異国妻は見た ~オスカーが泣いた日~ 前編
『氷笑の君』
彼に会う前に耳にした異名だ。
当時は、相手を凍り付かせるほど冷たい目で内心ブチギレしながらも微笑みかけ、気に入らない相手を裏で徹底的に懲らしめるタイプの殿方を想像していた。
実際の印象はかなり違った上に、後から聞いた話だが、『氷笑の君』の由来は、美しく毒気のない澄んだ笑顔が解けることは決して無く、その完璧さを前に多くの令嬢が散っていったということだったようだ。
しかし出会った当初の印象とも、社交界で持たれているイメージとも違う一面を私は知っている。
「本当かい!」
「ええ。間違いないわ」
冬の初め。体調不良が続き、医者を呼んだ日のこと。
妊娠が確定したので、その晩彼に報告した。
なんとなく予想はできていたが、はっきりするまではと、月のものが来ないことは伝えていなかった。
なにより彼を驚かせたかったのだ。
よくやった。ありがとう。病気じゃなくてよかった。
そう囁く声は震えていて。
抱きしめられた私からは彼の顔は見えなかったけれど、涙をこらえていることは伝わった。
笑顔の下に本音をずっと隠してきた人だから、上手に泣けないのかもしれない。
本当は彼の新しい表情を見たかったが、まじまじ眺められながらでは涙も引っ込んでしまうだろう。
しかし一人にして差し上げようなどと殊勝な考えを検討する私ではない。
「私は何も見えていないわ。今は、我慢しなくてもいいの」
なんて一見気遣いのようにも聞こえる台詞を選んだ。
出会った頃の彼なら、この手の選択肢はにじみ出る高慢さを嗅ぎ取られ逆効果だが、現在はラブラブ新婚夫婦且つ私にぞっこんなので、それっぽければ良いのだ。
案の定抱きしめる力が強くなり、肩に顔を埋められる。
瞬間。
私の夜着は暖かく濡れそぼち、部屋には彼の嗚咽が響いた。
「よがっ、よがったあ、、」
(え。そんなに?)
あまりの号泣具合に正直少し引いた。
しかし、彼が私の前で泣いたのは初めてだ。
それに麗しの公爵がこんな風に泣くなんて、きっと誰も想像できないだろう。
心を許してくれていることを改めて実感し、私だけの特権であろうことにかなりの優越感を覚えた。
初めは戸惑ったがそれも一瞬のことで、そんな彼のことも愛おしくて仕方がない。
彼の髪を撫でながら、忘れた頃に揶揄ってやろうと心に決めた。
「君がッ、ク、居なくなるかもヒッ、ク、っておもゥック、たら」
泣き止んだ彼は落ち着いた様子だが、どうやらしゃっくりがまだ暴れ足りない様だ。
要約すると、ここ最近の体調不良で私が何かの病気なのではないかと不安だったが、医者は問題ないと言うし、心配しすぎると私が無理をするかもしれないし、不安がると私まで気落ちしてしまうのではないか。
そうなったら本当に病気になるかもしれないし、不吉なことを考えたら現実になってしまうかもしれない。
などということでずっと気持ちを制御してきたそうだ。
なんて健気なのだ。世界で一番可愛いと思った。
なんとなく不安を隠して振舞ってくれていることには気付いていたが、こんなに泣くほど無理をさせていたのなら妊娠の可能性を教えてあげたらよかったかもしれない。
キスをしようと彼の顔を覗き込めば、彼の美しい顔がそれはもう大変な事態になっていた。
その後彼は父親になることをとても喜んでくれた。
感極まって、泣きはらした笑顔で再び涙目になっていた。
そして疲れたのかそのまま眠った。子供か。
翌日、義両親や使用人たちにも改めて妊娠報告をした。
温暖な国から嫁いできて初めて冬を迎える私の体調不良について、グレイフォード家の方々は誰一人つわりだと思い当たらなかったようだ。
結婚前から、同居はお互い気を遣うだろうからと別邸を用意してくれるなど、気配りの権化のようなお義母さまは目から鱗といった反応で、しばらく「まあまあまあ!」と「おめでとう」を繰り返していた。
孫と過ごす時間が欲しくてお役目を引退したのは明らかなのに、それでも私たち夫婦には何も言わず、子供に関する話題を一切出さずにいてくれたお義父さまは、「本当か!」と叫んで小躍りしていた。
