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ボンド―偉大なる戦闘員及び―  作者: ごっこまん
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003:散華の火食らう終わりの足音


 潮の香りが風に乗り、湾岸通に集まる人々の熱を優しく洗い落としている。


 やはり、鎮魂祭の運営が指定する花火の観覧席なだけはある。祭客の密度が違う。人気の少ない道を選んで行っても車椅子が(紀鋼(おさがね)の脚力で)通るには不自由を感じるほどの往来があったが、観覧席の方となると、まるですし詰めだ。


 加えて、海上には遊覧船の特等席、空中にはヘリコプターの遊覧飛行……。近隣で人目のない場所を探すのは骨が折れることだろう。


 人の流れを止めないよう、見物客をスムーズに誘導する係員達を遠目に眺める彪雅(ひゅうが)と紀鋼。


「すごい。こんなに人が……」


「まあ、天平祭(てんぴょうさい)だった頃と比べりゃ、少ねー感じだよなー。言って、犠牲者を悼む日だべ。弔い方も人それぞれだしな。……あたっ」


 後頭部に軽い衝撃を覚えて、紀鋼が振り返る。そこに居たのは、遅れて後を追ってきた鎧塚(よろいづか)衣縫(いぬい)だ。


 鎧塚が扇子を閉じて、紀鋼の頭に突きつけていた。冗談っぽく咎めるようなジト目が、紀鋼を威圧する。


「ちょっと拳志(けんじ)刺百合(しゆり)のことも考えなさいよ。走れる恰好じゃないんだから」


 彼女に引っ張られて来た衣縫は浴衣に雪駄、見るからに駆け足に向かない。それでも無理に急いだために息が上がって、目の焦点が中空を彷徨っていた。今にも潮風に攫われそうな風体ながら、その小さな手にはしっかりと食べかけのリンゴ飴が握られている。


「姐さんすんません、ついテンション上がっちまって……」


「姐さん言うな。つか謝んないの。彪雅まで悪いみたいじゃん」


「なるほど……それ、盲点」


「鎧塚さん、僕も舞い上がって止められなかったから」


 割って入る彪雅に、鎧塚が首を振る。


「庇っちゃダメよ彪雅。突っ走ったのは拳志なんだから。ほら拳志、あんたはこっからどうすれば良いの?」


「ウッス、お祭り野郎紀鋼拳志、こっから一夏を甘酸っぱクッキーンワッショーイ!」


 衆目が痛く刺さる素っ頓狂な言動に、鎧塚は思わず頭を抱えた。


「一人で盛り上がるのはいいから、全員盛り上げて欲しいんですけど」


「ウィーッス……つか、ゆりっぺ、マジで大丈夫か」


 衣縫は息を整え、懇願の声を絞り出す。


「もう……か、帰る……」


「こら、言い出しっぺ!?」


「マジでかゆりっぺさん! 本番はこっからっすよ! ほら、クレープ奢っから、な?」


「し……雪花氷(シェーホアピン)、で、手を打つ、よ」


「し、しぇーあほ……なに?」


「お、紀鋼君、秒で、ソク、よ、よろー、的な……」


「ソ、ソクよろ……」


 直前までの辛そうな表情から手の平を返したように、ケロッとした様子でリンゴ飴をかじる衣縫。話は終わったとばかりに紀鋼と鎧塚の横を通り過ぎ、彪雅の隣へ移動した。


「く、黒須君、雪花氷、絶品、だよ」


「え、うん、そうなんだ?」


 狐につままれたような顔で、紀鋼と鎧塚は衣縫の姿を追うことしかできなかった。


「なあ、まーさん。ゆりっぺ、実はまさかのユーモア通じる系じゃね?」


「やー、あの子は時々底知れないわ……あれ?」


 先程まで祭囃子を流していた特設スピーカーからチャイムが鳴る。祭で浮ついていた空気が引き締まり、その場にいる全員が続くアナウンスに耳を傾けた。


「会場にお越しの皆さまへ、お願いを申し上げます。間もなく、午後五時五五分、ワールドクエイク発生時刻になります。三回目の慰霊の鐘を合図とし、災害の犠牲となった方々へ黙祷を捧げていただきたく思います……」


