6.わくわく、どきどき、処によりカレー
幸の実家帰省二日目。
ベアトリクスは涼に連れられ、大型ショッピングモールへ来ていた。
「ここが『しょっきんぐもおる』というところね? 娯楽施設や市場が集まっているところなのでしょ? 私、市場は行ったことあるの。活気があって楽しかったわ!」
車が止まり、涼にシートベルトを外してもらいながらベアトリクスは興奮を隠しきれずに言う。
幸の記憶で彼女がベアトリクスの年齢の頃に、この施設で大きな画面で劇を観たり、シールになる写真を撮ったりと、様々な想い出が見られたこともあるが、幸が住んでいた部屋の近くには、コンビニという小さな店しかなかったので、涼に連れてきてもらった目の前の大きな施設に心が躍ってしょうがない。
「地元のショッピングモール如きではしゃぐの可愛過ぎない? どこにでも連れて行ってあげたくなるんだけど……。お兄さんがアイス買ってあげるからね。花火も買って帰ろうねー」
「子供扱いしないでっ!」
事の発端はベアトリクスが勉強漬けでどこにも遊びに行ったことがないと言ったことである。
いや、博物館や図書館、たまに劇場にも足を運んでいるし、『どこにも遊びに行ったことがない』というには語弊があるのだが……そう涼に伝えても、彼は眉を顰めたままだった。
加えて幸のここ四年の社畜ライフと食生活プラス、ベアトリクスのここ十日間の食事内容に、大袈裟だとツッコミを入れたくなるほどに涼が驚愕したせいだ。
彼いわく、大袈裟ではないそうだが。
「幸、そんな食生活してたのか」
ベアトリクスもそんな幸の食事が当たり前だと思い、疑いもせずに箱買いしてある栄養補助食品ばかり齧ったり飲んだりしていた。
「ええ、そうよ」
実はベアトリクスは、幸の味覚で食べるチョコバーやゼリー飲料が、なかなか良い味だったので感動を覚えていた。
甘いものが好きな人間の気持ちを学べた一幕とも言え、ベアトリクスにとって大変勉強になったのだが……涼に話すと凹まれそうなので黙っておく。
「痩せたと思ってたんだ」
涼は、大きなため息を吐いた後、ベアトリクス、いや幸の腕を取って「真面目過ぎるんだよな、幸は」と呟く。
その声がとても真剣だったからだろうか、ベアトリクスは非常にいたたまれない気持ちになってしまい、大きな手を慌ててぺいっと振りほどいた。
というわけで(?)、『美味しいものを食べて、楽しいことをしよう大作戦in夏休み』が涼より提案されたのである。
「なんなの? その『大作戦』って。子供みたい」
「んー、子供に合わせてあげようっていう大人の気遣いってやつ?」
「まあ! 私、子供じゃないわ!」
ベアトリクスが『あれだってこれだってそれだって、全部一人でできるもん!』と説明している途中で涼が「ごめんごめん」と降参のポーズをとった。
「ビーちゃんは子供じゃないです。了解しました。はい、出かけよー」
「何だか誤魔化されてる気がするわ」
「そんなことないよ。ほら、夏休み中で混んでるから早く行かないと駐車場止めらんないし」
「それは大変ね。早く行きましょうっ」
「はいはい」
何となくベアトリクスの扱いが分かってきた涼なのであった。
さて。ベアトリクスはショッピングモール内にあるペットショップで萌えていた。
「か、可愛い」
ポメラニアンの赤ちゃんがてちてち歩いたり、くありと欠伸している様子にベアトリクスはメロメロだ。
幸の記憶で『世界で一番可愛い毛玉ちゃん』とは知っていたが、実物がこれほどまでに可愛いとは思ってもいなかった。
「見て、あの子。耳の後ろを一生懸命掻いてるわ。ああ、もう! なんて可愛いのかしら。連れて帰りたくなっちゃう」
「ん、可愛いな」
近くにいた店員には『カップルの男の方、彼女のことしか見てなくない?』と、思われていたのだが、それはベアトリクスの預かり知らぬことである。
ポメラニアンに癒やされた後は、適当にぶらついたり、幸の好きだと言うアイスを食べたりと作戦を順調に進めていった。
