002:夏の夕暮れに友と逸る時
第七天頂丸の行方不明から三日目。
一六日より発生した霧が人目を阻む、天平湾海上。
五年前を境にした気象変動から、不規則に発生する霧。忌島が出現した地域では珍しくない現象なのだが、ここ数日の霧は異常だった。
夏の天平湾の霧は、太平洋から暖かく湿った空気が流れ込んだ際に生じる。その空気の湿度や温度などにもよるが、通常なら長くても四半日ほど経てばすっかり晴れる、小規模な気象現象である。
ところが、霧は明けるどころか厚みを増している。
救難艇を駆る海上保安官らの胸中に焦りが燻った。
通常の捜索と比べて困難が伴うものの、例外的に長期発生する霧はまだ想定内だ。
海霧発生時の対応マニュアルによれば、赤外線カメラを搭載したドローン複数機を用いて視界を保ちつつ、広範囲、多方面に渡る捜索を推奨されている。この方法に第七天頂丸の信号の発信記録を照らし合わせることで、早期の発見、救助が見込めるはずだった。
しかし、予期せぬ事態が発生する。
海域を飛行するドローンの内、数機の交信が次々と途絶えたのである。
救難艇の操舵室の空気が張り詰める。その一角に設けられたドローンの操縦ブースでは、海を映したモニターの一つから映像が途切れ、画面が黒一色に沈む。
一機目の際はドローンの不具合かと思われた。だが、それが二機目、三機目と数が増えるにつれて、海上保安官は認識を改める。
何かがおかしい。
交信途絶直前の映像記録を再生する。早戻しと再生を繰り返し各機の映像を確認すると、どの機体にも共通する状況が読み取れた。
上空から降下する何かがドローンに直撃している。
「妙だな」
ドローンの操縦士が呟く。
状況から考えられる可能性として、鳥との衝突が挙がる。ただし、無音仕様でないドローンと鳥の不意の衝突事故は滅多に起こることではない。それも、上空から狙いすましたかのようにともなると猶更である。
以上を踏まえ、何回も連続して起こるとするならば、狩りか威嚇行為としての襲撃だろうか。だが、ドローン対策の訓練を受けたワシでもない限り、襲われるという事態も稀だった。
何よりも腑に落ちないことは――。
「落下する前に、映像が途絶えている……?」
通常、何らかの原因でコントロールを失っただけなら、ドローンは海面への落下まで映像を残しているはずである。にもかかわらず、映像は空中で断たれている。
これではまるで、空中で破壊されたかのようではないか。
何者かによる意志を感じる。少なくとも鳥にできる芸当ではない。とすれば、犯人は人間か。人間ならば目的とメリットは? ドローンを破壊した方法は何なのだろうか?
「一体、霧の向こうで何が起こっているんだ」
不可解な状況を前に、操縦士は残ったドローンで捜索を続けるしかなかった。
その時、甲板で目視の捜索に当たっている保安官から無線が入る。
「こちら船首。一一時の方向に漂流者を発見。救助に向かいたい。指示を請う。どうぞ」
救難艇から下ろしたゴムボートが、漂流する人物の元へ急ぐ。
救助隊員によって引き上げられたのは男性だった。外見から五十代前後と思われる。浮輪と、縄で連なった浮に身を乗せて漂っていた。できるだけ水に浸からないように浮力を確保していたのだろう。
しかし、夏の海でも二〇度を超える程度である。体温が著しく下がっており、危険な状態であった。
「天頂丸の乗組員の方ですか!?」
男性の身体を叩きながら、続けざまに救助隊員が名前、生年月日を尋ねる。
「…………に、……に……」
「意識に混濁が見られる。急いで搬送を」
濡れた衣服を脱がし、隊員は温めたタオルを男性の手足と首元に当てる。その上から断熱シートで包み、男性の体温の回復を促す。
「お…………、に……」
「ええ、もう少しの辛抱です! 頑張ってください!」
