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CHANGE  作者: ゼン
本編
2/15

1.改名は願ったけど、こういうことじゃない

 まるでスイッチが切り替わるようだった。

 それが、(さち)がベアトリクスになった瞬間だった。


「お前、本当にスターン家の娘かよ」


 言葉を発したのはベアトリクスの婚約者のエヴァンで、二回連続定期試験で学年二位だったベアトリクスへ発せられたものである。

 一位のエヴァンが二位のベアトリクスに嫌味を言う、お決まりの場面とも言える。


「ざまあねえな、ベアトリクス」


 順位が逆転すれば、ベアトリクスもここぞとばかりに言ってやるのだが……五回に一度の確率でしか言うことができないほどに稀だ。

 前々々回の実技試験の時の仕返しだろう。はんっと鼻で嗤うエヴァンの憎たらしさったら。

 そして仄かに感じる既視感。昔、(さち)も誰かにこんなことを言われたような気がするが……記憶が曖昧だ。誰だっけ?

 思い出せない記憶はさておき。いつもなら、ここで喧嘩が勃発する。

 いつものベアトリクスなら言い返す。絶対に。絶対に、だ。


 しかし、どうしたことか今現在のベアトリクスの中身は(さち)である。


 つまり、いつものベアトリクスではない。


 突然流れ込んできた記憶と感情に、(さち)の心は揺さぶられた──


「……えっ?」


 エヴァンの驚いた声が聞こえた。

 周囲のざわめきも。


 理由は明らかだ。

 ベアトリクスの蒼色の瞳から涙がぼろぼろと流れているせいである。


 次いで、後悔と羞恥心が(さち)を襲う。


 人前で泣くなんて……! アラサーなのに……! 恥!!!!


 しかし、涙は止まらない。止めなければいけないのに、止まらない。

 声を抑えようとしているからか息が苦しい。酸欠だ。


「ベアトリクス! どうした? なんで泣いてるんだ?」


 もう、立っていられない。

 そう思った時、酸素不足でよろけ、体を支えられながら問われた声は兄のものだった。


 顔を見られたくないという思いより、寄りかかりたい気持ちが勝った。




 頭がぼうっとする。


 とんでもなく懐かしい感覚だ。

 社会人一年目の(さち)はしょっちゅう泣いていた。二十三時から二十四時の間に会社のトイレで泣くのがルーティンになっていたあの時の、泣き終わって息を整えた後の感覚に酷似している。

 

「大丈夫か?」


 何度目かの兄の問いには浅く二回頷くことで返した。


「ベアトリクス? 本当に大丈夫か?」

「だ、だい、じょぶです……」


 大丈夫ではない。

 顔が良過ぎて直視できないので腕を突っ張らせて離れようと試みる。

 一回目は失敗したが、二回目は兄の方から離れてくれた。


 そして、「大丈夫」しか返さないベアトリクスへ質問を諦め、エヴァンに矛先を変えた。


「エヴァン、どうしてベアトリクスが泣いているんだ? お前が泣かせたのか?」

「いや、その……」


 責められ口調で詰められているエヴァンに、(さち)の胸が痛む。

 エヴァンが好きだからなんて理由ではない。それは断じて、ない。ないったら、ない。

 (さち)が上司に理不尽なことを言われ、八つ当たりされている姿と重なったからである。


 エヴァンは十四歳だ。

 十四歳の男子とは全人類世界共通で()()()()()()である(※個人の感想です)。二十六歳の(さち)からしたら可愛いものだ。多少、イラッとはするけれど。

 ああ、でも、この兄は例外だろう。

 きっと兄には『十四歳の悪夢』はなかったに決まっている。だって完璧だもの。


 ベアトリクスの記憶で、兄のルイ・スターンがハイスペックの更に上の、そのまた上の存在であることを知っている。


 こんな人になりたかった。

 これは、(さち)の何の混じり気もない素直な感想だ。

 ベアトリクスは『いつか越えてやる』と息巻いていたようだけど、(さち)にはそういった対抗心はない。

 そもそも(さち)には元々ないのだ、争うという選択肢が。

 (さち)は皆で仲良く、平和で普通にのほほんと暮らしたい。


「あ、あの、私……」


 (さち)の小さな声。しかし、それはしっかりルイとエヴァンの耳に届いた。

 ルイとエヴァンが言葉の続きを促すように同時に頷くので、それに励まされるように半歩前に出る。


「お、お騒がせして、申し訳ありませんでした!」


 体を直角に折り曲げて謝罪すると、周囲がざわついた。……もしかして、もしかしなくても失敗したことを知り、手のひらいっぱいに汗をかく。


「どうしたんだ、その口調……本当に大丈夫か?」

 字面で見ると失礼っぽいが、エヴァンの声色はベアトリクスを心配している風に聞こえる。ひょっとしたら、(さち)が思うより、この婚約関係は険悪ではない……のか?


