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ボンド―偉大なる戦闘員及び―  作者: ごっこまん
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004:海から始まる新世界と使徒


 カバンの中の通話機(ペンフォン)がけたたましく、警戒心を煽るアラートを鳴らしていた。


 自分の物だけではない。見渡す限り、けたたましいアラートは街中の至る所から鳴り響いている。耳に突き刺さる不穏な音色に急かされ、緊張で震える手で、通話機の筒状の本体から液晶シートを引き出し、メッセージを確認する。


 そんな猶予は残されていない。


 直後、地面が突き上げられた。未熟な身体が飛び跳ねるほどの衝撃が襲来し、通話機が手から零れ落ちた。


 立っていられないほどの不断の衝撃が足元をすくい、頭から転んだ。周りにも地面に倒れ伏すものや、街路樹に寄り掛かって何とか耐え忍んでいる者……巨大な力を前に、人々は混乱に呑まれている。


 人類の英知によって強固に建立されたはずのコンクリートジャングルが、伝播する大地の怒りに押し上げられ、波打っていた。ビル、草木、車、人、目に映るあらゆる物が大きく揺さぶられている。道路のアスファルトが割れ、ビルは傾き、割れたガラス窓のシャワーが降り注ぐ。


 地震だ。


 気付いたところでどうしようもなかった。大の大人が前後不覚になって倒れ伏すレベルの大地震を前に、小さな身体が太刀打ちできる道理はなく、逃げ場を探す暇すら与えられていない。ただひたすら、その場に伏して、災いが通り過ぎてくれるのを祈るばかりだった。


 どれだけの間、頭を抱え、うずくまっていただろう。


 揺れが収まった頃、恐る恐る辺りを見回す。街の様相は様変わりしていた。数刻前には普通の平坦地であったのに、断層が隆起し、崖のようになっている。揺れにハンドルを取られた車同士が衝突し、ボンネットから黒煙が上っていた。


 互いに寄り添い、無事を確かめ合う人々が、次々とどこかへ移動している。避難場所へ向かっているのだろう。


 誰かを探していた。それが何者なのか判然としないが、探さなければならない誰かがいる。ただ訳のわからない焦燥に駆られて、記憶に曖昧な影を追っている。不確かだが確かである奇妙な体験だった。


「――!」


 呼び声が聞こえた。言葉になっていなかったが、それは紛れもなくこちらを呼んでいた。どことなく安心感を覚え、心細さに光を差してくれるような、温もりのある声だった。


 ようやく見つけた。喜び、その声の方へ向いた瞬間。


 ドン、と衝撃に突き飛ばされる。


 受け身なしで地面に身を打ち、肺の中の空気が不意に吐き出され、むせ返る。


 その直後、目と鼻の先でシャンデリアをぶちまけたような破砕音がつんざいた。痛む身体をさすり、何事かと顔を向ける。涙でぼやけた視界の焦点が次第に合っていくとそこには。


 割れた陶器の頭から、大量の血を撒く僕が横たわっていた。



「――っは」


 嫌に冷えた空気が、一気に肺へ流れ込む。冷気が肺胞に染み、唾液が器官に侵入する。彪雅(ひゅうが)は胸腔が裏返るかと錯覚するほどむせ返った。


 薄らぼやけた意識が次第に覚醒してゆく。身体が気だるい。馬鹿みたいに眠った日の翌朝のように、手足の感覚が覚束ない。


 視界がぼやけたまま、はっきりとしない。頭でも打ったのかと思ったが、自分が濃霧のただ中にいると気付くのは、少し経ってからだった。


 義眼の表示を確認する。バッテリー残量は満タン。だが、時刻表示がおかしい。衛星と同期できていないのだろうか、エラーが表示されている。その他のアプリは無事なようだが……。


