れた幼い声が唐突に口から溢れた。
走って走って、走り抜いた先に広がっていたのは崖だった。
少女にはわからないが、ビル3階ほどの高さである。到底飛び降りることはできない。
少女は怯えを滲ませ、来た道を振り返る。
幾人もの男たちが少女にジリジリと近づいてきていた。
皆無言である。
なぜなら少女に怪我をさせるわけにはいかなかった。
この世界において異世界人は特別な召喚で呼び出せる使い魔であった。
古くは彼らも救世主、あるいは良き客人として呼ばれていたが、今は違う。
今から100年ほど前に魔王が女神を倒してから、彼らは勇者でも聖女でもなくなった。ただの特別な力を持った使い魔に成り下がった。
少女だけでなく、この世界にいるすべての異世界人に人権など無かった。
何より、魔王によって改良された召喚式は女神の力により作られた物と対象が違っていた。
本来なら、この世界に発展と平和をもたらすものを一時の間呼び込み、やがて元いた世界の元いた時間に帰すことができる召喚術であった。
しかし、現在のものは、絶対に元の世界に帰ることができない縛りがあり、さらに異なる世界で命を落とした者を呼び出す外法となり、今の時代に流通していた。
幸い、人間しか使えないように作られていた部分は変わらなかった。
肝心な術式の基盤を弄ることは魔王にも出来なかったようだ。
そのため大量の異世界の魂がこの世界に攫われるという事態にはなっていない。
高ランクの人間の魔術師がいなければ、異世界人の召喚術が使えない。
女神のいた時代と違い魔王の支配の元で人間の数が減り、魔族に対抗できる可能性を持つ人間の魔術師も一時希少となった。
魔族の支配も長くなり、魔族に与する魔術師も増え、年に1人2人は喚ばれてしまう。
少女もその1人であった。
無言でにじり寄っていく男達。
5人の大人の男は全て同じようなのボロボロの衣で簡単に作られたような服を纏っていた。
汚れ具合は、少女と同等かそれ以上だった。
彼らは、この世界の人間である。
奴隷という身分では無いものの、実質扱いは魔族の奴隷のようなものだ。
商品である少女を傷つければ、上役の魔族に殺されるのは自分達であることはよく分かっている。
捕まった少女が、どんな目に合わされるか知ってなお、彼らは止まらない。
この世界に生きる彼らも魔族に逆らうことができないからだ。
怯える少女は背後の崖の方ににジリジリ退いていた。
震える少女の手からは燐光のような煌めきがこぼれ始めた。
「魔法だ」
「もう使えるのか」
口々に驚嘆と喜びを乗せた言葉を交わしあう。
魔力を持っていればさらに異世界人の価値は高くなる。
どこまで行ってもこの世界の人々にとっては異世界人は使い魔になる商品なのだ。
俄に沸き立つ彼らを前に、少女は荒く息を吐く。
恐怖と緊張、そして初めて魔力を使ったあとにひたすら走り抜いた疲労が少女を蝕む。
「おい、待て様子がおかしい」
男のひとりが、少女の様子を見て声を上げる。
荒い息の少女の手から溢れる燐光は、疲労で収まるどころか強さをましていた。
少女は魔法のない世界の日本という国に住んでいた。
魔力は、この世界に来てから発現したのだ。
全くの新しい魔力という道具を小さな少女が完璧に使いこなせるかどうかと考えるとそれは否だろう。
魔力は暴走を起こし、燐光は強烈な光となって彼女の両腕を覆う。
少女にはそれが魔力というものかすら分かっていない。
ただ、腕からあふれる嵐のような力をもう支えることが出来ないのを、痛みと一緒に感じ取っていた。
悲鳴すらあげられず、ひたすら耐える少女。
この光が抑え込なければ、自分もタダでは済まないと何となく理解する。
だが、止めようと焦れば焦る程手から光は溢れていく。
彼女の魔力に歓喜していた男達は、その大きさに危険を感じたのか慌て始める。
「魔力の暴走だ!」
「逃げろ!」
口々に叫び、少女から距離を取り始めた。
先程まで男達から逃げ惑っていたのに、少女はその引いていく後ろ姿に悲しみを感じていた。
