悪筆令嬢の美文字レッスン〜字が汚すぎてラブレターが王太子殿下に誤配されました〜
――美しい文字には神が宿る。
これはこの国に古くから伝わる格言だ。その格言は国民の心に信仰のように深く根付いている。
そのためわかりやすい身分制度として爵位も存在する国ではあるが、それ以上に「美しい字が書ける」ということで人となりを判断するきらいがある。
わかりやすい例を挙げれば男女交際だ。男女共に美しい文字に一目惚れならぬ「一読惚れ」する人も多いとか。
そして交際の申し込みには「手紙」を使うのが習わしだ。
いかに美しい文字で手紙を綴るか――それが交際するかどうかの判断基準になる。
かくいう私も最近手紙をしたためた。送り先はエリオット・フィルター子爵令息である。
何件も紙屋を巡り、選び抜いた便箋に思いを綴り、心臓が飛び出そうなほど緊張しながら配達人に手渡した。
それが二日前の話。
そして今、突然学園内の貴賓室に呼び出された私の前に、これでもかという程の思いを込めたエリオット様宛の手紙がある――どう好意的に捉えても不機嫌な顔をしているこの国の王太子、ヒューゴ殿下を添えて――。
「寮の俺の部屋に届いていたが、これは俺宛ではないだろう? サリヴァン伯爵令嬢?」
「な、なぜ私の手紙が殿下の元に?」
二学年上のヒューゴ殿下も他の生徒と同じように学園の寮で生活している。そのため王太子という立場ではあるが、生徒が手紙を送ろうと思えば届いてしまうのだ。
ヒューゴ殿下は私が手紙を受取ろうと震える手を伸ばすと、スッと手紙を引っ込めた。
「……心当たりがあり過ぎるだろう? いや、これでないとは言わせん」
「心当たり……は、特にありませんが……」
思い当たる節は山ほどある、いやありすぎる……。
後ろめたさからあからさまに目を逸らした私に、ヒューゴ殿下は我慢の限界だというように一気に声を張り上げた。
「お前……字が汚すぎだ!! 王太子を前にしらばっくれるな!」
「うっ……、も、申し訳ありません」
そう言ってバシッと顔の前に突き付けられた手紙の宛名。控えめに言っても赤ん坊の殴り書きのようなものが書かれているようにしか見えない。
そう、私リリーザ・サリヴァンは字が汚い。
壊滅的に汚いのである。
§
「リリーザさん、もう少しどうにかならなかったのですか?」
きつく髪を結い上げた先生が、ため息をつきながら目の前の机に紙の束を置いた。
「……申し訳ありません。努力したのですが」
私は謝りながら肩をすぼめて少しでも小さくなろうとした。
先生の机に置かれた紙の束は私が提出した課題で間違いない。何度も書き直し「これなら読んでもらえるだろう」と納得して出したものだった。しかし見事に担当の先生から呼び出しされてしまったので、結果はそういうことだった。
「はぁ……。今回は消去法であなたの提出課題だとわかりましたが、次はありませんよ。ご自分の名前くらいは読み取ってもらえるように書きましょうね。『美しい文字には神が宿る』、ご両親からそう教えられているでしょう?」
「……はい。気をつけます」
私は小さな声で答え、先生の部屋をトボトボと後にした。
――こんな文字で手紙を書くなんて、恥ずかしくないのか?