隊員が男性の声に応え、声をかけ続ける。生きようとする意識に対して刺激を送り続け、命を繋ぐ言葉を投げ続ける。助けたいという気持ちが、現場を動かしていた。
そう、誰もが誰もを助けたかったのだ。
男性までもが、隊員たちを。
うわ言で繰り返される「鬼」の言葉は意味を成さず、隊員たちの声に掻き消され、波に揉まれて水底へ沈んでいった。
◆
七月二五日、鎮魂祭当日の夕方。西に日が沈み、天平湾にそびえる忌島は霧に煙っている。
鎮魂祭の開催地、湾岸通は人々で賑わっていた。
祭囃子の笛の音がどこか遠くのスピーカーから流れるのが寂しげで、提灯がほんのりと道を照らす黄昏時。活気と哀愁が同居する港町を彩るは、定番から変わり種まで、多種多様な屋台である。
これでもワールドクエイクで亡くなった人々の慰霊の祭典だ。普通の祭りは違う。より厳粛に、慈しむ心で臨むべき場にしては軽率に過ぎるかもしれないが、災害の記憶を語り継ぐためには人が集まり続けなければならないという考えに基づき、元より古くからこの時期に催されていた天平祭と習合して、天平市の鎮魂祭は今の形となったという。
肌がピリピリとする感覚に、彪雅は柄にもなく高揚していた。
病院内はもとより、ロボット越しに見る景色ともまるで違う。目で見て、耳で聞き、肌で触れ、鼻で嗅ぎ、舌で味わう。五感をこのようにブツ切りで説明した人間は、一体全体、世界の何を体感していたのだろうか。彪雅にはまるで、鎮魂祭のパノラマが四方八方から全身へ降り注ぐように感じているのに。
人混みの中、母に車椅子を押してもらう彪雅。待ち合わせ場所の天平港駅前の時計台広場に到着し、友人の姿を探す。
「彪雅ー、こっちこっちー」
呼びかけられて振り向くと、鎧塚が手を振っていた。
白のタンクトップの上に着崩した烏羽色の甚平は、サイズからしてメンズ物だろうか。布と布の隙間から、陸上の日焼け跡が覗いている。義足の外装はチェリー色の塗装で、モダントライバル柄の透かし彫りを施していた。
日頃見慣れた制服姿以外の友達の姿は、新鮮さに溢れている。
文章読み上げアプリを起動させ、鎧塚に声をかける彪雅。
「鎧塚さん、先週振り」
「うん、先週振り。どうかな、この恰好。変じゃないかな?」
「良く似合ってるよ。甚平の着こなしが恰好可愛い」
鎧塚が甚平の袖を掴み、容姿をチェックするかのようにヒラヒラと振った。続いて足元に目線を送り、義足の履き心地を確かめるように踵を鳴らす。何か考え込んでいる様子だったが、おもむろに顔を上げ、照れくさそうに「良かった」と、安堵のため息交じりに微笑んだ。
「あ、すみません。ご挨拶が遅れました。黒須君のお母さん、ご無沙汰しています」
「こんばんは。いつも彪雅がお世話になって。……ひょっとして纏ちゃん? しばらく見ないうちに可愛くなったわねえ」
「いやー、あはは、それほどでも」
「一人だけ? 他のお友達は? あ、わかった。本当は二人でデートなんじゃないの?」
「ぶっ!?」
思わぬ不意打ちに咳き込む彪雅と鎧塚。
「で、ででっ、でーとデートだなんてそそそそんなあははは」
「母さん本当にいい加減にしてくれよ?」
「あら、ごめんなさいね」
母は悪びれる様子もなく、むしろ楽しませてもらったと言わんばかりに満足げに謝った。
「それで実際、他の子達は?」
「……オホン、まだ来ていないんです。ひょっとしたら遅れるかもって」
「あらあら。そうよね、この混雑だもの。……それじゃあ、水を差すのも悪いわね。他の子が来るまで彪雅を任せちゃって大丈夫? 纏ちゃん」
「はい。お任せください」
にっこりと白い歯を見せて、笑顔で応える鎧塚。彪雅の母は、何かあったら連絡するように彪雅に言い聞かせた後、折角なら祭を堪能しようと、屋台の並ぶ雑踏へ消えて行った。