「何だ……なに?」


 額に手を当てた時に違和感を覚えて、じっと手を見る。


 彪雅は息を呑んだ。


 黒い結晶。およそ生命を、血の通いを感じさせない無機質な結晶の塊が二つ、目の前にある。それらは彪雅の手に合わせて動き……否、それは彪雅の腕そのもので。


 彪雅の両手を、暗黒色の結晶が覆っていた。


「え、なん、何の、冗談……」


 右手は分厚くごつごつした質感の武骨な結晶、左手は繊細だが手の甲側に無数の棘状の結晶がびっしりと生えている。爪は総じて鋭く、触れたもの全てを切り裂く害意で鍛造された鎧の如き風貌だった。


「え、は? うそ」


 鎧を脱ごうと継ぎ目を探すが、一向に探り当てられない。鎧から無理矢理に手を引き抜こうとしてもビクともせず、むしろ肌ごと持っていかれそうになる。焦れて鎧の表面に爪を立てて掻き毟っている内に、右手の結晶が削れているのに気付き、もっと深く、結晶を剥ぎ取るつもりで掻き毟っていく。


 そして、遂に鎧へ亀裂が走る。


「痛っ」


 亀裂から血が出る。そんな感覚があった。事実、結晶の鎧は彪雅の感覚と融合しており、亀裂はそのまま傷になっている。


 ただし、傷から出たのは血ではなく、赤熱する溶鉄の如き熱を湛えた液体だったのだが。


「うわあ!?」


 凄まじい熱気を噴出する傷口は、彪雅が叫ぶ間に結晶に覆われ、かさぶたのようになった。その結晶のかさぶたも数秒も経てば痕すらなくなり、すっかり塞がってしまった。


「はっ!?」


 熱による大気の揺らめき、陽炎を呆然と眺めながら、腕の痛みが突如として記憶を呼び起こす。致命的な苦痛を伴う記憶。怪物の爪、噴き出る鮮血、明るい夜闇が遠くなり、全身が慈しみに包まれたような、今となっては地獄の一瞬がフラッシュバックした。


「胸、斬られ……!?」


 胸元を爪でなぞり、心臓を掴まん勢いで握り拳を作る。左肩から右の脇にかけて、触るだけでわかるほどはっきりした傷痕が走っている。そこから水晶クラスターが傷を縁取るように生えており、大地溝帯を彷彿とさせる亀裂を形作っていた。


「塞がってる……?」


 あの時、彪雅は胸を切り裂かれ、二度目の死を迎えた、はずだった。


「……どうなってるんだ」


 状況に理解が追いつかず、頭を抱えて項垂れた。


 手に触れる起伏でわかる。頭部も例に漏れず刺々しい結晶に覆われており、口元は髑髏の如く歯が剥き出しになっている。義眼である左目の方は露出しているようだが、視界に入った両脚まで、もちろん結晶の鎧と一体化している。足の指の一本一本まで外殻で覆われており、まさに生ける結晶と化していることを思い知らされた。


このイメージに重なるもの、それは。


「僕、あの時の、化け物……に?」


 鎮魂祭に現れて、人々を襲った結晶生物。何と呼べば良いのかわからないので、ここではひとまずそう呼ぶ。


 あれに襲われたら、同類になると言うのだろうか。


 思い至るのは、自分なんかを庇って結晶生物の前に立ち塞がった衣縫の後姿。意識を失う直前まで、彪雅の視界は彼女の真っ赤な泣き顔が占めていた。あれが走馬燈の類でもない限り、彼女はギリギリまで自分の傍を離れなかったことになる。


「まさか」


 彼女も自分と同じ姿に? 彪雅は辺りを見渡した。遠景は霧に閉ざされて見通せないが、近くの状況は何とか視認できた。


 無数に分岐した、漆黒の枝に囲まれている。恐らくは樹上か。彪雅はその中でも一等太い枝の網に身を預ける形で座していた。枝には結晶で出来ているのであろう透明な葉が生えており、所々に果実の如きルビーのような外見の結晶を実らせていた。