――こんな字の手紙をもらう方が恥ずかしいからもう送らなくていいよ。
これまで何度も言われて来た声が頭の中を巡る。
幼い頃から男女問わず手紙を送ると皆同様のことを言って私と距離を置いた。
でも私はどうしても綺麗な文字が書けない。
何が悪いのか、両親にも相談して色んな先生について色んな方法を試してみた。けれど改善するどころか色々な方法が混ざり合って、さらに読みにくい字になっていくばかり……。
そんな中、十五になって入学した貴族子女のための学園でかけられた一言に私は救われたのだ。
「大丈夫ですよ。俺も字が得意じゃないし、一緒に頑張りましょう!」
ある時エリオット様にかけられた言葉だ。
とろけそうなブロンドを揺らして微笑みかけてくれたエリオット様に、私はその瞬間恋に落ちた。
その言葉を胸に、くじけそうになってもどうにか頑張って来た。嫌気がさして距離を置いていた文字の練習も再開した。
そして満を持して書いたエリオット様への思いを綴った手紙。その手紙は届くことがなかったわけで……。
「字が汚すぎて誤配されたのだろうな」
「――っ!」
先生の部屋を出た直後呼び出された貴賓室。
そこで待っていたヒューゴ殿下はどうでもいいものを扱うように、目の前で私の手紙をパタパタ振って見せた。その様子に私はショックを受けながらも声が出なかった。
「誰に書いたかわからんが、これでは意中の相手には届くわけないだろう」
手本を見ながら必死で書いたエリオット様の名前。
手本を下敷きにして写しとれば簡単なのだろうが、それはしたくなかった。自分の気持ちは自分の手で伝えたい。
その努力をこの人は簡単になかったことにしていく。私の手のひらに自分の爪が食い込む。
「しかしよくここまで汚く書けるものだ。うーむ、確かに遠目に見れば『ヒューゴ』と書かれているように見えなくもない。これでは配達員も間違うはずだ。お前の『リリーザ』という名前は何とか読み取れたが、それ以外はさっぱりだ。線が震えて何が何かわからんぞ」
「わ、私……」
ようやく口から出た声は震えていた。
悔しい、悲しい。どうしてこんなに頑張っているのにこんな言われようをしなければいけないのだろうか。
噛み締めた唇から薄く鉄の味がする。
「素朴な疑問なのだが、今までなぜ直そうとしなかったのだ? 子どもだってもう少しまともな字を書くだろう」
「う……、うるさいっ!! うるさいうるさいうるさぁーいっ!!」
突然張り上げた声に、目の前のヒューゴ殿下が目を剥いた。真ん丸に見開かれた若葉色の瞳には肩で息をする私の姿が映っている。
「……私だって!」
王太子に向かって不敬とかそんなことを考える余裕はなく、私はこみ上げる思いをこらえきれずに吐き出した。
「……私だって好きで字が汚いわけじゃありません! 直そうとしました! でも……何度練習しても、先生に教えてもらってもどうしても書けないのです」
私の言葉にヒューゴ殿下は訳がわからないと言ったように怪訝な表情を見せた。きっと練習しても上手になれないということが理解できないのだろう。
「それに……」
「――うわっ、なんだ」
私は無造作に扱われていた手紙を、ヒューゴ殿下の手の中から無理矢理奪い取った。
「私の、私の気持ちを、馬鹿にしないで……っ」
手元に戻って来た手紙は力任せに掴んだせいで手の中でぐしゃぐしゃに握り潰されている。
しかし手に触れる紙の感触は、配達員に渡す前のためらいと激しく音を立てる心臓の音を思い出させた。
(でも、私の思いは届かなかった……。私には人を好きになる資格も、思いを伝える資格もないんだ……)
とうとう目の端からぽたりと涙が落ちてしまった。そうすると積み重なった苦しさが次々溢れ、止めることが出来なかった。
「う……、うえぇ……うえええぇっ」
「――え、なっ、なにも泣くことないだろう?! おい、泣くのは止めろ」
不細工な泣き顔を隠すこともせず、子どものように声を上げて泣く私にヒューゴ殿下はおろおろと私の周りを回り始めた。
「なんだ、どうすればいいんだ?! おい、なぜ泣く?」
「殿下、今のは間違いなく殿下に非がございます」
「うわっ、ミハエル! お前いつからそこに?!」
耐え切れず困った声を上げたヒューゴ殿下に突然横から声がかけられた。私たちと同じ学園の制服を着ているミハエルと呼ばれたその男性は、私と殿下を交互に見てやれやれと頭を振った。
「全く、殿下は人の気持ちを全然ご理解なさろうとしない横暴無粋殿下でございますね」
「なんだとっ!」
「私に噛みつくより、まず殿下は目の前のレディに謝ったらどうです?」
その言葉にハッとした顔をしたヒューゴ殿下は、いまだ泣き続ける私にきまり悪そうに近づいて来た。そしてどこからかハンカチを取り出すと私の顔に容赦なく押し付けてきた。
「ほら、涙を拭け、鼻をかめ!」
「――うぇぶっ!」
「俺が悪かった! さっきの暴言も見逃してやる、だから泣くのは止めろ」
私の視界は白で覆われ、次の瞬間にはゴシゴシとハンカチで顔を擦られた。想像もしていなかった展開に涙が引っ込んでしまったが、そのことに気づかないハンカチは容赦なく私の顔を行き来した。
(ちょ、け、化粧が取れるっ! と言うか、ざ、雑っ……!)
