005:逃亡に見ゆ異能の片鱗
霧深いルビーの樹林の間を縫うように、彪雅は走る。
状況は完全な孤立、戦力は明確な無援。追う者だろうと寄る者だろうと、彪雅を目がけて来る者は全て、あの頭のおかしい海の姫の配下、要は敵である。
背後から追って来る気配は数を増すばかり。集まる群の威圧がひしひしと背中に当たる。迫る棘の壁もかくやと言うべき無数の害意に追い立てられ、彪雅の脚が速まる。
彪雅は安定をかなぐり捨てて速度に割り振り、全身全霊で疾駆する。途中、何度か脚がもつれてこけそうになったものの、時に華麗な前転跳びで、時に荒ぶる獣の如き四足走行で、速度を殺さず逃走を続ける。
結晶生物の身体のパフォーマンスには舌を巻く。
死にもの狂いで逃げている自覚があった。リハビリ以外でまともに身体を動かしたことがない手前、運動のことなどほとんど何もわかっていないのだが、後先考えないペース配分であることも承知していた。だが、驚くことにこの身体は息が上がらず、散々駆け回っても疲労すら感じていない。振り絞れば振り絞るだけ無際限に力が湧き、脚力に変換されているのだ。
さすがは怪物。パワーは本物ということか。
この世の果てまで逃げおおせる自信が湧く一方で、ちらりと背後を窺う。
鬼気迫る追っ手の軍勢が、そこにいた。
バランスを崩して転んだ仲間などお構いなしで蹂躙し、ただ彪雅の捕獲のみに注力する追跡者。咆哮が上がる度、その口から解放された蒸気が噴出する様は、さながら地獄の狩人である。
彼らも彪雅と同じく、タガが外れた無尽蔵の体力でもって暴走、もとい追走しているのだろう。それはすなわち、この追いかけっこに幕は下りない訳で。
「これ、ハズレ相手の意気込みじゃないだろぉ!? ……って!」
後ろに気を取られている隙に、前方の霧から出現した結晶生物が飛び掛かって来る。彪雅は咄嗟に姿勢を低く、スライディングでその下を潜り抜た。
すれ違いざま、結晶生物があんぐりと口を開けた間抜け面で彪雅を見送る。
勢い余って後方へ転がって行く結晶生物。直後に複数の絶叫。仲間を巻き込んで大クラッシュを起こしたのだろう。ともあれ、逃走劇から何匹かが思いがけず脱落してくれたのは幸先が良い。
この追いかけっこの最中、結晶生物の身体について少しずつわかってきた。
まず先の体力のこと。底無しのスタミナを備え、やったことすらないアクロバティックな動作もイメージだけで難なくこなす運動神経を持ち合わせている。
そして、今まで見えていなかった身体の形状。
スライディングをした時に、背中が地面に引っ掛かる感覚があった。スパイク状の突起物、彪雅の背中にはトゲ状の結晶が生えているのだろう。加えて、常に距離を置いた場所から頸椎あたりを引っ張られているような違和感は、そこからマフラーのようにたなびく何かが伸びていると想像させた。
どうやら、彪雅は通常の結晶生物とは若干の差異があるらしい。
結晶で覆われた髑髏面を基本とする結晶生物に、背中から左腕にかけて棘で覆い、うなじからマフラーを生やしたのが彪雅だ。
少なくとも、ここ、推定湾岸通で見た結晶生物は、身体の大小など多少の個体差はあれど、一見してわかる特徴のある個体は見たことがない。彪雅の姿はいわば亜種と言うところだろう。
亜種ともなれば、多少なりとも希少であると予想できるが……。
「ハズレか」
そう、海の姫は言った。しゃべる男が珍しいようなことも言っていた気がする。