 しかし、いくら辺りを見回しても、自分の他に動くものも、人間大の結晶も目につかない。


 何とか逃げてくれていれば良いのだが、手掛かりがあまりにも少な過ぎる。


 それに、途中で別れた紀鋼と鎧塚は、母は、どうなったのだろうか。


「皆は、無事かな……」


 思いを募らせれば募らせるほど、心が深みに沈む。考えたところで何も変わらないのはわかっていたが、頭が勝手に回ってしまう。


 幾ばくかの時を過ごす。相変わらず霧は濃い。遠くも見えなければ、木の根元の地面すら視認できない。彪雅はやおら顔を上げた。


「……ちょっと待てよ」


 再び、じっと両手を見つめる。手の平を閉じ、開き、閉じ、開き、甲に裏返し、平に翻し、ぐっと力を込めて握り拳を作る。


 ルビーの一つに手を伸ばす。表面を傷付けないように優しく手の平で包み、果梗を枝から切り離すようにして、もぎ取った。


 手には、確かにリンゴ大のルビーが握られている。手の中で転がすルビーの感触は冷たく、硬かった。


「動く」


 頭から背筋にかけて、ゾクゾクと奮い立つものが伝う。


 思い通りに身体が動く。この身体になる前ならば、考えられないことだった。


 痙攣の一つも起こさず、正確に、繊細に、彪雅のイメージ通りに動く手。あまりに意のままに動くもので、むしろ他人の腕のように感じてしまう。


 続けて、脚。座ったままばたつかせたり、指を広げてみたり。特に意味のない動作だったが、こんな簡単なことができるというだけで楽しくて仕方がなかった。


「ていうか、これ、肉声じゃないか」


 今になって、独り言が自分の喉から出ていると自覚する。前なら呂律も音量も調子っぱずれな雑音しか出さなかった喉が、まともに機能している。


 胸の奥から、熱いものが込み上げて来る。


 不安定な枝の網の上、彪雅はバランスを取りながら立ち上がる。景色は変わらない。相変わらず枝と霧だらけの殺風景だ。


 冷たい空気を胸一杯に吸い込み。


「わあああああああああああああああああああああああ!」


 どこに向けた訳でもない雄叫びを上げる。口の中が熱く、火を噴いているのかと思った。呼気が白み、解放した蒸気圧の如く湯気が立ち昇っていた。


 腹の底から全てを絞り出し、尻すぼみに消え入る雄叫び。その後味の悪さがどうにも気恥ずかしくて、彪雅は意味もなく誰にも見られていないか、きょろきょろと辺りを探った。


 やはり、誰もいない。雄叫びは白い霧の彼方に吸い込まれるばかりだ。


「ははっ」思わず、笑いが込み上げる。「多分、これ夢だ」


 そうだ。祭の夜に結晶生物に襲われ、自分も同族にされたら、身体が動くようになって、声までちゃんと出せるようにもなったなど、あまりにも荒唐無稽だ。人間のまま運動能力を取り戻していない点については、設定に首を傾げざるを得ないが、夢だと考える他ない。多くの要素がそう物語っているのだ。


 だが、人並みの運動ができるというだけで、でき過ぎた夢だ。まるで自分の願望の鏡映しで、欲望に忠実過ぎる夢を見る自分自身が滑稽で、笑いが止まらない。


 不意に、手の中のルビーに亀裂が生じる。


「あははははは……うん?」


 力を込めたわけではない。ただ何となく持っていたら、自然と割れ目ができたのだ。


 ぼうっと手のルビーを眺めていると、見る見るうちに亀裂は無数に分岐していく。更に、亀裂に生じた隙間を埋めるようにルビー自身が収縮していき、体積を無視した小さな欠片に凝縮されていく。


 もうこれ以上は縮まないと思われたその時。


 目も眩む光が、辺りを白く消し飛ばす。


 爆発、そう直感する。ルビーから視力を奪う白き閃光と、空気を破る轟音、爆炎と共に身体を吹き飛ばすほどの衝撃が放たれる。ルビーが握られていた右手には凄まじい激痛が走る。