思わずハンカチを持つ手を抑えると、パッと視界が開けた。
「どうだ、泣き止んだか?」
開けた視界いっぱいにヒューゴ殿下の不安そうな顔面が広がった。初夏の新緑のような若葉色の瞳、そして月の光を集めたような銀髪と彫刻のように整った顔立ちは、令嬢たちにはまるで妖精王のようだと言われている。
そう言えばこの国の文字には流派がいくつかある。その各流派の源流となるのが、王家を本家とする「ハーヴィー流」である。ヒューゴ殿下はこの国の文字の総本山とも言える王家の正当な後継者で……。
(どんな美文字の令嬢がアプローチしても靡かないどころか、鼻で笑って追い返すって聞いたことがあるわ。確かにこの見た目だし、文字に関してはその道の筆頭なら並の令嬢は眼中に入らないでしょうね。私の努力なんてこの人にとっては理解できないものなのだわ……)
泣き疲れたのもありぼんやりと顔を見つめてしまった私を見て、ヒューゴ殿下はそれまでの困った顔を崩し声を上げて笑い出した。
「ははっ、ひどい顔だな。泣き止まないから焦った」
少し幼い笑い顔を見せたヒューゴ殿下は、さっきの私の不敬な物言いの罪を一切問うことはなかった(正直すごく気になっていたのでホッとした)。
その代わりに――。
「おい、いいことを思いついたぞ。俺が文字を教えてやる! だから泣かせてしまったことを許せ!」
「それはありがた……って、え? ちょっと仰っていることが……」
私は予想もしなかったヒューゴ殿下からの言葉に耳を疑った。きっと狐につままれたような顔でもしていたのだろう。殿下は得意気な顔をして続けた。
「俺を誰だと思っている? ハーヴィー流には自信があるんだ。お前がまともな字を書けるようになるまで俺が教えてやる」
「は、はぁ……? 殿下が、私に? なぜ?」
助けを求めるように周囲を見回すと、先ほどのミハエル様がドアの近くに控えていた。私の視線に気づいたミハエル様だったが、笑顔のまま無言でうなずくだけだった。
(そ、そんなうなずかれてもわからないわよ!)
結局「なぜヒューゴ殿下が私に字を教えてくれるのか」という答えを得られないまま、私は再び殿下を見上げた。
「俺の稽古は厳しいからな?」
そう言って不敵な笑みを浮かべたヒューゴ殿下は、悪戯が成功した少年のように小鼻を膨らませて相変わらず私を真っ直ぐ見ていた。
§
次の日からヒューゴ殿下直々の“美文字レッスン”が始まった。
学園には王族とその関係者のみ入室が許可されている部屋《特別室》がある。もちろんしがない伯爵家の令嬢の私なんか足を踏み入れるどころか、空気を吸うことすら許されない場所だ。
その後ヒューゴ殿下の従者だと紹介されたミハエル様が、放課後になった瞬間にどこからともなく現れては、私を特別室に案内してくれた。
白を基調とした部屋は広く、内庭に面した壁はガラス張りになっていて日当たりが良い。室内には何種類かの植物が植えられていて(!!)ちょうど見頃を迎えた花が良い香りを放っている。
「……ここは、楽園でしょうか」
思わず口から漏れ出た私の呟きに、間髪入れず横から激しい激が飛んできた。
「おい、気が散ってるぞ! あー違うだろ! ペンはもう少し立てるんだ!」
「っはいぃ!」
ヒューゴ殿下は厳しい。非常に厳しい。
今まで私が習って来た教師は何だったのかというほど、厳しい。
初日、私は椅子の座り方から指導された。すぐにペンを持たされるのかと思ったら、初日はひたすら姿勢を直されるだけで終わった。おかげで翌日は筋肉痛だった。
次の日からペンを持つことを許されたが。これまたひたすら横線と縦線を繰り返し書かされた。それが終われば今度は螺旋模様、ジグザグ模様……まるでお絵描きの練習をしているような内容が何日か続いた。
私はかつて教えてくれた書字の先生方からも同じような指導を受けたこともあったし、「この量の練習が必要と言うならそうなんだろうな」というくらいの気持ちでいたのだが、ある時ヒューゴ殿下がポツリと呟いた。
「お前はすごいな」
「えっ?」
思いもよらぬ言葉にペンを取り落としそうになりながら慌てて私は顔を上げた。彼は眉間に皺を寄せながら神妙そうな顔で私を見つめていた。
