001:過ぎ去りし彼の日常生活
史上初の恒星間移民船が地球を離れてから約半世紀、一光年の距離を航行した時代をニュースが告げている。
黒須彪雅は、そこからマイナス一光年にある、船員らの母星に居た。
彼の目に映る場所は日本国内、近畿地方のとある高校、夏休み前に特有の高揚感で賑わうが、いささか静かに過ぎるとも感じられる教室だ。
終業式後にクラス会が開かれた。担任が夏休みの注意事項を生徒に告げているのだが、真面目で通っている者以外は誰も耳を貸しておらず、大多数は席の隣やら前後やらで夏休みの予定を語らう無秩序の様相を呈していた。
やっぱ海は外せないわ。白浜で海水浴に行こうよ。そういや最近、海で新種の生き物が山ほど見つかってるってな。マジか、見つけたら有名人じゃん。うちは家族とハワイ旅行、お土産期待しといて。金ねーけどデケえ思い出作りたいじゃん。結論、自転車で日本一周だべ。いやー、夏の日差しに身を投じるとかもうまぢ無理、徹夜でゲーム三昧しよ……。
それぞれが思い描く休暇の過ごし方を語らうだけでも心が躍るのは想像に難くない。
逆に黙って担任の話を聞いているように見える生徒には、そのような予定がないのかもしれない。
夏も休みも関係ない彪雅も例外ではない。話が身になる、ならない以前に、聞く気が起きないのだ。そもそも、担任の説明をこっそり録音しておいて、後で再生すれば事足りるのだから、尚更聞く耳を立てる気力すら湧かない。
彼は、冗長でありきたりな説明に暇を持て余していた。そこで、担任を視界の端に追いやり、暇つぶしにネットサーフィンに興じていたところ。
先の移民船のニュースを知ることとなる。
方舟と名付けられたその宇宙船は、エネルギー技術の飛躍を端に発する、多数の新発明の開発を経て誕生した、最新科学の結晶である。
厳格な基準と、厳正な試験を経て選出された人類の代表――その数、十万名、それに百万名と百万種分の遺伝子情報を乗せ、未開の宇宙を切り開く。
地球を離れて新天地を求めるその姿は、誰の目にも雄大に映り、彪雅にとってはどことなく自由で、羨ましく、酷く眩しいものだった。
同じく科学の恩恵に与っている身の上として、彼らの相対距離以上の差を感じるほどに。
「えー、ひとまず以上ですが、最後に、黒須君……」突然、担任に苗字を呼ばれ、若干硬直した心地になる彪雅。不要な心配なのだが、彼は条件反射的にネットブラウザを閉じた。「……の遠隔操作機器一式ですが、長期休暇中は頸承塾病院に一時返却するとのことで、もうそろそろ運送業者の方がご来校される時間です」
担任の説明が進むにつれ、教室の喧騒が若干トーンが下がる。ちらちらと彪雅に向けられる視線には、そこそこの月日を共に過ごした仲ながら残っている奇異や、得心いったという満足感が込められていた。
今更、どうこう思うことはなかった。いや、彪雅自身、何かしら思っているのだろうが、苦い思いをするならいっそ認識に至らないように感情を鈍く調整しているのだと自覚していた。
「ただ、私はこの後、教員会議を控えてますので、誰か黒須君のお手伝いと、業者の方のお迎えをお願いできますか?」
担任の募集を受けて、彪雅の前の席の女子がおずおずと手を挙げようとした瞬間、「あ、はいはーい。アタシ行きまーす」と、その右隣りの快活な女子が、起立と挙手で立候補する。
「鎧塚さん? ですが、あなたは……」
「あ、それと」担任の懸念を遮る鎧塚。
隣でおずおずしていた女子は肩を落としていた。だが唐突に、下げかけた腕をひょいと持ち上げられる。
「アタシ一人だと大変なんで、刺百合も一緒でいいですか」
