嘘つきの、白井くん
白井くんは、僕の友達だ。
僕らが初めて会ったのは小3の夏休み。
茹だるような暑い日のことだった。
その日、たまたま従兄弟の家に遊びにきていた僕は、虫を捕まえようと空き地を訪ねていた。
草がそこらじゅうに生えた空き地は、まさに宝の山。
家の近所だとなかなか見つからないクワガタも、比較的すぐ見つかった。
クワガタだけじゃない。バッタにカマキリ、テントウムシまで。それこそ選り取りみどりの天国だ。
「ねぇ、きみ。」
今思うと、この時の僕はよっぽど浮かれていたらしい。
突然かけられた声に驚いて、勢いよく振り返る。その拍子に持っていた虫網へ頭をぶつけるのだから、間抜けなものだ。
生理的に浮かぶ涙を瞬きで押し込めて、僕は上を仰いだ。
“ 彼 ”は、草むらに座り込んだ僕をジッと見つめていた。
「この辺で、アゲハチョウって見た?」
蝉の姦しい鳴き声が耳を刺す。
暑さのせいかな。すこし気分がわるい。
まあるい目があまりにも真っ直ぐ、純粋に僕を射抜く。日本人らしい、黒々とした目だ。まるでそこだけ、ぽっかりと穴があいてるような。
あまりに黒くて暗くて、僕はなんとなく居心地が悪かった。相手は僕と同い年くらいの、ただの子供なのに。
ひとすじ、額から頰にかけて汗が伝う。
「アゲハチョウ?」
「うん。」
「いや。見てない、よ。」
いきなり話しかけられたせいかもしれない。
妙に忙しない心臓をぐっと抑え込んで、僕は努めて平静を装った。
事実、クワガタは見てもアゲハチョウは見かけてない。
きっと、此処にはいないのだ。
「ふぅん。そっか、残念。」
見知らぬ少年は、自分から聞いてきたくせに大して興味はなさそうだった。
青い長袖のシャツから、白く細い手がのぞく。
珍しいなと僕は思った。
ここで会う子供は大抵、日に焼けている。
少なくとも、彼ほど不健康そうな子は見たことがない。
それにしても暑くないのかな、その格好。
「友達と、約束したのになぁ。」
「…まぁそんなこともあるよ。」
「君も昆虫採集にきたんだろ?なにとったの、見せて。」
彼は弱々しい見かけとは裏腹に、少々強引なたちらしかった。僕の了承も聞かず、無理やり虫かごを奪う。
そして、中身をまじまじと覗き込んでニッと笑った。
「わ。すごいな。」
「…なにそれ、嫌味?」
空の虫かごの、何が凄いやら。
ついさっき逃してしまったクワガタを思い出して、僕はちょっとだけ、目の前の少年が嫌いになった。
「そういう君こそ、すごいんだろうね。」
思うに、まだ幼かった僕は今よりずっと短気で拙かったのだ。
少しでも馬鹿にされると即座に言い返すような、可愛げのない子供だったのである。
だからこの時も、なんとかやり返したくて。
考えた挙句、僕はあえて同じような反応をすることにした。
彼はこわい顔をした僕を暫くぽかんと眺めていたが、やがてにっこりと笑った。
「そうなんだよ。実は、もう三匹もカブトムシを捕まえたんだ。」
己が馬鹿にされたことにも気づかず、嬉しそうな笑い方だった。
あまりに無邪気で、純粋なそれに思わず毒気が抜ける。
三びきの、カブトムシ。
確かに、その武功は誇るにふさわしい。
僕は負けたと思った。素直に悔しかった。
「あ。もう父さんが迎えにきたみたいだ。」
「そっか。」
「君、気をつけて帰れよ。バイバイ。」
「うん、バイバイ。」
見知らぬ少年は、向こうに父親を見咎めるや否やあっさりと踵をかえし、空き地を出ていった。
あんなに遠いのによく分かるものだ。
赤いハンチング帽のせいだろうか。
僕の父さんも、ああいう帽子を被ってくれたら一目で判るのに。カツラじゃなくてさ。
「クワガタ、今度はとれたらいいなぁ。」
僕は独りごちると、再び虫網を手に取った。