「退屈じゃないか? 来る日も来る日も線ばっかり書かされて」
「えっと、まあ退屈ですけれど……必要なのですよね?」
ヒューゴ殿下の質問の意図をつかみかねた私はきっと不思議そうな顔をしていたのだと思う。殿下はさらに眉間の皺を深くして、おもむろにペンを手に取った。
「必要なことでも、俺は苦痛でたまらなかった」
そう言いながら、ヒューゴ殿下は手元の紙にサラサラと流麗にある文字を書き上げた。
“ヒューゴ・ディグニノス・ハーヴィー”
「わぁっ……!」
私は思わず歓声を上げてしまった。
この国の王太子であるヒューゴ殿下直筆の署名である。教科書に載っているお手本のように整ったその文字は、自ら光り輝いているように紙の上で存在感を放っていた。それにそもそも王族の署名を中流貴族の私たちが目にすることは皆無だ。私は目を輝かせ、殿下に視線を移した。
「……なんて美しいのでしょう。すごい、すごいです! 人はこのように美しい文字を書けるものなのですね」
こんな美しい文字を書くなんて、私には夢のまた夢。しかし憧れていたものが目の前で生み出された感動に浸っている私に比べ、ヒューゴ殿下の様子は淡々としたものだった。
「いくら美しい文字を書けたとしても、俺は何も良いことがなかったぞ」
ヒューゴ殿下はそう言って軽く笑いながら、無造作にペンを机の上に投げ出した後にググっと背伸びをした。
「美しい文字に神が宿るなら、俺の『もっと自由になりたい』という願いを叶えてくれてもいいじゃないか……そう思ったんだ」
ガラス窓から差し込む午後の光には黄昏色が混ざり始めていた。ヒューゴ殿下は眩しそうに顔の前に右手をかざした。
私は何気なく伸ばされた殿下の手に目をやり、あ、と声を上げそうになった。
その指先は職人のように節くれだっていて、指はまっすぐ伸ばすことが出来ないようだった。
(貴族の手じゃないみたい。いったい何をすれば、こんなにボロボロの手に――あ、そうだわ、ペン……)
そのことに思い立った私は、見てはいけないものを見てしまったような気がして慌てて目を伏せた。そして動揺をごまかすように必死で会話の糸口を探した。
「……殿下も『美しい文字には神が宿る』と言われて育ったのですか?」
「ん? 当たり前だろう。そもそもその格言を広めてるのは俺の家だ」
私の動揺など知らないヒューゴ殿下はからからと笑って答えてくれた。そして何かを思いついたように、パッと明るい顔を私に向けた。
「そうだ、お前はその格言に続きがあるのを知ってるか?」
「続き、ですか?」
私たちが教えられて育つのは『美しい文字には神が宿る』、その一文だ。その続きがあるなんて聞いたこともなかった。首をひねる私にヒューゴ殿下は嬉しそうな顔をした。
「ふふん、知らないだろう? いいか、一回しか言わないからな。よく聞けよ」
「は、はいっ」
ヒューゴ殿下に真っ直ぐな目を向けられ、私は椅子の上でもぞもぞと姿勢を直した。私の動きが止まると殿下は仰々しく咳ばらいをして格言を語り出した。
「ゴホンっ。『美しい文字には神が宿る。そして――』」
そこでヒューゴ殿下は一旦言葉を切った。
あれ、と思った次の瞬間には自然と視線が絡まっていた。
殿下のきれいな碧玉に私が閉じ込められている。そのままどれほど時間が経っただろうか、時を動かすようにゆっくりと声が響いた。
「『想いを込めた文字には愛と幸福の実が育つ』……だ」
「愛と、幸福の……」
ヒューゴ殿下の顔はとても穏やかだった。私が殿下の言葉を無意識に繰り返すと、殿下は雲の切れ間から光が溢れるように笑った。
「俺はこっちの続きの方が好きなんだがな」
満足そうに笑顔を見せるヒューゴ殿下につられ、私の頬も緩んでいた。
「……私も、そう思います」
そう答えた私の瞳の中にはヒューゴ殿下が映っているだろう。とても穏やかで優しい顔をしていることにこの人は気づいているのだろうか。
「はいはいお二人とも。見つめ合うのはその辺にして、そろそろ休憩にいたしましょうか」
突然、私たちの目の前に差し出されたティーカップに視線が解かれた。
「――っ、なんだミハエル! みみみ見つめ合ってなんかいない!」