先に立候補した女子に誘われて驚いたらしく、刺百合と呼ばれた少女は長い黒髪の先を梳かす仕草で照れを隠した。
一方、担任は腕を組んで悩まし気に独りごちる。
「いや、そういうことではなく……。うーん、しかし、二人……か」
担任が気にかけているのはきっと、あのことだろう。むしろ鎧塚は他人を気にかける前に、人の手を借りるべきだと彪雅は思った。
しかし、当の鎧塚の思惑は、鎧塚自身の事情とは全く関係のないところにあった。
「大丈夫ですって先生。刺百合もいいって言ってますし」
あっけらかんと言ってのける鎧塚に、刺百合と呼ばれた女子は目を丸くした。が、笑顔のウインクで合図を送る鎧塚を目にした後、すぐさま担任に向かってぶんぶんと首肯した。
要は、積極性に欠ける彼女の中継ぎ。鎧塚なりの計らいだった。
「いえ、ん? うーん……」平然と論点をすり替えられたことに混乱したのか、担任が言い淀む。だが。「まあ、わかりました。では、鎧塚さんと衣縫さん、よろしいですか」
「はーい」
鎧塚纏の声は良く通る。小気味良い返事を受けて心配の抜けた担任は軽く頷き、全員の起立と礼でクラス会を閉めた。
「それじゃ、行こっか、彪雅」
振り返り、見下ろしてくる鎧塚に、彪雅が尋ねる。
「先生も言っていたけど、鎧塚さん、本当に大丈夫?」
「大ァーイ丈夫だってー」喰い気味に僕の言葉を掻き消す鎧塚。「階段とかは刺百合に任せるし、万事問題なし!」
教室の人影がまばらになる中、鎧塚が僕に手を差し伸べる。「ほら、刺百合はこっち」と、彼女を僕の左側に誘う。衣縫刺百合は恥ずかしそうに、僕へ手を差し伸べた。
「ありがとう、二人とも」
抑揚のない電子音声で応え、僕は左右の機械の腕を差し出し、二人の手を取った。
黒須彪雅の学校での姿は、いわば遠隔操作ロボットである。
頭は球状のライブカメラ、喉はスピーカー、両腕を機械に、両足を階段昇降に対応する車輪に置き換えた、CPU制御の仮初の身体だ。本物の黒須彪雅は、病院のベッドからネット経由でこれを操縦している。
頸承塾病院のリハビリの一環で、通学・通勤が困難な者に貸し出される機械。これのおかげで彪雅は、この高校生活一年三ヵ月の間、一定水準の学校生活を送ることができている。
が、先程のクラス会でも感じた視線……異物を奇異の目で捉える日本人の気質の前には、決して人の生活に交わることはないのだとも思い知らされるばかりだった。
それでも、鎧塚や衣縫のように手を貸してくれる人もいる。救われる思いだった。
「さてさて、彪雅くん」教室を出て廊下を移動する途中、鎧塚が口を開く。「病院にロボットを返すのって、少し待ってもらえそう?」
「……久し振りに、いつもの?」
「その通り」
鎧塚はカツンと踵を鳴らして振り返り、合成音声を発した彪雅ロボの前に立つ。そして彼女は、自慢げに肩掛けカバンの中身を見せた。
「競技用に新調したので、タイムアタックに挑戦したいのです」
鎧塚纏の両足は、太ももから先が義足である。
何気ない動作の一つを取っても、ハンディキャップを感じさせない自然な脚運び。一度競技用義足を履けばトップアスリートに迫る走力を誇り、次世代のパラリンピック日本陸上代表として期待された新星だ。陸上部のトレーニングで搾り上げ、日焼けした肉体と、ベリーショートの黒髪が合わさって、非常に健康的な印象を放っていた。
そんな彼女だが、しばしば(時には強情に)彪雅を部活へ誘う。彼の操作するロボットには撮影機能があるため、タイム計測と走行中の姿勢の確認に役立つのだと言う。
しかし、知り合いのラップタイムを計測したいから、などという私情で、病院、運送業者側の予定を狂わせるのは如何なものかと思う彪雅なのだが。
