52.分かりません。何も……分からないんです……
翌日。リヒト様はカーマ様が来るなり、ほんの僅かな説明と共に用意していた一通のお手紙を持たせて。
「いいか、カーマ。これが最後になる。失敗は許されない」
「お任せくださいリヒト様。全てはこの日のために、あのお方もこれまで過ごされてきたのですから」
「そうだな」
「では、行ってまいります」
「あぁ、頼んだ」
そんな短い会話だけを交わしていたのです。
結局お手紙をお渡しする相手がどなたなのか、わたくしは最後まで分かりませんでしたわ。いつか種明かしして下さるのかしら?
「トリア」
『はい』
なんだか少し疎外感を覚えていたら、急に真剣な顔をしてリヒト様がわたくしを呼ぶので。思わずこちらも背筋が伸びてしまいましたわ。
「これが、昨日言っていた絵姿だ」
そう言いながら執務机の引き出しからリヒト様が取り出した絵姿には、金の髪と紫の瞳の女性が描かれていました。
明らかに、お見合い用、ですわね。
酷いですわ、リヒト様。第一王子であるご自身の元に届いた、どこのどなたなのかも分からない婚約者候補のお相手の絵姿をわたくしに見せるなんて。
それとも、この方を探ってくればよろしいのかしら?
「もしかしたらこの絵姿の人物が……トリア、君自身かもしれない」
なんですの?婚約者候補の筆頭だったりしますの――――
『……はい?今、なんと?』
「この絵姿の令嬢と、私に見えているトリアの姿はそっくりなんだ。しかもこの絵姿の裏に、アルージエ辺境伯からの書状があった」
リヒト様が絵姿を裏返して見せて下さったそこには、確かにびっしりと書き込まれた固い文字。
それを読み進めてみると、バッタール宮中伯が怪しいと思っていたこと、そのバッタール宮中伯に第一王子の婚約者候補として娘の名前があげられたこと、そのために先に娘を王都に向かわせたこと。
そして、その娘が王都に着く直前に事故で頭を強く打ち、今もまだ意識が戻っていないことが書かれておりました。
『この、意識が戻らないアルージエ辺境伯のご令嬢が、わたくしだと?』
「実際にこの目で確かめた事はないから確信はない。ただ、絵姿が君にそっくりなことと……君が私の部屋に現れた日が、ちょうどアルージエ辺境伯令嬢が王都のタウンハウスに運び込まれた日と同じだったんだ」
偶然として片づけるには、あまりにも出来すぎている、と。リヒト様はそう仰られるのですが……。
「何か、思い出さないか?」
『…………分かりません。何も……分からないんです……』
わたくしは、自分が幽霊になってリヒト様のお部屋にいた時からの記憶しか持ち合わせておりませんもの。
その前の記憶も、自分が何者なのかも、そして今の見た目も全て、未だに分からないまま。ただ幽霊の体でふわふわと宙に浮いているだけの存在。
「それなら今度、直接会いに行ってみよう。今日第二王妃とアプリストス侯爵が捕らえられれば、私ももっと身軽に動けるようになる。アルージエ辺境伯とも簡単に連絡が取れるようになるさ」
優しく微笑むリヒト様が、ね?と小さく首を傾げるので。わたくしはただ無言でそれに頷くしかなかったのです。
せっかくのリヒト様の流れる髪が光に透ける絵画のような一瞬も、今はわたくしの心を癒しては下さらない。
『ヴィクトリア・アルージエ……』
書かれていた名前を口に出してみても、何一つしっくりとは来ないのです。
いっそリヒト様から頂いた、リヒト様が呼んで下さる「トリア」という愛称の方が、よっぽどわたくしに馴染んでいるのですから。
「急がなくていいし、焦らなくていいよ、トリア。むしろ今日からしばらくは忙しくなるからね?」
『そう、ですわね』
リヒト様の宣言通り、この日の午後から城内は慌ただしくなってしまうのですが。
それでもわたくしの心の中のどこかには、必ずこの絵姿のことが引っかかってしまっていて。どこか、集中できていなかったような気がいたします。