「ぐあっ、が、……! あ……?」


 爆炎に身体ごと飛ばされると、そこは霧のただ中だった。


 全身に受ける風が徐々に強くなり、浮遊感を覚える。耳に届くのは風切り音。視界を奪っていた爆発は、急速に遠くなり、黒い幹が猛スピードで通り過ぎている。


 要は、落ちている。


「あああああああああああああああああああああああああーっ!?」


 五感に、全身に、内臓にまで訴えかけてくる重力と風圧と吹き飛ばされる景色。展開の情報密度が、これが夢ではないと脳内で警鐘を鳴らしている。


 夢でないのなら現実。現実で自由落下の末に導き出される結果は、考えるまでもない。


 空に向いていた身体を捻り、地面へ向く彪雅。その瞬間、目の前には漆黒の枝が迫っていた。


「げふっ!」


 腹部が枝に弾かれる。落下軌道が逸れ、別の枝へ、逸れてまた別の枝へ、こうなると彪雅はピンに当たるパチンコ玉だった。


 やがて落下の勢いは程良く殺がれたところで、顔から地面に激突。「へぶっ」と、聞くに堪えない呻きが漏れる。想像以上に高い場所からの降下だったが、何とか痛みを感じる程度に命を留めていた。


「あ痛たた……。ああ、びーっくりしたぁー……!」


 朦朧とする頭を手を添えた彪雅は、自分の手を見て再度驚愕する。


 真っ赤だ。先程手にしていたルビーと全く同じ色合いに手が染まっている。果汁や血ではない。結晶そのものが赤く変じているのだ。


 だが、それも束の間のことで、暫くすると肩から反転するように、波打つ暗黒色の結晶が赤い結晶を覆い、(彪雅にとってはどうなったところで変異後であるが)すぐに元通りの腕に戻った。


「この身体、どうなってるんだ……」


 今の現象といい、高所から落ちても怪我一つなく痛いだけで済んでいることといい、この身体は常識では測れないことが多い。正体が気になるところではあるが、今の彪雅にそれを知る術はない。


 どうしようもなければ差し置いておくしかない。


 ならば、今は状況の確認が最優先だ。


 周辺を探索する。砂が被ったり、めくれ返ったところもあるが、地面はブロック敷きの舗装がなされている。ルビーが生っていた樹はブロックを掻き分けて地に根を下ろしており、彪雅の乗っていた一本だけでなく、見渡せば三、四本ほど生えているのがわかる。霧が晴れていれば、もっと樹が見えていたのかもしれない。


 樹の根元の樹皮に開いた洞からは、清らかな水が湧き、舗装の窪みに貯まっている。


 恐る恐る、湧き水に触れる彪雅。水は、予想より少しだけ温かく感じた。だが。


「冷たっ……!」


 触れると瞬時に水は氷結し始める。慌てて手を引いた彪雅。ほんの一瞬、水面に触れただけで、一〇センチ径の範囲が凍っていた。指先には、ほんの小さなつららが生えている。そのつららの表面を伝い落ちる水までも、霜となって凍りついた。


「この感覚……」


 冷気を出していると言うよりも、熱を吸い取っているのか?


「水場は……避けた方が良いな。落ちたら氷漬けになりそうだ」


 水に意識を向けたためか、離れた場所から、岸壁に波の打つ音が耳に入った。随分と場が荒れているが、結晶生物に襲われた場所と同じなら、ここは天平市(あまだいらし)の湾岸通だろう。


しかし、港の岸壁に波が当たっているにしては、妙に遠いと言うか、荒々しいと言うか……。まあ、気にすることでもない。


 それよりも、そんな些細な環境音が聞こえるということは、やはりと言うべきか。


「人は、居ないのか」


 ここからどこへ向かうべきか。人を探すのが良いか。だが、荒廃した湾岸通を見る限りでは、近くにいるのかも怪しい。


 これからどうするべきか。彪雅が考えていると、こちらに近づく足音を耳にした。


 一つや二つではない。板ガラスを踏みしめるような足音が、四方八方の霧の向こうから、彪雅を目がけて一歩、また一歩と接近して来る。


 彪雅は周囲を警戒する。人間か、結晶生物か。霧の向こうで揺らめく影だけでは判別できず、囲まれているために自己防衛本能が働く。ルビーの樹を背にし、万が一の襲撃に備えて、相手が攻める方向を限定する。


 喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかったが、彪雅は両手で拳を作り、構える。


 数刻の間、右へ左へ揺れながら迫る幽鬼の影。それらを睨む時間は長いようでいて、その実、短いのだろう。緊張が時間間隔を引き延ばし、逃走か闘争かの判断を促しているのだ。だが、結局彪雅は何も妙案など思い浮かばず、やがて影は霧の幕を掻き分け、その正体を露わにした。


 ほの暗いマリンカラー。殺意を鋭利にかたどった爪。結晶生物たちだ。


 獰猛に唸りながら彪雅を取り囲む結晶生物たち。結晶の奥で爛々と光る目で彪雅を凝視し、時折、威嚇めいた声を発した。これらが集まったことで、一帯が著しく寒くなったように感じた。


 彪雅は構えを解かず、結晶生物と対峙する。


「……話は、通じるって訳じゃなさそうですよね」


 言葉を投げかけても、相変わらず唸っている結晶生物を見るにつけ、早々に対話を諦める。彪雅と同じく、元人間であれば自分と同じく理性が残っているかもしれないと思ったのだが、当てが外れてしまったようだ。


 となると、なぜ彪雅は理性を失っていないのか。謎は一つも解けず、増えるばかりで苛立ちが募る。しかし、今はそんな些事を気にかけている場合ではない。


(どうする。こいつらと力は同等だと思いたいけど、それでも、この数の差じゃ……)


「はーい、みなさん、ご苦労様ですう」


 悠々とした女の声が、結晶生物たちの後ろから聞こえる。その声を聞いた結晶生物たちは即座に、声の主のために道を空け、その者を首を垂れて迎えた。


 にちゃり、にちゃりと、粘液質の足音の主が、霧より姿を見せる。


 その女は全身が青白く透明感があり、どことなく深海を思わせる暗さを湛えていた。肌は粘液に覆われているのか艶々と照り、裸の上から羽織っただけの浴衣が濡れて透けていた。


 パッと見ただけだと、和製ホラーを撮影中の女優に見えないこともなかったが、その頭部は明らかな異形であった。


 本来、髪の毛が生えているはずの頭部から、代わりに無数の触手が生えているのだ。触手は特に長いものだと女の身長を超え、イカのような吸盤が並んでおり、自らの意思を持ってウネウネと動いていた。


 イカ女は値踏みするように彪雅の全身をねめつける。少し残念そうな顔をし「ハズレか」と呟いた後、気だるげな笑みを浮かべた。


「ここで叫んでいたのは、あなたですよねえ?」


 しまった。彪雅が内心で冷や汗をかく。考えなしに雄叫びを上げて、得体の知れない者たちを呼び寄せてしまったのだ。


 しかし、目の前のイカ女は言葉が通じるらしい。行動指針を固めるため、情報を欲していた彪雅としては、彼女まで呼び寄せた点は幸運だった。


「……言葉がわかるんですか?」


 イカ女が彪雅の回答に冷血な目を丸く見開いた。


「言葉をしゃべる、しかも声質からしてオス! 結構、結構……これはひょっとしたら、思わぬ収獲かもしれません」


 イカ女は興味が蘇った目で、彪雅の値踏みを再開する。今度は正面だけではなく、横に、樹からそっと離して後に、隅々まで観察した。


 好奇心で動くイカ女に気圧されていた彪雅だが、臆してばかりはいられないと、口を開く。


「あ、あの……あなたは?」


 イカ女は怪訝な顔を向けたが、肩をすくめ、仕方ないと言わんばかりに尊大に答える。


「いずれ新しい霊長を統べる者です」


「はぁ? ……あ、いやいや、そういうのじゃなくて、名前は?」


「必要ありませんねえ。いずれ私は、この星で唯一、女王と呼ばれることになるのですから。今は”海の姫”などと呼ばれてはいますがねえ」


 彪雅は呆然とした。言葉は通じるが、話しぶりからして常識が違う。何やら危ない思想の持ち主と言うか、彪雅をもそれに巻き込もうとする意思をひしひしと感じる。


 一刻も早く、この集団から穏便に逃れたい。そんな考えが彪雅の頭を占拠し、続く言葉を見失ってしまう。いよいよ余裕のなくなってきた頃、仮称”海の姫”の浴衣の柄が目に入った。