しかし、海の姫の触手に打ちのめされて思い知った。少なくとも、彪雅の力はあれには及ばない。異次元と評しても良いかもしれない。触手を繰り出した時の姫には、欠片も本気が感じられなかった。つまり、彼女の実力は彪雅の体感以上と見積もった方が良いだろう。
よって、期待以上に弱かった彪雅はハズレ。
だが、そのハズレを相手にして、恐らくは配下の総掛かりで追跡している。
以上から導き出される可能性は、単に彪雅が姫の怒りに触れたのか、外見からはわからない特異性が彪雅にあるのか、このどちらかだろう。
衣縫の浴衣を見た瞬間、彪雅は思わず「返せ」と口走った。あの後だ。海の姫の態度が豹変したのは。となれば、前者が妥当だろう。
「あれだけで、ここまでするか!?」
いや、盗品とはいえ、一張羅をいきなり返せって言うのも不躾だ。あれを脱いだら裸だろう。女性に向かって「この場で裸になれ」と言ってるも同然だったじゃないか。
日頃のコミュニケーション不足が悔やまれる。
「ああもう、しくった……っ!?」
グンと首根っこを引かれた。追っ手の一匹がマフラーに追いつき、掴み引いたのだ。不意の一手にさしもの結晶生物の身体も反応が追いつかず、身体が中空に浮かび、背中から地面に叩きつけられた。
「こいつらっ!」
追いついた結晶生物たちが次々と彪雅を押えかかる。関節の固定も動作の阻害も何もあったものではない、粗野な確保。振り解く隙は幾らでもあったが、圧し掛かる追っ手の数は計り知れない。振り解いたならそれを上回る圧倒的な兵力で追い縋り、人海に裏打ちされた無慈悲な重量でもって、次第に彪雅は身動きが取れなくなる。
「どけっ、どけったら!」
当然、彼らは耳を貸さない。返るのは野獣じみた唸り声と、密集する結晶同士がこすれ合う、硬く澄んだ音のみ。
「このままじゃ」
心臓が早鐘を打っている。窮地に血流が加速し、思考も回転を速めた。
このままでは、僕はどうなる? 彪雅は焦燥から自問する。
海の姫の下へ連れ戻される。裸になれと言った無礼の清算が待っているだろう。どのように? 言葉は通じても会話ができない。何より先に手が出る彼女だ。怪物たちの長である彼女だ。きっと、彪雅の常識よりも、凄惨に下されるだろう。
彪雅に肉の巨鎚を振り下ろした時の姫の表情が脳裏に蘇る。
三日月のように裂けた笑みと、獲物を追い詰めた猛獣の瞳。目の前の愚か者をちょっとくびり殺せば、この怒りはいとも容易く鎮まると言ってはばからない、獰猛な愉悦が、何よりも結論を示している。
楽しむ余裕のあった海の姫は、本気を出していない。にもかかわらず、彪雅は一発殴られただけで、ソフトボールのように飛ばされた。
もし、再び彼女の前に引きずり出されたら……。
鼓動が耳に迫る。結晶生物の群の呼気。鼓膜が脈を打つ。結晶生物の外骨格がひしめく。呼吸が速まる。脳を揺さぶる脈拍。あの凶悪な笑顔が目に浮かぶ。息が喉を掻き鳴らす。口が乾く。
胸が張り裂けそうな、大きな拍動。
それを最後に、静寂が彪雅を包んだ。
安らかだった。石で固められていたはずなのに、柔らかな抱擁の中に身を預けているような温もり。自分より大きな何かに頭を撫でられているようなこそばゆさ。唐突に投げ出された暖かな空間の中で、彪雅はその意思を近くに感じた。
その温もりは、印象に反して暗い。柔らかさに反して苛烈で、安寧に反して凶暴。相反する光と闇が同居したような、不可思議で、相反する要素が混ざっているために不確かな意思だった。
ただ確かだったのは、意思が力を示していることだった。
◆
海の姫の命令に従って、結晶生物らは動く。