「はいはい、そうですね。リリーザ様もどうぞ、ミルクも入れておきましたので」
「あっありがとうございます!」
相変わらず神出鬼没のミハエル様は、ヒューゴ様にその後しばらく文句を言われていたがどこか楽しそうだった――と言っても、私はカップの水面に映る、おそらく顔が真っ赤になっている自分の顔しか見ていなかったのだが……。
§
「リリーザ様、最近きれいになりましたよね?」
「えっ? 私ですか?」
殿下とのレッスンで文字を書かせてもらえるようになり、しばらく経ったある日、廊下で私を呼び止めたのはエリオット様だった。人違いかと思って周りを見回したが、どうやら声をかけられたのは私で間違いなかったようだった。
エリオット様は私の側に寄ってくると、私の癖のある髪を一束掬い上げながら話し続けた。
「姿勢とか、雰囲気が前とは少し違うなと思っていたんですよ。もしかして、意中のお方でもできたとか……?」
「い、いいえっ! そのようなお方は……おりません」
一瞬浮かんでしまったヒューゴ殿下の顔を頭を振って消し去ると、その様子を見たエリオット様は面白そうにクスクスと笑った。
「そうなんですね、良かったです」
「よ、良かった?」
その時、私たちの背後から地を這うような低い声がかけられた。
「邪魔だ、どけ」
聞き覚えのある声に振り向くと、不機嫌さに怒りを二乗したような表情のヒューゴ殿下が立っていた。学園内ではむやみに話しかけないため、私は慌てて頭を下げ廊下の端に寄った。
エリオット様も同様に慌てた様子で廊下の端に寄った。
「し、失礼いたしましたっ!」
「ふんっ、場所をわきまえろ」
そう言い残してヒューゴ殿下は立ち去って行った。
殿下の気配が遠ざかってから頭を上げると、エリオット様が苦笑いをしながら話しかけてきた。
「あーびっくりした。王太子だからって威張ってるけど、あの人の文字、すごく下手くそらしいですよ」
「え?」
急に振られた話題に上手く返事が出来ずにいると、エリオット様は鼻で笑いながら話を続けた。
「先生以外、誰も殿下の文字を見たことないらしいですし、権力を使って上手く誤魔化しているんでしょうね。あ、こんなこと言ってたなんて二人の秘密ですよ」
そう言って片目をつぶって見せたエリオット様に、私は心の底にヘドロのような淀みが溜まっていくような気持ちを覚えた。
(そんなことない。あの方は、誰よりも真面目で、誤魔化しなんかするはずない。ペンだこだらけの指がその証拠だわ……)
何も答えなかった私をどう解釈したのか、エリオット様は私の片手を取り、軽く唇を落として去って行った。
「では、僕はこれで。リリーザ様からの手紙、いつでも待っていますね」
その言葉はエリオット様が去った後も、私の頭の中をいつまでもグルグルと回り続けた。
その出来事の後もヒューゴ殿下とのレッスンは変わらず続いていた。
そして特別室の花が咲き変わる頃、殿下は私の書いた文字を掲げ、一度深くうなずいた。
「うん、ここまで書ければ上出来だ」
「~~っ!! ありがとうございます!!」
私はヒューゴ殿下から手渡された紙を受け取った。そこに書かれた私の文字は、レッスンが始まった頃から比べると天と地ほどの差があることが自分でもわかる。
私はそれだけで胸がいっぱいになり、殿下に興奮気味に声をかけようとした。しかし殿下の顔にはどこか翳りが見えた。
その表情を見て言葉を飲み込んだ私の代わりに、殿下が口を開いた。
「お前、本当に……いや、何でもない」
何を言いかけたのか、ヒューゴ殿下は途中で目を伏せた。
そして次に私に向けられた瞳に私は映っていなかった。
「明日から来なくて良いからな」
「……え?」
聞き返した私にヒューゴ殿下は優しく微笑んで答えてくれた。
「俺が大丈夫だと言ったんだ。もういいだろう? お前に付き合うのはこれで終わりだ。エリオットとやらに手紙を書いても、もう俺の所に届くことはないはずだからな」
「――っ」
私は何か言い返したかったが、ヒューゴ殿下の表情がそれを拒否していた。彼の顔にはそれまで私が見ていた彼の表情ではなく、王太子として線を引いたような表情だった。