「……よし」彪雅の母が去ったのを確認し、鎧塚は時計台の裏側へ向かう。「二人とも、もう良いよ」
時計台の陰から、紀鋼と衣縫がひょっこり顔を出す。紀鋼は牛串焼きを、衣縫はリンゴ飴を頬張っていた。
「ウィッス、サンキューまーさん」
「うぃー……っしゅ」
紀鋼はシャツにデニムのハーフパンツのラフスタイル。カンカン帽に愛用のサングラスを乗せている。
対して衣縫はがらりと印象を変えている。普段の物憂げな様子から転じて、かんざしで長髪をお団子にまとめ、しっかりと着つけたスイセン柄の浴衣がいかにも涼し気な雰囲気を醸し出していた。金魚と水の波紋をあしらった小さな巾着袋のアクセントが、ひっそりと良い仕事をしている。
「二人とも、隠れることなんてないのに」
彪雅がスピーカーを通して言った。紀鋼がうなじを掻いて、バツが悪そうに答える。
「そりゃー、だって、俺なんかと一緒に居るトコ見たら親御さん、心配すっぺ?」
その横で、衣縫は口元をリンゴ飴で隠し、何となくバツの悪そうな素振りを見せていた。
紀鋼に関しては、学校での話が親の耳にも届いていることだろう。普段から付き合いのある彪雅らからしてみれば、決して紀鋼は悪人でない。しかし、そんな事情など保護者には無関係だ。紀鋼の心配はもっともだった。
衣縫まで隠れていたのは全く意味がわからないが。
「何でも良いけどさ」鎧塚が三人の目を集める。「そろそろ行かないと、良い場所埋まっちゃうよ」
夕空に乾いた破裂音が続けざまに響いた。花火の打ち上げ時間にはまだ早い。試し打ちだろう。
「ほら、急ぐ」
「おっと、こりゃやべえ」
紀鋼が残りの牛串を瞬く間に腹へ収め、串を近くの仮設ゴミ箱に捨てた。指の関節を鳴らし、彪雅の車椅子のハンドルを握る。進路は湾岸通。
「急がば回ってできれば走れってな。行くぜ、ひょうちゃん」
彪雅の返答を待たず、紀鋼が車椅子を押して行く。決して急がず、しかし走るような速度で、人の少ない裏道を通る。やや荒い運転に最初は仰天した彪雅だが、次第に風切るスリルを享受してゆく。
「あー、もう、刺百合は雪駄なのに……。拳志、待ちなさいよ! 行こ、刺百合」
衣縫の手を引き、鎧塚は速足で男二人を追いかける。考えなしの暴走に呆れながらも、童心に還ったようで悪い気分ではない。
彼らの夏が待つ海岸は、すぐそこに待っていた。
◆
岡松重里は、いつの間にかベッドに横たわっていた。
規則的な音を刻む心電計に、カテーテルに繋がった点滴。意識を取り戻してからしばらく、明確なヒントを前にしながら状況を呑み込めずにいたが、どうやらここは病院のようだと思い至る。
靄のかかった意識に発破をかけ、起き上がろうとする。しかし、身体が思ったように動かない。意識だけでなく、身体の感覚までもがぼんやりとしていた。
「横になっててください」
不意に声がした方向へ目を向けると、そこには白衣の男が立っていた。手にしたカルテに何かを書き込んでいる――医者だ。
「ご自身の名前は言えますか。生年月日と、ここがどこだかわかりますか」
事務的な質問をする医者。もっと他に言うべきことがあるだろうと岡松は思ったが、感情がまとまる前に霧散し、悪態を吐く気が失せる。
それに、もっと他に言うべきことがあるのは、岡松も同じであった。
岡松は天井を眺めていた。どれほどの時間が経ったのかわからない。ただ、医者は岡松の言葉を促すこともなく、黙って言葉を待っていた。
「鬼、だ……」
「何です?」
「鬼、出て、船のモン、襲いよった」
「鬼……それは、どのような?」
驚いて見せる場面なのだろう。医者が患者の妄言めいた話に、真面目に向き合っている。しかし、岡松の意識はその驚きをすくい取れない。ただ、語るべきことを語る装置として、船で見た物のことをぽつり、ぽつりと語り始める。