♢♢♢♢♢♢
それから月日は流れ。
彼と二度目の対面を果たしたのは、中学の入学式だった。
その頃、ちょうど親の都合でそこへ引っ越してきた僕は、慣れない環境に早速ストレスを感じ始めていた。
都会だった前とは違う、閉鎖的な暮らし。
こう言っちゃ悪いが、田舎というのは概して人間関係が狭いのだ。此処も例に漏れずその通りで、つまり僕以外のグループは既に完成されていた。
今頃、どこに入れてもらえるだろう。
「ねぇ、きみ。」
窓際の席で、独りぽつんと取り残される孤独。
式が終わって、あとは先生が来るのを待つだけだった。それだけで家に帰れる。だから、たったそれまでの辛抱だ。
そうやって、自分を誤魔化しているときだった。
どこかで聞き覚えのある声が耳を打つ。
急いで顔をあげると、そこには、いつぞやの少年が立っていた。
「俺は白井 裕太。」
彼——— 白井くんは相変わらず青白い顔に笑みを乗せて、そう僕に言った。
すぐに彼だと僕には分かった。
もう三年は前だとはいえ、あの時の記憶はなぜだか鮮烈なまま残っていたから。
そして、それは彼も同じようだった。
「俺ら、前に一回会ったことあるよ。」
「うん。そう、だね。」
「覚えててくれたんだ?嬉しいな。これから宜しく。」
まっくろな目が三日月型に歪む。僕もまけじと、にこりと微笑む。
その日から、僕らは友達になった。
ここで誤解のないよう言っておくと、僕らはなにも、四六時中べったりだったわけじゃない。
むしろ一緒にいないことの方がざらだった。
残念ながら、僕らは別々のクラスだったから。
それでも、彼は事あるごとに僕のクラスへ顔を出してくれた。
「この前、新しいゲーム機買ってもらったんだ。」
「明日、遊園地行ってくる!」
「今日の弁当多くて食べきれなくてさ。すこし、減らしてもらおうかな。」
彼はよく喋る子だった。些細なことでも僕に報告してくる子だった。
最初のうち、僕はそれが嬉しかった。自分もこの環境に馴染めたような気がして、安心していた。
なにより、彼が楽しそうに喋るその姿が好きだった。
嬉しそうに話す内容を聞くのが楽しみだった。
でも。
違和感は、すぐに僕の前に顕れた。
「へぇ、いいなぁ。ソフトは何を買うの?」
「その遊園地なら、僕も言ったことある。あそこ、ジェットコースターが凄いよね。」
「えぇ勿体ない。それなら僕に分けてよ。」
彼は、よく喋る。とても楽しそうに喋る。
けど、僕がほんの少しでもその話を掘り下げると途端に勢いを失くすのだ。
目をちょっと上に向けて、なにか言いたげに口を開閉して。そして、曖昧に笑う。
彼は、僕といて退屈なんだろうか。
本当は、無理に居てくれてるのかな。
一度昏い考えに憑かれると、止まらなかった。
白井くんは、じつは僕を嫌ってる。
いつしかそれを事実のように思い込んだ僕は、白井くんを避けるようになっていった。
「なぁ。お前、白井とつるむの辞めたの?」
もうすっかり季節は廻って、生ぬるい風が頬を舐める。
それは、あの日のように暑いあつい、夏の日のことだった。
部活終わりの僕に、名も知らぬ同級生がそう声を掛けてきた。
「え、いや。うん。」
この子だれだっけ。
ぼんやりとした頭で、曖昧に首を振る。肯定したつもりも否定したつもりもない。ただの、相槌のようなもののつもりだった。
でも、彼はそれを自身の都合のいいように解釈したらしい。ニッと口角を持ち上げ、それ見たことかと言わんばかりに胸を反らした。
「そっか。やっぱ、あんな嘘つきと居たら疲れるもんな。」
「嘘つき?」
「どうせ、お前にも変な自慢話してんだろ?あいつも懲りねぇよなあ。」
くすくす、くすくす。
心底可笑しそうに、唇を歪めて笑う。
嘘つき
うそつき
白井くんが?