何も言えずに動かない私に、ヒューゴ殿下は自らが席を立つことで退室を促した。そこまでされてしまえば私も動かないわけにはいかない。呆然としながらも立ち上がると、どこからともなく現れたミハエル様が椅子を引いてくれた。
ミハエル様も何も言わず、静かに私に退室を促した。
ミハエル様に付き添われながら部屋を後にしようとする私の背中に声がかけられた。
「そうだ、リリーザ。一つ言っておくが、あの時、俺はお前の字は汚いと言ったが、お前の気持ちまで馬鹿にしたわけじゃない。勘違いするなよ」
私は思わず振り返ったものの、ガラス窓から差し込む西日が生んだ影にヒューゴ殿下の姿はかき消されてしまった。
「……丁寧に心を込めて書けば良いんだ」
閉まる扉の向こうで聞こえた言葉は、そのまま空気に溶けてしまった。
いつもなら部屋の前で別れを告げるミハエル様も、今日は寮に繋がる廊下まで見送ってくれるようだった。
何も考えられずに歩みを進めていたが、おもむろにミハエル様が足を止めた。少し先に行ってしまった私も足を止め、ミハエル様を振り返った。
「リリーザ様」
ぽつりと言葉を落とすミハエル様はどこか苦しそうだった。その姿を見ていると私もなぜかたくさんの感情が溢れてきそうで、私は早く一人になりたいと思った。
「ミハエル様、ありがとうございます……。ここで結構です」
そう告げた私の言葉を聞いていないかのように、ミハエル様は話を続けた。
「リリーザ様、私と殿下は昔からご縁がありまして、幼少時のご様子も知っております」
「何の、話ですか?」
私はぎゅっと握りしめた手に触れる感触で、今更ながら胸に抱えた筆記具ケースの存在を思い出した。ヒューゴ殿下とのレッスンが始まってから用意したシンプルな革のケースだ。ペンとノートを一式揃えて入れられるケースがあると良いと言われたのだ、殿下に。
「殿下は幼い頃から美しい文字を身に着けるため、昼夜厳しい稽古に励まれていました」
多分、私はそれを知っている。私は自分の手に視線を落とした。さっきのレッスンでついたのだろう、掠れたインク跡が指先に残っている。
「厳しい時期を過ごしたことが影響してか、殿下は文字を書くことにひどく抵抗をお持ちなのです」
「……そんな」
ようやく私が出せた声は戸惑いの色が濃く滲むものだった。
(そんな、書くことに抵抗があるならどうして私に文字を教えるなんて言ったの? 何度もお手本を書いてくれたわ、何度も、私の文字を笑うことなく……)
信じられない思いでミハエル様を見ると、いつもの柔らかな笑みを消し、真剣な顔をした彼が私を見ていた。
「私は、リリーザ様のおかげで久しぶりに殿下が楽しそうに文字を書いている姿を見ることが出来ました」
ミハエル様は深々と頭を下げた。
「心からお礼を申し上げます」
「止めてください。私こそ――」
「リリーザ様……」
――私こそ、お礼を言わなければならないのに。
言いかけた言葉はミハエル様の呼びかけでかき消された。顔を上げた彼は、どこか泣き出しそうな表情をしていた。
「どうか、また殿下とお会いしてあげてください。何か思うところがあったのだと思います」
そんなことを言われても、もう来なくて良いと言われてしまったら私は逆らえるような立場ではない。
元々、手紙が間違って届いたことから始まった関係だったのだ。私が泣いてしまったから、殿下が罪悪感を抱いて文字を教えてくれていたのだ。それ以上でも、それ以下でもない……。
「いいえ。無理です」
「リリーザ様……」
私はまっすぐミハエル様を見た。
「私など、本当ならお目にかかることも許されない方です。今までありがとうございました。後日、正式にお礼をさせていただきます」
そう言ってミハエル様を置いて私は寮へ戻るため、歩みを進めた。ただ、その時自分がどんな顔をしていたのかはわからないけれど。
寮の部屋に戻った私は机の引き出しから封筒と便箋を取り出した。
インク瓶の蓋を開けると、ふわりと独特な香りが舞い上がる。
“いつもお姿を拝見しては、爽やかな笑顔、誰にでも分け隔てなく接する姿に……”
かつて誤配された手紙はそんな内容のことを書いていた。