 黙祷……か。彪雅が胸中で言葉を噛みしめる。


 ワールドクエイク。


 全世界が被災地域となる、前代未聞の超広範囲で発生した地震。


 数多くの尊い命が失われ、彪雅を始め多くの人々の生活に多大な影響を及ぼした災害は、被災から丁度五年が経過しようとしている今日に至るまで、その傷痕を深く残している。


 別名、国境なき大災害とも言う。――だからこそ、日本時間の七月二五日午後五時五五分、協定世界時における七月二五日午前八時五五分を迎えるこの時、日本各地は勿論、世界各国においても同時に追悼の儀が開かれるのだ。


 形式は各地の時間や文化、伝統で異なるものの、各会場に建立された慰霊の鐘は共通だった。一つ鳴らせば故人を想い、二つ鳴らせば生を喜び、三つ鳴らせば子を祝う。時刻は違えど、鐘は同時に三回鳴る。


 その瞬間は、人種、信条、対立を超えて、人間は一つになれる。金色に輝く鐘を頂く白亜の碑塔に、そんな夢を重ねても、誰も馬鹿にしないだろう。


 今日、この時は、誰もが夢想に出会うのだから。


 カーン……と、鐘が鳴る。天高くへ届くように、人々の心に染み込むように、まだ見ぬ誰かに聞かせるように、三回の清らかな祈りが捧げられた。


「それではここに、ワールドクエイクの犠牲となられた方々へ追悼の意を表するとともに、心よりご冥福を祈るために、一分間の黙祷を捧げます」


 黙祷――。


 祭で賑わっていた湾岸通が、一斉に眠ったように静まり返る。鎧塚も、衣縫も、紀鋼も、もちろん彪雅も。


 てんでんばらばらに喋り、好き勝手に動いていた人間が、一斉に黙っただけだ。たったそれだけのことなのに、なぜか彼らは全員、一人残らず絆があるように彪雅は感じた。隣で祈る友人たちも、祭客も、祭の警備も、夜店の主人も、ここに居ないどこかの誰かさえも、一体となっている。


 ただ、そこに彪雅は繋がっていない。


 彪雅は、災害当時に脳を損傷した。その影響で、それ以前の思い出がない。


 思い出せないのではなく、ない。脳細胞を半分失い、神経細胞の網が崩壊したことで、記憶が意味を保てなくなったのだと、医者は予測している。


 今でこそ、電脳化と代替脳のおかげで一定の知識や常識を補うことができた。家族や友人と自称する(・・・・)人たちの援助で、かつての自分の立ち位置を何となく理解することはできた。


 それだけだ。


 個人の伝記を読んだところで、その個人にはなれない。


 彪雅の個は死んだ。五年前に、頭を抉られて。今生きているこの人物は、黒須(くろす)彪雅の歴史資料を読んだ、同じ肉体の別人に過ぎないのだ。


(地震のことも、地震で失ったものも、本当のことは何も知らないのに、僕は、何のために、誰のために祷っているんだ……?)


 会場を包む一分間の沈黙。その時間、人々は故人と犠牲者を想うのだろう。だが、彪雅が想うのは、隣に寄り添ってくれる友人たちと、家族のことばかりで、これではまるで――。


(本当は、僕は祷られる側なのかもしれないな)


