~幕間~ 第一王子の憂鬱⑤
触れたい。
そう思っても、決して彼女には触れられない。
この手も体も、全てすり抜けてしまうから。
彼女が、生身の人間であったらよかったのに。
彼女が、生きていてくれればよかったのに。
死んでしまった相手に、こんな気持ちを抱くなど。
先が何もないのを分かっているのに、どうしても諦めきれない。
だから。
そう思って半ば諦めていた私に、その話がもたらされた時には。
生まれて初めて、世界のすべてに感謝したいと本気で思った。
「リヒト様ー!」
「カーマか。どうした、妙に機嫌がいいな」
「あ、分かりますー?」
トリアを見送った翌日。
ノックもなしに扉を開けて入ってくる腹心の部下は、扉が閉まる直前まで誰が見ても分かるほどの笑顔だったというのに。
「朗報ですよ、リヒト様」
勢いよく開いた扉が閉まる音が聞こえたのと同時にその表情を引き締めて、私になにがしかを差し出してきた。
相変わらず、その変わり身の早さは見事だと思う。
「何かあったのか?」
「アルージエ辺境伯が、現在王都に滞在中のようです」
「何だと!?」
アルージエ家は代々、最も危険とされる地を守り続ける王国最強の一族だ。
過去の歴史上幾度となく他国に攻め入られながらも、その私兵たちだけで食い止めてみせた猛者揃いだと伝え聞いてはいるが。特に代々の当主は桁違いだとも言われている。
そんな王国の剣でもあり盾でもある彼が、なぜこのタイミングで王都へ?
「どうやら未だに婚約相手が見つからないリヒト様に、丁度年頃の合うご令嬢がいらっしゃるからとのことで」
「私相手に見合い話か?あの、権力に最も興味がない一族が?」
何せ辺境伯という地位も、王族から強制的に与えたような物らしいからな。そうでもしないと、受け取らなかったらしい。
「おそらくはただの口実かと。モートゥ侯爵から大勢が見ている前で渡されたからと、絵姿を預かってまいりました」
「大勢が見ている前で渡されたから、か。なるほど、モートゥ侯爵も仕方なく、というわけだ。考えたな」
「城内ではその噂が瞬く間に広がっていますからね。アルージエ辺境伯も、なかなかの切れ者かと」
「そうでなければ、常に防衛し続けるなど不可能だろうな」
豊かな土地だが平坦であるために、他の辺境地と違って自然の守りが一切存在しないのがアルージエ領の特徴だ。つまり防戦一方になる戦いにおいて、知略に優れていなければ瞬く間に崩れてしまうのだから、当然当主は膨大な知識を蓄えているのだろう。
だからこそ今までは王都に近づけさせないようにと、他の貴族たちが画策していたようだが。
それがなぜ今?しかも見合い話など、一体どうして?
「……それで?」
「中は見ておりません。本当に絵姿なのかどうかも、私には確証が持てませんでしたので」
「賢明な判断だな」
もしも中身が密書なのだとすれば、誰かに見られてしまう可能性も高い。開かないのが正解だろう。
そう思いながら、受け取った中身を確認して――
「ッ!?!?」
まず飛び込んできたその絵姿に、私は驚きのあまり固まってしまった。
緩いウェーブのかかった長い金の髪に、珍しい紫の瞳。
下の方に書かれた名前は、ヴィクトリア。
穏やかに微笑みながらこちらを見ているその表情こそ、普段私が目にしているのとは別物だが。
だが、しかし……これは、間違いなく。
「リヒト様?如何なされました?」
「……いや。まさか、本当に絵姿だったとは……」
しかも、トリアにそっくりな令嬢の。
「ちなみに、彼女も一緒に王都へ来ているのか?」
「おそらくは。あぁ、それと。アルージエ辺境伯より、裏があるかもしれないのでお気を付けください、とのことです」
「裏?」
あまりの衝撃に取り乱しそうになったが、今はまだ平静を装っておくべきだろう。
正直、今すぐにでもこの絵姿の令嬢がどうしているのかを知りたい所ではあるが。
「モートゥ侯爵も、それだけを言われて何のことかさっぱり分からなかったそうです」
「確かに、そうだが……」
裏、とは。一体誰の?
今回アルージエ辺境伯を王都にでも呼びだした誰かの?いやだが、私はそれが誰なのかを知らない。
となると、だ。
「絵姿の裏、か?」
キャンバスに小さく描かれた絵姿の布を別の紙に貼りつけることで、最近の見合い用の絵姿は持ち運びやすくなっている。しかもそれをまた見えないように、製本の要領で外側に表紙をつけているのだ。
つまり、その表紙を取り外すことが実際には出来てしまう。
「カーマ」
「お任せください」
この考えが間違っていたとしても、私は一度どうにかしてアルージエ辺境伯に連絡を取らなければならない。
彼の娘こそトリアかもしれないと、そう疑問を抱いてしまった以上は。
だがまさか、カーマが持って来た絵姿の貼り付けられていた紙に。その見えないようにされていた裏側に。
さらに衝撃的な内容が書かれているなどとは、この時の私は想像もしていなかったのだ。