さらに、びっくり顔のお義母さまを「孫だ孫だ!」と言いながら抱き上げて一回転していた。
使用人たちも喜んでくれて、その日の夜はご馳走だった。
ああ、やっぱりこの家に嫁いできてよかった。改めてそう思った。
――――――――――
「い゛っっっだあああああああ!!!」
出産は凄まじかった。痛みで死ぬかと思った。
夫は立ち会うことを望んだが、私が拒否した。
すでに出産経験のある祖国の友人から、現場の惨状を聞いていたからだ。
曰く、
「もう必死よ必死」
「握りしめていた旦那の小指にひびが入ったわ」
「なりふり構ってなんかいられないわよ。汗に塗れてひどい形相で叫ぶの。そこに守ってあげたくなるような儚さは存在しないわ」
「うちの人なんて、陣痛が始まったばかりの時は優しく寄り添ってくれていたのに、途中から青い顔になって生まれる頃には部屋から消えていたのよ!」
「ここだけの話よ。私、やっちゃったのよ。出ちゃったの。その、ウ、ウn――――「皆まで言わなくていいわ!大丈夫。私もよ。忘れましょう??」」
等々。衝撃的だったが、簡単に想像がついてしまった。
そんな姿を夫に見せられるわけがない。
夫は優しいからきっと気にしないだろうが、私のプライドが許さない。
可愛い奥さんのイメージは守りたいじゃないか。新婚ほやほやだもの。
結果。ヴィオラが生まれた瞬間汗を拭いてもらい、髪もできる限り整えて、化粧とまではいかないけれど鏡で顔面をチェックし、何とか表情を整えてから夫を呼んだ。
ヴィオラを抱かせてもらいながら静かに微笑んで待機していたが、侍女が夫を呼びに部屋を出た直後、扉の向こうからバタバタと大きな足音が聞こえ、飛び込んできた夫は既に泣いていた。
どうやら私の叫び声は屋敷に響き渡っていたらしい。
義両親は産後すぐの私に気を使ってそのまま待ってくれているらしいけれど、三人ともずっとオロオロしていたらしい。
陣痛が始まってから半日以上、お茶の時間も落ち着かず飲まず食わずで心配してくれていたようだ。
それでも私との約束を守って、呼びに来るまではと赤ちゃんの泣き声が響いてもぐっとこらえてくれたらしい。
人目も憚らず泣いている彼は、よっぽど辛かったのだろう。
私の体に負担をかけないように、それでもしっかりと抱きしめて、おいおい言いながらも沢山褒めてくれた。
どうしようもなく酷い叫び声だったことは自覚しているが、どうせ聞かれてしまったのならば、次は付き添いを頼もうと決めた。
ようやく落ち着いた彼は生まれたばかりの娘にヴィオラと名付け、義両親を部屋に呼んでお披露目をした。
この時ばかりは二人とも涙を見せた。
無事でよかった。よく頑張ったね。母子ともに健康ならこれ以上はない。
そう口々に労ってくれる家族に、心が温かくなった。
やっぱり、私はこの家の人たちが大好きだ。
誰も食事をしていないということで、まだ早い時間だったがすぐにご馳走が用意された。
義父の提案で、私はそのままベッドで、同じ部屋に皆の食事を用意して一緒に食べることになった。
私のために軽食も用意されていたが、食欲全開だったので同じメニューを平らげた。
家族での食事がいつも以上に幸せで、ここにヴィオラが加わるようになればもっともっと素敵だろうと考えては、頬のゆるみが抑えられなかった。
それは他の方も同じようで、普段より口数が少ないけれど、誰からともなく目くばせをし合っては皆でにやにやしていた。
使用人たちもにやにやしていた。
食後も談話室には行かず部屋に留まり、少しだけ談笑して散会となった。
二人きりになった時、夫はもう一度泣いた。今度は泣きながらも、とても幸せそうな顔だった。
そんな彼がたまらなく愛おしくて、私も少しだけ泣いた。
因みに、彼が入浴している間に軽食も完食した。
プレビュー表示してみたところ、琳佳さんの惚気が長すぎたので二回に分けます。
繋がった一話分のつもりで作っているので読み辛いかもしれないです。
めっちゃ早くページ移動して読んでください(圧)。