 スイレン柄の、海の姫の長身には合わない小さな浴衣だ。


「……その浴衣は」


「これですかあ? 良いでしょう? そう言えば、見つけたのはこの辺でしたねえ」


「それの持ち主を知りませんか?」


 海の姫は小首を傾げる。今までと違い、目元に鋭さが浮沈した。


「変なこと言いますねえ。私が見つけたから、私の物に決まっているでしょう」


「それは友人の物です。返してください」


 鳩が豆鉄砲を食らった顔とは、今の海の姫のことを言うのだろう。目を丸めて、口は半開きで凍りつき、表情だけでなく、空気まで一気に凍えてきたような……海の姫の体表からは、冷気が伝い、地面に広がっていた。


 ニコリと笑う海の姫。


 間髪入れず、彪雅の胴体に巨大な拳が叩き込まれる。


「ぐぅ!?」


 否、拳ではない。海の姫が自らの触手を強靭に編み込み、巨大な肉の鎚として振るったのだ。


 肉の鎚の表面には吸盤と返しの付いた鉤爪がびっしりと生えており、彪雅の胴体を切り刻む。できた傷から、マリンカラーの結晶がじわじわと侵食していく。


 その膂力はすさまじく、彪雅は何メートルも吹き飛ばされ、衝撃で周囲の霧が晴れた。


 何とか空中で体勢を立て直し、海の姫を見据える彪雅。


 対するは、悠々と歩み寄る、自称、新たな霊長を統べる者。


「あなた、もういいです。実力次第では間男程度の扱いはしてやろうと思っていましたが……なあんだ、やっぱり、ハズレはハズレ、大ハズレですねえ……」


 その形相、正に殺戮に享楽を見出す者。


「誰に向かって命令したのか、思い知りましたあ? ハズレさぁん?」


「くそっ!」


 踵を返し、彪雅は逃走を試みる。勝利の道筋が見えない戦いはやるだけ無駄だ。何より、相手は幸いにもあまり賢くはない。自陣の包囲網(・・・・・・)からわざわざ(・・・・・・)彪雅を逃がし(・・・・・・)てくれた(・・・・)のだから、この機に乗じて三十六計何とやらである。


「逃げられると思っているんですねえ、可愛らしい」


 小動物をいたぶるような恍惚とした笑みを浮かべる海の姫。息を深く吸い込み、己をして玉音と誇る声を上げた。


「止まりなさい!」


 凛と、支配者に相応しき圧ある言葉が場に響き渡る。彼女の命を前に、声の届く範囲にいる、あらゆる配下が、時と場所を選ばず静止する。姫たる彼女を畏れぬハズレなど、今までいなかった。


「っ!?」


 だが、逃げ去るハズレは足を止めない。どころか、彼は一向に彼女の色に染まる気配すら見せていない。両者の距離は開くばかりで、後ろ髪が引かれる挙動はおろか、ハズレは振り向く素振りすらしなかった。


「どういうこと……!? なぜ止まらない!?」


 止まれと言われて素直に止まる馬鹿がどこにいるって言うんだよ。逃げに徹する彪雅は、心の中で傲慢な姫に唾を吐いた。


「止まれ! 止まれ止まれ! 止まれ止まれ止まれ!!」


 海の姫が重ねて命ずる。しかし、本命は止まらず、彼女の周りの結晶生物が「止まれ」と言われる度にビクビクと痙攣するばかりであった。


 痺れを切らした海の姫は、従僕たる結晶生物に新たな命令を下す。


「あの黒い、隻眼のハズレを追いなさい!」


 雷に打たれたように、侍っていた結晶生物が彪雅の後を追う。湾岸通一帯から点々と別の結晶生物の咆哮が轟き、彪雅の追跡を開始する。


 一人、その場に取り残された哀れな姫は、触手で巨人の腕を紡ぎ、八つ当たりでルビーの樹を薙ぎ倒した。

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