 というか大丈夫か、と問うのはもうやめて欲しい。大丈夫ではない。

 (さち)は絶賛混乱中だ。

 一体どうして、こんな状況にいるのか分からない。

 とりあえずこの場から離れて一人になりたい。


 ──というか、二位でも別にいいじゃないか。二位の何が悪いの?


 ベアトリクスの兄と婚約者が困惑している空気の中、(さち)は唐突に思った。

 それは憤りに近い気持ちだった。

 もしも学生時代に(さち)が勉強でも部活動でも、何らかの形で二位を取ったのならば家族は大喜びしてくれただろう。


『さっちゃん、今日は何が食べたい?』


 きっと母は(さち)にそう訊ねて、幸の好物を作ってくれる。

 父は『さすが俺の娘だ』って言ってがはがは笑ってうざ絡みしてきて、ちゃっかり者の妹は(さち)に抱き着いて食べたいものを強請るのだ。


 そういえば実家にはもう四年も帰省していなかったことに、ふと気付く。

 休日も祝日も、長期休暇も有給休暇もなく働いていた。


 ──死ぬ前に、お母さんの作ったカレーライスが食べたかったな……。


 湯剥きしたトマトをたくさん入れて煮込んだ、鶏肉と豚肉と大きく切ったじゃがいもと旬の野菜がごろごろ入った実家のカレーライス。真っ赤な福神漬は絶対に欠かせない。

 各自で食べたいだけよそったご飯にルーを多めにかけて、皆で『いただきます』と言って手を合わせて食べる、あのカレーライス。

 あれが、食べたい。

 あれが(さち)の世界で一番美味しい料理で、あれこそが(さち)の世界での『普通』だった。


 なのに。


 どこで間違えたのか。


 こんなことになるなら、会社なんて辞めて実家に帰ればよかった。


 きっと、頑張ったねと言って優しく抱きしめてくれたのに。


 一体、何を心配していたのだろう。

 

 (さち)は、本当に馬鹿だ。大馬鹿だ。

 死んでから、こんな簡単なことに気付くなんて。


 いつもより帰宅時間が早かった金曜日。

 終電の二本前の電車を待っている時、酔っ払い同士の喧嘩に巻き込まれて──そこから、記憶がない。

 なくてよかった。グロは苦手だ。ただ、駅員に土下座したい。片付けさせてごめんなさいと百万回言いたい。同じ環境化にいる社畜の方々にも貴重な睡眠時間を奪ったことを謝罪したい。




 なぜ(さち)がベアトリクスになったのかは分からないが、(さち)にはもう頑張る気力はない。

 死んで違う人間になったことで、そういう思いが尽きてしまったのかも知れない。


 もう頑張りたくない。


 すとんと落ちてきた気持ちは、(さち)の本心でもあり、ベアトリクスの中にあった想いでもあると思う。だって本当にこの子は弛まぬ努力していた。


 指のあるペンだこが目に入り、心が軋む。胸が苦しい。

 誰か、この子を抱きしめて褒めてくれる人間はいなかったのだろうか? 記憶を探ってもそんな関係の人間は一人もいない。


「ベアトリクス?」


 まだ十四歳なのに、楽しいことをしなくてどうするの?


 自分に関心のない両親の気を引くのも、兄を越えるための努力も、もうさせたくない。したくない。否、もうしない。


 誰も大事にしてくれないなら(さち)が大事にすればいい。

 

 きっと、ベアトリクスは死んでない。

 ショックを受けて、一時的に閉じこもっているだけだ。

 根拠はないけど、自信がある。


 この子は、生きてる。


 ならば、(さち)のすることは一つ──いつか、ベアトリクスがこの体に戻る時、彼女の居場所を用意してあげよう。

 ついでに(さち)も死ぬ前に楽しい思い出が欲しい。


 そうと決まれば簡単だ。

 (さち)は、戸惑う二人と周囲にぺこりと頭を下げてから踵を返し、この気まず過ぎる場所から撤退をすることを決めた。


 久しぶりに泣いたおかげか、気分はすっきりしていた。

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