姫の命は「追いなさい」……決して、「連れて来い」ではなかった。従って、彼らは彪雅の上に覆い被さる。追いついた後の指示は受けていないため、ただ一か所に集結し、結晶団子を作って、その後は何もしない。強いて行う動きは、少しでも彪雅に追いつくために、結晶生物同士の僅かな隙間を掻き分けて、より団子の奥へ、奥へと進むことだけだ。
霧深い樹林の中、結晶ひしめく小山のみが不気味に静寂を蝕んでいる。彪雅を封印する、無数の生ける結晶の牢獄。それは、中に閉じ込められた一匹の力量程度では動じない檻だった。
その檻に、ある変化が見られた。
漆黒の結晶だ。斑模様のマリンカラーの結晶塊のあらゆる隙間から、暗黒の鋭い結晶が芽吹いている。その暗き芽の生長は留まる所を知らず肥大化を続け、群がる結晶生物の結束を次第に破っていく。
結晶の芽により、はち切れる寸前まで膨張する結晶生物の監獄。芽の生長が終わったと思われた時、監獄の内部から何かが爆ぜ、割れる音が途絶えることなく鳴った。内部で暴れる何らかの力が、結晶生物の最後の抵抗を打ち破り、その尽くを吹き飛ばす。
結晶生物を吹き飛ばした力の正体が、樹林を覆う霧の帳を縦横無尽に切り裂く。
無数の結晶、暗黒の弾丸。彪雅を中心に発射されたそれらは何匹かの結晶生物の身体を切り裂き、弾丸と同じ暗黒色に侵食していった。
樹皮に、地面のブロックに、無差別に突き刺さる暗黒結晶の弾。結晶生物から外れたそれらは、やがてひび割れ崩壊し、霧を払い除け、爆炎を辺りに撒き散らした。
◆
炎上する大地に、黒い樹影が揺らめく。
低木ながら立派な枝を伸ばしたその樹は大地に立ち上がり、その枝は役目を終えたかのように委縮していく。
その幹は、人型をしていた。
「はあ、はあ……、こんなのが、できるなら、最初から、教えてよ……」
この身体になって初めて息切れを感じつつ呟きながら、彪雅は左腕を見つめていた。
伸びていた棘は縮み、銃弾の如く発射した棘は新しく生え変わっている。再生のために身体から養分か何かを吸われているのか、やたら滅多に体力を消耗している気がした。
だからと言って、悠長に構えていられない。
周囲を警戒する彪雅。地を焼く炎は彪雅の身体へと吸われ、次第に勢いを失くしていく。対して、それまで感じていた倦怠感は嘘のように引いていくのを彪雅は実感していた。
だが、それは周りに爆散した結晶生物たちも同様。地面に倒れ伏していた彼らも炎を食らい、次々に立ち上がる。
多勢に無勢の鬼ごっこを繰り広げていた時と比べて、状況がまずい。伸びる棘と棘の弾という未知の能力で敵の手を逃れたのは良いものの、それは一時しのぎに過ぎない。吹き飛ばされたことで、彪雅の周りを結晶生物が包囲する形になってしまったのだ。
「さーて、次のラッキーパンチは期待しちゃダメだよね……」
左腕を突き出し、敵を牽制する彪雅。
棘の再生は完了済み、撃とうと思えば撃てるのだろう。だが、先程棘を発射した時の感覚が今一つ掴めていない。試しに力を込めてみたり、「撃て!」「ファイア!」「ニードルガン、いや、ボム!?」と声を張ってみたりしても、棘はうんともすんとも言わない。
何も打つ手が無いまま、次々と新しい結晶生物は復活する。遅れて到着した別個体までもが加わり、包囲をより強固にしてゆく。
また、倒れていた結晶生物が起き上がった。
「ん?」
遊んでいた棘の尖端が、ある一点に停まる。
新しく起き上がった結晶生物の様子がおかしい。海の姫の配下は皆、多少の差はあれマリンカラーで統一されている。だが、今、起き上がった三匹は。