でも今、私の脳裏に浮かぶのはまったく正反対の内容ばかりだった。
“爽やかさとは程遠く、悪戯な子どもがそのまま大きくなってしまったような笑顔”
“強がりしか見せられない不器用な性格”
“少し強引でがさつで口が悪いけど、絶対に他人の失敗を笑ったりしない”
“私の知る誰よりも根気強く、努力家で、でもそのことを決してひけらかさない”
考えれば考える程、目の前が滲んでくる。とうとう広げた便箋の上にぽた、ぽたと小さな水たまりを作り始めた。
しばらく俯き続け、濡れた便箋が使い物にならなくなってしまった頃、私はようやく顔を上げた。そして今度は自分のハンカチで乱暴に顔を拭い、私はもう一度引き出しを開けた。
引き出しの中にはヒューゴ殿下の署名を書いた紙の切れ端が宝物のようにしまってあった。曲がりなりにも王族の署名、悪いことに使わないという条件付きで持ち帰らせてもらったのだ。
私はその紙の切れ端を取り出した。そして彼の筆跡を見ながら、一文字一文字、じっくりとペンを動かし始めた。
特別室には今日も大きなガラス窓からの日差しが温かく降り注いでいた。
この季節に咲く花は香りが柔らかく、うっかりすると眠くなってしまいそうだ。
「はぁ……やっぱりここは楽園かもしれないわ」
私が誰に言うでもなく呟くと、背中に聞きなれた声が投げかけられた。
「もう来なくて良いと言ったはずだ」
「……殿下こそ、もうここに来る必要は無かったはずでは?」
ゆっくりと振り向くと、扉に寄り掛かるようにして立つヒューゴ殿下の姿があった。私の言葉にわずかに驚いたように見えた殿下はすぐにムッとした顔をした。
「俺はついうっかり来てしまっただけだ……」
私はぶつぶつと拗ねたように呟くヒューゴ殿下の側に歩み寄りながら、小さく深呼吸した。
「お礼がまだだと思い出しました」
「礼などいらん」
そっぽを向くヒューゴ殿下を前に、私の心臓は口から飛び出そうだった。膝も手も細かく震えているが、私はまっすぐ殿下を見た。
「……これを」
震える声でヒューゴ殿下に差し出した私の手の中には一通の手紙があった。
「これは……?」
殿下は私の手の中の手紙を認めると、私の顔と手紙の間で視線を何往復もさせた。
「受け取ってください」
封筒の宛名には上手くはないが、まあまあ読めるようになった私の字でヒューゴ殿下の名前が書いてある。
――勘違いするな、身の程知らずだと叱られるかもしれない……。
――下手くそな字で俺の名前を書くなと受け取ってもらえないかもしれない……。
でも、私は書きたかったのだ。
「殿下に丁寧に心を込めて書くよう、教えて頂きました。『想いを込めた文字には愛と幸福の実が育つ』……と」
私がそう伝えると、ヒューゴ殿下は呆けたような顔をして動きを止めてしまった。しかしすぐに我に帰ると、誰かに助けを求めるように周りを見渡した。
「〜〜〜っ、くそ!」
そこにミハエル様がいないのがわかると、ヒューゴ殿下は銀色に輝く髪を乱暴にガシガシかきむしり、私の手の中から手紙を奪い取った。そして自分のポケットから勢い良く何かを取り出し差し出して来た。
「――ほらっ」
「えっ」
思わず後ずさりしてしまったが、ヒューゴ殿下は私が下がった一歩分、踏み出してきた。
「早く受け取れ!」
「殿、下?」
「リリーザに書いた、と言ったんだ!」
そんなこと言われた覚えはないが、私はおそるおそるヒューゴ殿下の手から手紙を受け取り、そして宛名を確かめた。
“リリーザ・サリヴァン伯爵令嬢”
もはやその字を見れば誰のものかわかるほどになってしまっていた。でも少しだけいつもと違うのは、美しい線の中に花が綻ぶような暖かさが込められている。
これは、彼が書いた私の名前……。
信じられない思いで顔を上げると、そこには顔を真っ赤にしたヒューゴ殿下がいた。
「俺だって想いを込めたからな!」
ヒューゴ殿下がそう叫んだ次の瞬間、私は身体は力強く引き寄せられ、気づいた時には殿下の腕の中に閉じ込められていた。
「どうしてあんなに文字の稽古に一生懸命になれるのか不思議だった。退屈なことも黙ってやるし、そんなにあの男と交際したいのかと呆れたこともあった……」