そして、終始ご機嫌なベアトリクスは涼とともに一階に併設されている食料雑貨品売り場で本日の夕飯であるカレーライスの具材を買って帰路につくことにしたのだが……。
「カレーなら作れるよ」
「そうなの!?」
なんと涼は料理ができるらしく、このことはベアトリクスを驚かせた。
涼が言うには「男でも料理する奴は普通にいる」とのことなのだが、そのような職業に就いている訳でもないのに男性が料理することがとても意外だった。
ちなみにベアトリクスは嗜み程度に紅茶を淹れることくらいならできるが、料理の経験はない。
なのに、「一緒に作ろう」なんて言われ、戸惑ってしまう。
「私、料理したことないの……」
幸の記憶で手順は分かるけど、不安だ。
「っぽいね」
シートベルトを締めながら、涼はけろりと言うから憎たらしい。
しかし、ベアトリクスには不安しかない。
だって、料理が好きだという幸ですら一番最初に作ったカレーで大失敗しているのだ。
「ねえ、失敗したらどうするの?」
「そしたらファミレスでも行こ」
「でも……」
ベアトリクスは、失敗が怖い。
「大丈夫。失敗したって死にゃあしない」
「それは、そうだけど……でも……」
──ずっと、がっかりされる時の両親の目が怖かった。今ではもう、呆れられてしまってそんな目で見られることもないけれど……。
何か新しいことをする時に、いつもあの目がベアトリクスを見て言うのだ『どうせ、お前は失敗する』と。
「あのな? カレーを不味く作ったくらいで死ぬわけじゃないんだって言ってんの」
「……」
ベアトリクスは、涼の真剣味を帯びた言い方に怯えた。
もしかして、自分はまた失敗したのだろうかと不安になってしまう。
涼は自分に怒ったりしないので、つい調子に乗ってしまった。
ベアトリクスは、いつもこうだ。
いつも、失敗してしまう。
だから、両親にも嫌われるのだ。
しかし、そんなベアトリクスの心配は杞憂に終わった。
彼は怒っていたわけではなかった。
それを証するように、涼はぽんとベアトリクスの頭を撫でて笑った。
「それに、『失敗は成功の基』って言うだろ」
「初めて、聞いたわ……どういう意味なの?」
「こっちの諺で、『失敗してもその原因を反省して方法を改めることで、その後の成功に繋げる』って意味」
「失敗してもいいの?」
「いいに決まってる。一回で何でもできる奴なんていないだろ?」
「…………いるけど」
「いんのかーい」
涼は、そう言ってけらけら笑い出した。
涼が何が可笑しくて笑っているのか分からない。
ベアトリクスは、こんなに悩んでいるというのに。
「……兄が」
「ビーちゃんの兄貴? 凄いね」
主人公みたいだ、と言った涼の言葉にベアトリクスは、小さく頷いた。
本当にその通りだと思う。兄は主人公で、自分は脇役だ。
「ええ、凄いの。何でもできるの。剣術も学業も常に一番で、その上性格も良くって、私のような出来損ないの妹のことも気に掛けて声をかけるの。だから……だから、両親はお兄様を愛してるの」
「つまり、ビーちゃんの親は毒親ってこと?」
「……ど、どく? もう。真面目に話した私が馬鹿みたい。ふふっ、気が抜けちゃう」
ベアトリクスとしてはかなりヘビーな話をしたつもりなのに、この涼という男は『ちょっと散歩行ってくる』みたいなノリの返しをするので困る。
「それくらいが丁度いいと思うよ」
「『それくらい』って?」
「肩の力抜けって話」
簡単だろ、と問われたベアトリクスは、何故か素直に頷けた。
ベアトリクスが「うん」と、返事を返すと同時に車のエンジンがかかり、涼の顔が正面を向いた。
肩の力を抜くということが、今のことを指すのならできるかも知れない。
結局、包丁の使い方が危ないと判断されて灰汁取りや焦がさないように混ぜる程度しか手伝えなかったので、カレーライスは当然失敗しなかった。
「分かったわ、涼は凄腕のシェフなのね!」
「可愛いこと言うようになったね、ビーちゃん」
涼は「まあまあ」と言っていたカレーライスだが、ベアトリクスにとってはお世辞抜きで、この上なく美味しく感じられた。