「僕と同じ色?」
やはり、多少の違いはあるが、彪雅と同じ暗黒色系統に結晶が染まっている。新しくやって来た個体ではない。なぜなら、それぞれ追っ手の中でも背が高い個体、筋骨隆々の個体、女性的な個体で、何となく彪雅の印象に残っていたものばかりだったのだ。
三匹は、足元も覚束ない様子で、ふらふらと力なく立ち上がる。他の結晶生物は脇目も振らずに彪雅を見据えていたのだが、この三匹に限ってはそうではない。目線が泳いでおり(と言っても、結晶に目が隠れていて判然としないのだが)、まるで周囲を確認しているかのようだった。
そして――。
「うきゃああああああああああああああああああああ!? 何ナニなに!?」
「な、何でえ、てめえら!? ヤろうってえのか!? ええコラ!?」
「ば、ん化け物、こん、こんな、やっだあん!?」
あからさまに取り乱す三匹……いや、三人と呼ぶべきか。三人は日本語を、人の言葉を発している。周りを見ては驚愕し、三人顔を見合わせては絶叫する。逃げようにも周りは異形の化け物だらけ、惑えば三人まとめて一斉に頭をぶつけ、互いの顔でまた慌てふためいた。
「仲良しか」(いや、じゃなくて)
混乱していて判断に困るが、三人は恐らく、人間の頃の人格を取り戻している。その三人は彪雅と同じ暗黒色の結晶生物。ルビーの果実の爆発を受けて赤く染まった腕、海の姫の一撃を受けてマリンカラーになりかけた胸。
繋がった。
「そこの騒がしい三人!」
人の声を耳にして、すがる気持ちで振り向く三人。しかし、声はすれども姿は見えず、きょろきょろと必死になって人の姿を追う。
構わず続ける彪雅。
「一度だけ言います! 黒は味方、それ以外は敵、ぶちのめして良し、です!」
「……はい?」
全く同じタイミング、同じ角度で小首を傾げる三人。この状況で、突然こんなことを言われたら彪雅でも同じ反応をするだろうが。
(だから仲良しか、って)
三人の背後から襲い掛かる結晶生物の影。話に気取られた一瞬の隙を突かれ、マリンカラーの凶爪が振り下ろされる。
「危ない!」
いつまた結晶生物に取り押さえられてもおかしくない今、先の棘の乱射を繰り返していては状況が変わらないどころかジリ貧だ。ここで戦力になるかもしれない人間を失う訳にはいかない。間に割り込むには距離が遠過ぎる。ならば、取れる手段は一つ。
彪雅の突き出した左腕、その照準は敵結晶生物へ向けられている。
弾丸は込められている。その弾丸に込めるのは、敵に当てるという意志。
直後、風切り音と共に腕に反動を感じた。彪雅の望む先、三人に襲い掛かる結晶生物の額には、射出された棘が見事に刺さっていた。
(何となくわかってきたかも)
棘の刺さった的と、彪雅を交互に見比べる三人は呆然と突っ立っている。
「一度だけって言いましたよ! ほら、ゴーゴーゴー!」
三人が呆気に取られている内に、彪雅は棘の弾丸を使って次々に結晶生物を蹴散らしていく。照準を合わせた正確無比な射撃は、見事に敵の額へ吸い込まれていく。
「……何だか知らねーが、腕尽くで良いんだよなあ!?」
半ばやけっぱちにで最初に参戦したのは、筋骨隆々の一人だった。巨体と剛腕を駆使し、パワフルに敵を薙ぎ払う。
「んもう、わっけわかんないわ! フィイイーッ! アーシ、こういう柄じゃないのよお!?」
「ちょ、ちょっと待って、もっと説明、説明しなさいよお!!」
続けて、オネエっぽい高身長、女性の順に、戦場へ身を投じる。
単純な逃走劇から一転、戦いは混沌が渦巻き始めていた。