これまでの彼の話と笑顔が、一瞬のうちに脳裏を駆け抜けた。
…。
「ゲーム機買ってもらったって聞いたけど。」
「はは。なんだそれ。」
「遊園地、行ってきたって喜んでた。」
「ジェットコースターも知らないのに?」
「弁当、多くて困るって。」
「ふーん、あいつ水以外も食べれんだ。」
まさか
まさか。
あれも、これも、それも。ぜんぶ。
全部、ウソだった?
「でもっ、でもね、カブトムシ三匹捕まえたんだよ。これは嘘じゃないよね…ね。」
なにが、「でも」なんだろう。
自分でも自分が変だとは思いながらも、口は止まることなく勝手に動いていた。
今どきカブトムシって。もう、小学生でもないんだから。
案の定、向こうは不審な顔をしていた。けど、それもすぐに笑みに変わった。
人を小馬鹿にする、意地の悪い笑みだった。
「だから!ぜーんぶ、嘘だって。あいつんち、貧乏だから。虫かごだって買えやしねぇよ。」
そのせいで、一人も友達いないんだし。
「佐武。」
気がつけば、僕は学校の外に出ていた。
校門近くで、呆然と突っ立ている僕に、白井くんは笑顔で駆け寄る。
「なんか久しぶりだな。俺も、ちょうど今終わったとこなんだ。一緒に帰ろうぜ。」
「うん。」
久々に僕と会えて嬉しいのだと、言葉にされずともそう伝わってくるのは決して自惚れなんかじゃないだろう。
「ねぇ、白井くん。」
「なんだ?」
彼は、いつも通りまっくろな目で真っ直ぐに僕を見た。
黒々とした深淵が僕を覗く。
だから僕も。
至っていつも通りの、軽い調子で話を振った。
「あのアゲハチョウ、結局どうしたの。」
「アゲハチョウ?」
彼はうーんと首を傾げる。
そして、ニッと笑った。
「ごめん。なんの話だ?」
白井くんはよく喋る。とても楽しそうに喋る。
そんな彼が友達との…少なくとも、僕との約束を忘れたことは、一度もない。
「ううん。…なんでもない。」
僕はなんとなく、白井くんの手を取った。
白井くんは暫く不思議そうな顔をしていたけれど、それでも振り払うことはなかった。
握った手は既に汗で濡れていた。
僕の記憶が正しければ、たしか。
今日の白井くんの部活は、お休みだったはずだ。
「あ。もう父さんが迎えにきたみたいだ。」
頭上で、カァとカラスが鳴く。
僕らは不吉な夕日にすっかり呑み込まれて、まるで全身血を浴びたように赤く染まっていた。
やっぱり暑いな、今日は。自身の汗で肌にべっとり張り付く制服のがきもちわるくて仕方ない。
ちらりと横の白井くんを見る。
彼はやっぱり、こんな時でも長袖だった。
暑くない、わけではないのだろう。額に汗をかいて、しかしそれでも捲ろうとはしない。
いつだって、そう。彼はいつも、首元から腕先まできっちりとボタンを締めていた。
その服の下には、たぶん 。
白井くんの、うそがつまってる。
「そっか。」
「お前も、気をつけて帰れよ。バイバイ。」
「うん、バイバイ。」
遠くに男性の姿を見咎めて、するりと細い手が抜ける。
走り出す白井くんの背中に、僕はなんとか笑顔を作って手を振った。
白井くんが父親だという男は、もうハンチング帽を被ってはいなかった。
それどころか、同じ人ですらなかった。
白井くんは僕の友達だ。
とても嘘つきで、かわいそうな僕のともだち。
おわり