 だから、彪雅は生きている人と未来の幸を願うことにした。


「黙祷を終わります。ありがとうございました。引き続き、鎮魂の花火の打ち上げまで、今しばらくお待ちくださいませ」


 アナウンスが告げ、にわかに祭の喧騒が戻る。先程の静寂が別世界の出来事に感じる彪雅。だが、静寂の中でやけに強く感じた血潮の流れは、確かに手の中に残っていた。


「やべえ……この流れで花火とか泣きそうなんだけど」


 紀鋼が目頭を押さえている。


「底抜けにピュアね、拳志」


「だってよお、まーさんはさあ、胸ら(この)へんがエモくなんねーの?」


「言ってる意味わかんないし。ね、彪雅、刺百合」


「エモい……が何なのかよく知らないけど……まあ、何か色々考えさせられたかも」


「ほらー、ひょうちゃんもわかってっべー」


「ええー……めっちゃふんわりしてない……?」


 三人が会話に花を咲かせている最中、こっそり紀鋼の背後に回った衣縫が不意打ちの膝かっくんを見舞う。


「び、秒で、言った、雪花氷!」


「うえぇ、黙祷中はノーカンでしょ、ゆりっぺ」


「黒須君、と……席、と、取ってるから、秒で」


 衣縫はそそくさと車椅子のハンドルを手に、彪雅と観覧席へ向かう。


「じゃあ後でね拳志ー」それに鎧塚が付いて行く。


「ま、(まとい)は、紀鋼君と、一緒」


 ビシッとキレのある指差しで、鎧塚を制する衣縫。


「え、何で?」


「し、障碍者、席、……付、き添い、一人まで、だから」


 行き先の障碍者用観覧スペースは、介助者の同伴が認められている。彪雅に対して一人、衣縫。鎧塚は、自分の脚と紀鋼を交互に見比べて納得し、首肯した。


 照れ隠しの笑顔で、鎧塚が言う。


「時々、自分の脚のこと忘れちゃう。よろしい。では拳志君、この纏ちゃんに連れ添う権利を差し上げよう」


「でジマ? ちょもーテンアゲなんだけど」


「バカ言ってないで、さっさと買いに行くよ」


「ウィース」


 屋台へ向かう二人と、席へ向かう二人。二組の別れ際、ふと視線を感じ、紀鋼は首で振り向く。同じく、車椅子を押しながら、首だけを向けて二人を窺う衣縫の視線だった。


 衣縫は親指を立てている。


(け、健闘を、祈る)


(サンキュー、ゆりっぺ)


 親指を立て返す紀鋼。距離は開くばかりなのに、何故だか一瞬、お互いの声が届いた気がした二人であった。



 燃えるような夕焼け空に、薄暮の紫が滲み、広がる。薄絹でできた宵闇を一枚一枚、丹念に重ねるかの如く、徐々に深まる夜の祭場に、提灯の薄明りの和らぎが浮かび上がる。


 観覧スペースに着いた彪雅は、空に見惚れていた。


 蛍光灯に照らされているだけの病院内や、画面越しに見る学校が全てだった生活。肌で感じる空模様の移ろいと、夜空の下の灯りが、これほどまでに綺麗だとは知らなかった。


 彪雅は、頭に埋め込まれた代替脳が熱くなるのを感じていた。


 アプリを使い過ぎたり、身体を動かすのに演算を繰り返したりすると、頭に熱がよくこもった。今日の体験が刺激的で、頭が追いついていないのだろう。僅かに火照った意識が、目の前の風景を夢見心地で捉えていた。


 花火を見たら、僕はどうなってしまうんだろう。彪雅は若干の恐れを抱きつつも、大いに心を躍らせた。


「黒、須君、寒く、ない?」


「寒い?」


 衣縫に言われて、心地良く揺蕩っていた意識を束ねる彪雅。日が暮れて、確かに過ごし易い気温になった。それにしては、身体を撫でる潮風の冷たさが、夏のそれではない。


 時折、思わず身震いするほど凍えた風が吹く。


 彪雅は沖合に目を向けた。打ち上げを待つ花火の筒を並べた桟橋と船が、海面を舐めるように広がる霧に呑まれて行く。どうやら、先週から拡大を続ける霧が、とうとう港にまで到達したらしい。