戸惑いと死の恐怖を感じたまま、少女は置いてかれてしまった。
魔力が一気に放出しているせいで、朦朧といている中、ちらりと少女の生前がチラつく。
轟轟と叫ぶ川の音に一人きりで飲み込まれて、彼女の元の世界の記憶はそれっきり途絶える。
忌々しくて寒々しい記憶が、一気に頭の中を駆け巡る。
あの時も周りの大人は助けてくれなかったと、男たちの後ろ姿をみて彼女は暗い記憶を呼び起こした。
一緒に溺れた姉は助けたのに。
心が凍てつく記憶が蘇ると共に一気に全身が熱をもち、手から溢れる力が燃え盛る火のような温度に変わる。
諦めと妬み、憎しみと悔しさ。
この歳の少女が持つには重苦しい暗い気持ちを抱えて少女は一度死んだ。
この少女は今だって生きていて幸せなんて欠片も思えない。
でも、少女が自分のものと言えるのは命しかないのだ。
ほんとにほんとに彼女のものは彼女の命だけ。
憎しみの感情で溢れているのに、口が勝手に動き出す。
魔力の暴走で疲労は加速し、声にすらできないのに意志より早く唇が動く。
誰でもいいから助けて。
まとまらない思考の中、少女が決して生前も召喚後も、言えなかった言葉を呟いた瞬間。
光、否、魔力が爆ぜる。
紫の色をした炎が、光が地面や木々に触れた瞬間に吹き出してえぐり飛ばす。
少女が無意識に付与した呪詛が触れたところを凄まじい速さで劣化させていく。
この世界の魔力の平均を優に超えた魔力量の爆発だった。
少女の至近距離で起きた爆発は、少女は体を吹き飛ばしバラバラにする、はずだった。
「まにあったぁぁぁぁあ!」
大きな大きな声が少女の頭の上から聞こえた。
光と衝撃で目が開けられなかったので、声だけが少女に届く。
それは、若い男性の声であった。
「やっば。何この威力!? え、まじ?呪いも乗ってるんだけど!?」
続けて、女性の声がした。
賑やかな声に、恐怖で強ばったまぶたが自然と開く。
少女はゆっくりと目を開けた。
そこに、彼女の英雄がいた。
「お、怪我ないか?痛くないか?」
そう問いかけたのは、20代を越しているかどうかくらいの年齢の青年である。
黒髪で、少女と近い肌の色をした、若い男。糸みたいな細い青年の目を見て、少女は驚いた顔をする。
この世界に来てから初めて見た日本人の顔だった。
「あ……」
あまりに驚きすぎて、少女はうまく声を出せない。
そもそも召喚時から泣く度にあの男たちから殴られていたせいで、少女は喋ることも上手くでなきなくなっていた。
それに、彼女はこの年代の異性と関わることがなかったので状況を飲み込んだら、緊張してしまったのだ。
「ちょっと!びっくりしてるじゃない!」
先程の女性の声がして、少女は少しほっとしたような気持ちになる。
やはりそういう年頃なのか育った環境なのか、少女は異性より同性の方が安心するようだ。
安心を欲して、少女は顔を上げる。
だが、次の瞬間恐怖に固まった。
あっという間にかくんと首から力を失い……気を失った。
その女性は、日差しを受けてきらびやかに輝く金の髪。明るんだ夜空のような濃い青の瞳は金色のまつ毛に縁どられ、大きなアーモンドの形をしていた。
彫りが深く整った容姿。
だが、少女には気絶する程の恐怖を与えていた。
明らかに日本人の顔ではなかったからである。
少女を召喚した魔族のような色彩で、そして彼女を痛めつけたこの世界の人間にも多い色彩だった。
つまり、その美しい女性を少女は敵だと認識してしまったのだ。
敵ではないし、この世界の人間では無いのだが、少女にそれは分からない。
疲れきっていた少女には恐怖で逃げ出す気力がなく、気絶しかできなかったのだ。
慌てふためく麗しい女性とパニックを起こして硬直する普通の青年と眠りこけるやせ細った少女。
これが、彼女と後に彼女が「勇者」と「聖女」と呼ぶ2人の出会いだった。
何となく始まってしまいました。
なんか矛盾が出てきても温かい目で見ていただければ………!