少し掠れたヒューゴ殿下の声が耳元で聞こえる。さっきまで震えていた膝も手もぴたりと動きを止めてしまった。代わりに心臓の音だけは激しさを増して聞こえる。
「他の奴らに字を誉められてもイライラするだけだったが、リリーザに誉められるのは悪い気がしなかった。リリーザとなら字を書くのも悪くないと思ったんだ」
そしてヒューゴ殿下は大きく息をついた。息を吸う胸の動きが直接伝わってくると同時に、さっきの心臓の音が自分のものだけでないことに気が付いた。
「だからあいつに手紙を書いてなくて良かった……」
力無い声と共に、ヒューゴ殿下の腕の力がふっと弱まった。
私が何とはなしに視線を上げると、若葉色の瞳がとろりとした光を湛えて私を見下ろしていた。
「もう、俺にだけにして……?」
§
空き教室には男子生徒が数人、課題に取り組んでいるのか一か所に集まっていた。よく見ればその中の一人は子爵家の令息、エリオット・フィルターだ。
「エリオット、お前本気で言ったのかよ? 相手、伯爵令嬢だろ? 大丈夫かよ」
男子生徒の一人がエリオットに尋ねた。話題に上がっているのはリリーザのことだった。エリオットがリリーザにアプローチしていることは、ここにいる全員が知っていた。
そしてそのアプローチが、いつもの暇つぶしだ、ということも知っていたのだ。
「はは、だって面白そうじゃない? あんなに垢抜けない子だったのに、突然雰囲気変わったんだからさ」
エリオットは髪をかき上げながら答えた。
女性の雰囲気が急に変わる時、それは男が出来た時だ。そんな女性を自分に振り向かせることが楽しくて仕方ない。
「ぷっ、お前……これで何人目だよっ」
「ま、字はあれだけど、ちょっとした火遊びなら事故みたいなもんでしょ?」
思わず噴き出した友人にエリオットは嘯いてみせた。リリーザの家は格上の伯爵家だ。あわよくばこのまま伯爵家に入り込めるのではないかという期待もあった。
――突然、エリオットの頭の上に液体がかけられた。
「うわぁっ!! なんだこれ!!」
適度な温度のその液体は茶色く、鼻先にふくよかな香りが漂ってくる。
「紅茶……?」
慌ててエリオットが振り向くと、いつからそこにいたのか自分たちと同じ制服を来た見慣れぬ青年が立っていた。
「何だお前!?」
「おや。これは申し訳ありませんね。事故だと思ってお許しを……」
「事故じゃ許されねえぞ!」
エリオットはその青年の胸倉につかみかかったが、青年は顔色一つ変えないどころか、薄笑いを浮かべて言ったのだ。
「それは困りましたね。では私の主人とお会いして頂けますか? しっかりお話し合いをして頂きますと助かります」
「なんだと?」
エリオットはそこで気づくべきだった。周囲の友人たちが一人残らず逃げ去ってしまったことに……。
青年は自分の胸倉をつかむエリオットの腕を逃がさないように引き寄せ、そして耳元に口を寄せてささやいた。
「ついでにあなたとお話したいと仰っている、ご令嬢たちのお父上方とも、ね」
§
――そして時は流れ。
私の字はその後、“上手”とまではいかないが、“下手”とは言われないくらいには上達した。
それもこれも根気強く教えてくれたヒューゴ殿下のおかげなのだが、残念ながら私によく似た我が子は、文字の癖までも私に似てしまったらしい。
今日もまた、かわいらしい足音の主が涙を浮かべながら駆け寄ってくる。
「おかあさま、今日もうまくかけなかったの……」
そう言いながら私のドレスにごしごしと顔をこすりつける。これはこの子が幼い頃からの癖だ。
私はその仕草に思わず吹き出しそうになりながら、柔らかいくせ毛を撫でた。
「心配いらないわ。きれいに書こうとするのは大切だけど、想いを込めて丁寧に書くことも大切なのよ」
「え〜、上手な方がいいよぉ」
不満そうに答える愛する我が子の丸い若葉色の瞳には、幸せそうに笑う私が映っている。
「お父様に聞いてごらんなさい? きっと教えてくれるわよ。『想いを込めた文字には愛と幸福の実が育つ』ってね」
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