「何も今日来なくても良いのに」彪雅のスピーカーから発せられる音声はいつも単調だが、それが一層、彼の抱えた口惜しさを強調する。


「あ、見て」


 衣縫に促されるまま、指差す方へ向く彪雅。霧を抜けて、光る球が空に打ち上がる。


 直後、金色の閃光が夜空を照らす。


 彪雅は目を見開いた。


 花火の打ち上げが始まった。黄金の尾を引く火花を散らす菊花火が、次々と打ち上げられ、炸裂し、夜空を彩る。遅れてやって来る破裂音が身体の底を揺るがし、迫力を伴って光の芸術が目に飛び込む。


(すごい……)


 言葉にするのも忘れてしまう。言葉にする前に消えてしまう。そんな一瞬の儚い閃光の集まりに、彪雅は目を奪われていた。


 こうなると霧も良く来てくれたと思える。霧の上部に花火の光が当たる様子が、スモークに当たる照明のようで、一つの舞台装置として花火を際立たせていた。


 色とりどりの牡丹に、千輪菊に、八重芯菊。海上の夜空全体を埋め尽くす花火の、千変万化の一枚絵が繰り広げられる。それは確かに、彪雅の記憶に残る特別な光景だった。


「衣縫さん、ありがとう」


 呼ばれて彪雅に顔を向ける衣縫。向かい合う二人の横顔は、花火が爆ぜる度にその色に染まっている。


「花火に誘ってくれなかったら、多分、病院で、いつもの生活だけだった」


 花火が打ち上がる。花火は一瞬で二人の顔を赤く染め、瞬く間に暗闇へと引き戻す。


「く、くく、黒須、君」衣縫が口をまごつかせる。「わた、私、ね……その、黒須君……」


「何?」


 じっと衣縫の目を見る彪雅。衣縫の泳ぐ目と一時、視線が合った気がした。が、衣縫はすぐさま視線を逸らし、深呼吸を数回繰り返す。


 やがて、何か決意を持った顔を向けて、真剣な眼差しで彪雅に告げた。


「私、黒須君のこと……」


 続く言葉が、無数の花火の炸裂に掻き消される。


 不服そうに、恥ずかしそうに、衣縫は花火の打ち上げ台の方を睨んだ。夜空に途切れることなく咲き誇る火の花畑。その光はまるで夜明けを迎えたようで――。


 衣縫が眉を顰める。


 怪訝に思った彪雅が目を花火の方へ戻す。


(何だ、あれ……)


 日没の再来のような閃光が瞳に飛び込んだ。


 花火が地上で、船上で爆発している。


 爆発は次の爆発へ連鎖する。地上に用意された何千発もの花火が、地上で半球状に開花。空中ではすぐに消えるはずの爆炎が渦巻き、風に流されるはずの煙がもうもうと立ち昇り、破壊の大火に変じていた。


 人の手を離れて暴走する花火。打ち上げ場から不意に射出された何発かが、遊覧船に直撃した。煙を上げて炎上する船から、燃え盛る何者かが、もがき、甲板から海へ落ちて行った。


 人々が騒然とし、どよめきと叫喚は会場に伝播する。それでも、どこか非現実的な光景を前に、携帯通話機のカメラを構えて傍観する観客たち。が、日和見る余裕などとうにないと知る。


 観客席前方、彪雅たちから少し離れた海岸沿いが、にわかに騒ぐ。切迫する声々が指すのは、空より降りかかる巨大な火炎球。炎上し、操縦不能となったヘリコプターだ。大火に炙られ一層深まった闇夜に火の尾を引き、剥がれた部品とともに観客席目がけて迫る。そして――


 激突。ヘリは地面を穿ち、削り、墜落の勢いのまま横転する。機体は煙を上げながら逃げ遅れた人々を次々と薙ぎ倒し、折れた回転翼が更なる獲物を求める刃へと変じ、無軌道に人々を斬りつけた。


