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CHANGE  作者: ゼン
本編
1/15

0.プロローグ

 幸せ、と書いて『(さち)』。


 齊藤(さいとう) (さち)

 それが女の名前だった。

 全然幸せではないのに、(さち)

 一本線を取れば『(つら)い』になる、(さち)

 笑える。

 いや、笑えない。

 いや、待て。

 表面上はへらへら笑っているから、これはどっちなのだろう?

 (さち)には分からない。誰か、知っているのなら教えてほしい。

 ……むしろ感情のまま思い切り泣きたい。だけど泣けない。

 なぜならもう心が麻痺しているからだ。


 (さち)は社畜である。

 労働基準監督署もびっくりの社畜である。

 ああ、でも詳しくは語れない。

 労基が来たら困る──そう上司に脅されているので。


 上司や先輩達が怖いから(さち)は従ってしまう。

 仕方ない。だって怖い。凄く怖い。

 泣くまで詰られ、人間性や大好きな家族のことを否定され、もう反抗する気力はとうの昔に消滅させられている。


 自分を、今までの人生を、否定されるのは怖い。


 だから(さち)は、言いなりの使い勝手の良い社畜をしている。

 吠えない、噛まない、いつもへらへら笑う社畜ちゃん。それが(さち)だ。

 なので当然のように、超過労働の事実は隠蔽される。


 犯罪だ。


 (さち)はそんな犯罪者がいる会社の社畜だ。


 社畜という言葉を知らない本物の幸せな人間の為に説明するが、社畜とは会社と家畜を組み合わせて生まれた造語だ。つまり会社の家畜である。……南無。

 海外では「wage slave」と言うらしい。

 世界共通種族なのだと思えば、自分は一人じゃない! と励みに……なるわけがない。

 辛いのは嫌だ。

 他人の不幸に同情すれど、自分が代わってやりたいなど思うはずもない。


 さて、最近鬱症状がところどころに表れる(さち)だが、学生時代は違った。


 今とは真逆と言っていい。


 真っ直ぐで正義感と長女気質の強い(さち)は友達が多く、いつも輪の中心にいた。

 明るく元気で、それでいて尚且つ優しい少女だった(さち)はいわゆる人気者で、簡潔に言うならばなら『真の陽キャ』だった。


 しかし、時の流れは残酷かな。


 そんな自信みなぎり、元気で明るく友達の多い(さち)はもういない。

 今の(さち)は、根暗で目が死んでいて深海並みの自己肯定感を持つ社畜OLである。


 今年で社会人……否、社畜四年目。

 辞めればいいのに、新卒で入った会社だったせいで洗脳された(さち)は立派な社畜(どれい)に成長し、辞める選択肢を持ちえない……というよりも、元々正義感の強い(さち)は『自分がいなくなったら、残された同期が困る』なんて、そんな思考のせいから辞めることができず、いつの間にか十人いた同期が全員退職済みという現状だ。


 要は一人だけタイミングを逃したのである。


 そんな社畜の(さち)は過去の自分とのギャップから誰にも弱音なんて言えず、我慢に我慢を重ねているそんな日々を送っている。


 死にたい、辛い、なんてもう思いすらしない。


 ……だけど改名はしたい。『(さち)』は、もう嫌だ。


 そんなことを思っていたある日、(さち)は多分死んだ。






「お前、本当にスターン家の娘かよ」


 ──そして、(さち)はベアトリクスになった。






 ***






 ベアトリクス・スターン。

 それが、彼女の名前だった。


 スターン侯爵家の長女として生を受けたベアトリクスには、出来過ぎる兄がいる。


 この兄、すこぶる顔が良かった。

 どのくらい顔が良いかと言えば、凄く良い。めちゃくちゃ良い。とにかく良い。とことん良い。最高に良い。

 それしか言えない……つまり語彙力が死ぬくらい顔が良いのである。


 しつこい、もういいよ、と思う方もいるだろうがあと三回言わせてほしい。

 それくらいに、顔が良いのだ。顔が良いったら、顔が良いのである。


 ベアトリクスも、兄と同様に金髪蒼眼を持つそれなりに美しい少女であるが、隣に兄がいればその美しさは霞む。

 それなりなので、霞むのである。


 兄の中身がクソ野郎だったら、ベアトリクスもこんなに悩むことはなかっただろう。

 しかし、兄は顔以外でもスペシャルな男だった。

 剣術大会で本職の騎士を倒して優勝したかと思えば、頭の出来も過ぎるほどに良い彼は、学園を卒業後には次期国王である王太子殿下の側近となることが決まっている。


 そんな兄を持つベアトリクスの性格形成には、少し……(少しということにしておこう)影響が出ている。もちろん、悪い方に。

 期待も賞賛も両親の愛も関心も全てが兄のもので、ベアトリクスが努力して勝ち取った数少ない一等ですら、『さすがあの方の妹君だ』の一言でまとめられてしまう。

 そのくせ、一等を取れなければ『本当にあの方の妹君か?』である。


 こんな扱いされてみろ。悪い影響が出ないはずがない。


 は? 私が素晴らしい成果を出したのは、私の努力の賜物なのですけれど?

 ──そんなこと言えるわけがない。


 さて、人に弱みなど見せるものか──こんなことを信条に掲げるベアテリクスには同い年の婚約者がいる。

 いるのだが……この二人ときたら、面と向かえば言い合いをする仲で、関係は最低最悪だ。

 待っている結婚生活の想像は誰にだって容易いことだろう。

 加えて、兄への劣等感でベアトリクスは若干……(若干ということにしておこう)異性への反発心を持っている。そのせいで、婚約者への歩み寄りは一切できなかった。


 そんな拗らせ令嬢ことベアトリクスが、ある日泣いた。


 ()()ベアトリクスが、だ。



 これは、大、大、大、大事件である。






「明日の朝までにこの書類、修正しておいてぇ」


 ──そして、ベアトリクスは(さち)になった。






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