 肌に迫る炎の熱と、黒煙の焦げ臭さ。カメラの画面越しだった映像が、観客たちの目前に顕現する。


 悲鳴を皮切りに、恐れに中てられ逃げ惑う人々。


 花火の発射場から三尺玉の爆発が起こる度、悲鳴は更に人々へと伝染し、逃げる背中を突き飛ばさんばかりの力で押した。


 この惨状の中にあって衣縫は、事故の惨状と混乱に呑まれて、身体がすくんでいた。


「衣縫さん、ここは危ない。慌てず、早く逃げよう。車椅子を押して。僕は二人に連絡する」


 彪雅の声に衣縫は我を取り戻し、頷く。小さな体で彪雅の車椅子を押して、元来た道へ駆けて行く。移動を完全に任せた彪雅はメッセージアプリを起動し、別行動中の紀鋼と連絡を試みた。


 通話が繋がる。


「ひょうちゃん、無事か!?」


「僕も衣縫さんも大丈夫。花火が暴発してる。とりあえず会場から離れた方が良い」


「ゆりっぺ一人に車椅子は厳しいだろ! すぐに行く!」


「混乱が酷くて合流は無理だ。駅前で落ち合おう」


「……わかった。まーさんは任せてくれ。必ず駅前に来いよ」


「うん。紀鋼君、また後で」


「ああ、無理すんじゃねえぞ」


 通話を終える。通話機(ペンフォン)のシート状液晶を筒状の本体に収納し、紀鋼は胸ポケットに仕舞う。紀鋼と鎧塚は屋台で四人分の雪花氷を受け取ったところだった。


 避難する人々で溢れる湾岸通。混雑が災いして、人の流れに逆らって移動するのは困難だった。


「二人だけで、大丈夫なの?」


 鎧塚が彪雅と衣縫の安否を気にかけている。


「……心配要らねえみてえだ。俺たちも行こう。それは置いてけ」


「うん……」


 無人の屋台に雪花氷を置き、避難の列に加わる二人。暴発した花火の話題で持ちきりの群衆の流れに身を任せ、残る二人の無事を祈りながら歩みを進める。


 ふと、鎧塚は燃え盛る海の打ち上げ場の光景を目にした。


「鳥が……」


 鳥の群れが飛んでいる。火中に身を投げ、炎を浴びるようにして羽ばたく無数の鳥の影が、火炎に照らされて夜の帳に浮かび上がっている。その数が次第に増えるに従って、火災はその勢いを弱めていった。


「火を食ってる……?」


 やがて先程まで燃え盛っていた炎は、白煙を残し、急速に鎮まっていった。鳥の群れが次に向かう先は、炎上した遊覧船と、ヘリコプターの墜落した地点であった。



 目撃者(おかまつ)は語る。


 鬼とは、凍てつく身体を持ち、存在するだけで周囲を冬のように変える化け物だと。



 火の手が弱まり、避難者が落ち着き始めた頃だった。 


「うわああああああああああああああああああ!!」


「きゃああああああああああああああああああ!!」


 彪雅と衣縫の後方から悲鳴が響く。


「何だあれは!」


「ばっ、ばけっ、化け物おおおおおおおおおおお!!」


 悲鳴に気付いた者から振り返る。彪雅と衣縫も、何事かと警戒した。


 最後尾から誘導を無視して押し寄せる群衆の波だ。狂乱に陥った人々が、誘導を無視して、我先に、他を蹴落としてでも前に進もうと荒れ狂う集団が、その数を増してゆく。


(何だ……今度は何が起こっているんだ)


 車椅子の低い視点から、全貌の把握は困難だ。ただ、走り行く人々の顔が語る恐怖と、口々に絶叫する「化け物」「怪物」「怪人」の情報が彪雅の中に蓄積し、彼の中で危機が肥大化していった。


「衣縫さん、何か見える!?」


 衣縫は首を振る。彼女も背が低い。何も見えていないのだろうと思った彪雅は、すぐさまそれが思い違いだと知った。


 衣縫が青ざめている。


 その瞳が捉えたのは、血飛沫と、血に塗れた結晶の爪。その凶器が振るわれる度に、後方から断末魔の悲鳴が上がる。


 衣縫は、恐怖に呑まれ、震えていたのだ。


 彪雅は必死に衣縫に呼びかけるが、電子音声の真に欠ける言葉は観衆の絶叫に掻き消され、今の彼女の耳に届かない。


 人波に揉まれ、衣縫は姿勢を保てなくなる。押すことも引くこともできず、逃げ狂う祭客を見送るばかり。次第に空を割く悲鳴は近くなり、二人の目前にまで迫って来た。


衣縫さん(いにーあー)!」


 素っ頓狂な声が、衣縫を正気に戻す。久しぶりに耳にした、彪雅の声。意を決して発した、彼の嫌う声だった。


逃げて(いえげ)!」


 彪雅の目を見据える衣縫は、覚悟を決めて頷く。慣れぬ雪駄で、しかも車椅子に乗った高校生を押して逃げる。困難だが、衣縫がやり遂げなければならない。彪雅の脚は、今、彼女の脚なのだから。


 しかし――。


「きゃっ!?」


 突如、後方から逃げ来る人々のドミノ倒し。二人は集団転倒に巻き込まれ、人混みに埋もれてしまった。



 生存者(おかまつ)は語る。


 鬼に傷を負わされた者は、新たな鬼になると。



 砂だらけになったリンゴ飴が地面に転がっている。


「いたた……く、く、黒須、く、ん……?」


 ドミノ倒しから逃れた人々は既に遥か遠くに逃げおおせており、何とか起き上がった人々がその後を追い駆けている。


 転倒した衣縫が彪雅の姿を探す。彼は倒れた車椅子の向こうで、姿勢を変えることもままならず、倒れっぱなしの姿で呻いていた。


「ま、待ってて……今、度は……私が……っ!?」


 覆い被さる人間の下から這い出ようとする衣縫。後は足首を引き抜くだけになったその時――。


「ま、待って、助けて、助けてくれ……っ!」


 上に覆い被さっていた男が、衣縫の足首を掴む。苦悶の表情で救いの手を求める男の背には、水晶の原石のような結晶が生えている。


 その結晶は、ひび割れる音を鳴らし、崩壊と再生を繰り返しながら男の背肉を無慈悲に切り刻む。内部から押し広げられた衣服は無残にもズタズタのボロ布と化し、結晶は全身を覆い尽くさんと侵食していた。


「お願い、助け……」


「きゃあああああああああああああああああ!!」


 衣縫は叫んだ。掴まれていない方の脚で男の手を何度も蹴り、束縛が緩んだ瞬間を見計らって足首を引き抜いた。男の手に残されたのは、赤い鼻緒の雪駄一つだけだった。


「ああ……そんな、そんな……痛い……ずる、い……」


 衣縫を見つめたまま、男の肉体が結晶に呑み込まれる。最期に絞られた呪詛の如き一言が、衣縫の耳に重く圧し掛かった。


 はだけた浴衣を直す余裕もなく放心する衣縫の注意は、一点に向いていた。先刻まで人であった結晶の絨毯の上を、足場を確かめながら進む音が聞こえる。結晶同士が擦れ、石英の欠片を作り出すような足音は、真っ直ぐ衣縫の目前に迫っていた。


「――!!」


 それは、人の形をしていた。


 全身を水晶のクラスターかの如き外殻で覆う異形の者。目らしきものは結晶の奥にギラギラとした光を湛えて少女を捉え、口は歯が剥き出しで、髑髏のようだった。爪は長く鋭く、犠牲者の血が薄っすらと凍りついている。その化け物は、異様なまでの冷気を放ち、夏の空気を一瞬で秋の肌寒さにまで貶めていた。


 腰を抜かしながら、衣縫は本能的に後ずさる。彼女は死を直感していた。逃げられない。助からない。だが、命は惜しい。誰か――。


 トン、と、背中に何かか当たる。振り返らなくてもわかる。彪雅の車椅子だ。


 その先には、大切な人が倒れている。


 微かに、衣縫の内に眠る本心と願望が彼女を奮い立たせた。彼の乗っていた車椅子が、背中を押してくれたような気がした。


 震える身体を制して、立ち上がる衣縫。怖くて怖くて今にも逃げ出したい気持ちが逸る。だが、彪雅を見捨てたりはしない。絶対に、そう誓ったのだから。


 ここから一歩も動かない。


 両手を広げ、結晶の怪物の前に立ちはだかる衣縫。奇跡でも起きない限り、彪雅も助かる見込みは限りなく薄いだろう。だが、衣縫には他に賭けられるものを何も持ち合わせていない。運否天賦――ただそれだけが彪雅を生かしてくれるようにと願い――。


「誰か! 誰か! 人がいます! 人がいます!」


 一生分の声を使い切っても構わない……血を吐くような喚呼を繰り返す。これが、彼女に残された精一杯。


 だが、願いは空しく、誰の耳にも届かない。


「誰か、お願いしま――!!」


 遠くで、風を切るジェット音が聞こえた。


 それは、怪物の背後の夜空を滑空する飛行機のジェット音。だが、飛行機は飛んでいるのではない。エンジンから火を噴き、徐々に高度を落としている。進路上には高層ビルがある。が、飛行機は避ける素振りすら見せず、さも当たり前と言わんばかりに衝突、爆炎を上げた。


 逆光で怪物のシルエットが浮かぶ。結晶を通った光は屈折、分散し、後光として怪物の存在の何たるかを語る。


 もはや、人に成す術などないのだ、と。


 結晶の魔の手が振り上げられる。


 衣縫は口元をきゅっと結び、怪物と相対する。


 あの手が振り下ろされる瞬間まで、私は黒須君のために声を上げる。不動不屈の覚悟が彼女を突き動かしていた。


 そして凶爪は、無慈悲に振り下ろされる。



 発見者(おかまつ)は語る。


 早く手を打たねば、手遅れになると。



「え……?」


 爪で切り裂かれたのは、彪雅だった。


 彪雅が衣縫の前に立ち、怪物の爪をその身に受けていた。


 左肩から袈裟斬りに、胸を深く抉られる彪雅。骨ごと断ち切られた傷口からは大量の血が噴出し、一瞬で結晶化して彼の身体を蝕み始める。


(こんなに動くんなら、もっと早く動いてくれよ)


 地面に崩れ落ちながら、彪雅はそんなことを思っていた。


 自分を庇って化け物を止めようとする衣縫を見て、彪雅は抑えきれない衝動に駆られた。生き残るべきは衣縫だと。自分はとっくに亡霊になっているのだから、彼女を助けたいと。


 その瞬間、カチリと、己の中に欠けたピースがはまったような感覚。


 気付けば衣縫の前に躍り出て、彼女の身代わりになっていた。


 日々のリハビリの賜物だろうか。それとも、火事場の何とやらか。危機的状況を前に身体のリミッターが外れただけかもしれない。


 いずれにせよ、これで良かった。


 事故後に目覚めてから何年だったか、望んだところで何もできなかった自分が、最期の最期に、助けたいと思った女の子の身代わりになって逝く。まるで、テレビのヒーローみたいじゃないか。


 眼前に広がる空がやけに明るく感じる。輝ける貝紫の空。極上の景色を眺めながら、地面に沈むような、波間に揺蕩うような、浮遊にも感じる不思議な感覚に包まれる。それは、まどろみに似た安心に満ちた時間であった。


 だから、衣縫さん。泣かないで。


 僕はもう満足したから、後は、君が逃げてくれればそれで良い。


 だから、僕を抱きしめちゃダメだ。


 二人は、一体どれだけの時間、そうして過ごしていただろうか。意味もわからぬまま、怪物に襲われて、命を落とすまでの、僅かな時。それは、衣縫を案じる彪雅にとって、どうあっても永遠の如き時間であった。


 遠くで、彪雅の名前を呼ぶ声が繰り返される。柔らかな抱擁は硬い結晶に置き換わり、やがて彪雅は、冷たい結晶の棺の中で、暗く、途切れた。

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