「……いけるかどうかはわからないけど、とりあえず病院の先生に聞いてみる」
渋ったところで押し負けるのは毎度のこと。根負けした彪雅は、担当医の内藤先生宛に事情を綴ったメールを送信した。
「やたっ、ありがと!」
鎧塚は嬉しそうにロボットに抱き着いた。その勢いで、ライブカメラの映像が若干乱れる。映像が彪雅の視覚に直結しているせいで、彼は頭を揺さぶられた時と同じ吐気を覚える。
「鎧塚さん、壊れるからもっと大事に」
「むう、貴重な女子高生のハグなんだから、もっと喜んでよ」
「……自分で貴重なんて言ったら世話ない」
「JKニウムは必須栄養素なんだよ?」
「聞いたことない。あったとしてもネット越しに摂取できない」
突き放すような感想しか寄越さない彪雅に、鎧塚は不服そうに引き下がった。生身で体験していれば彼女の言うとおり喜んでいたかもしれないが。
「それはそれとして、アタシのことは纏ちゃんと呼びなさい」
「気が向いたら」
箸にも棒にもかからない彪雅に業を煮やした鎧塚は、衣縫に泣きついた。
「刺百合~、彪雅が冷たいよ~。おろろろ」
衣縫は困りながらも仕方がないと言いたげな様子で、自身より背の高い鎧塚の頭を胸に抱え、子供をあやすように背中をポンポンと叩いた。
「……困らせるの、ダメ」
隙間風と聞き間違えてもおかしくない、消え入りそうな声で衣縫が言った。
「そうよそうよ! 言ってやってよ!」
「……黒須君、を」
「って、アタシに言ってたんかーい!?」
喜劇調にズッコケる鎧塚をあしらい、代わって衣縫が彪雅の前に立つ。
「……あ、の、その、ごめん、ね」
心細さを込めて、黒真珠のような瞳がライブカメラを覗く。
鎧塚纏が光だとすれば、衣縫刺百合は影だ。
口数の少ない少女で、日に当たれば消えてしまいそうな透き通った白雪の肌に、血管が薄っすらと青く浮かんでいる。漆塗りのように艶めく長髪を切り揃えた姿は精巧な人形を思わせた。
驚愕的に純真で、今のように、冗談やお決まりの類を真に受けてしまう。
「大丈夫。何とも思ってない」
「せめて面白おかしく思っといて?」
不可解なことで嘆く鎧塚をよそに、衣縫は少しだけ安堵した様子で、それでもやや困ったまま、笑顔を向けた。
しかし、それも束の間、衣縫はきゅっと口元を結び、彪雅の後ろを睨むように視線を向ける。
不思議に思った彪雅は、ライブカメラを真後ろに回転させた。つられて鎧塚も振り返る。三人の目は、廊下の向こう側から真っ直ぐこちらへ歩いてくる男子生徒を捉え、凝視する。
男子生徒は三人。全員こちらを睨んでいる。先頭のヒョロガリは鼻背と顔の左側――こめかみから頬にかけて腫れていて、分厚いガーゼを貼った痛々しい姿だ。
「……」
先頭のヒョロガリが剣幕を深め、何やら呟く。鎧塚、と苦々しく吐き捨てたように彪雅には見えた。
ヒョロガリは彪雅たち――特に鎧塚とは因縁がある。一応は清算された体ではあるが、担任が未だに懸念を抱き続けている程度に、生易しい問題ではない。
後の二人は初めて見る顔だが、大方ヒョロガリの取り巻きなのだろう。無駄に良いガタイで、威圧を込めて三人を品定めするように眺めていた。
両者の距離が縮まる。
「鎧塚さん、行こう」
鎧塚は振り返らない。彼らに釘付けになっている。一刻も早くこの場を離れた方が良い。
担任は既に教室を出て、近くにいない。
彪雅は視線を逸らさず、ロボットを|後退≪前進≫させ、鎧塚の前へ立ち、彼らの前に立ち塞がった。
「衣縫さん、鎧塚さんを先生のいる所へ」
「えっ、あ、あの」
「早く」
「は、はい!」
衣縫が鎧塚の名前を呼び手を引くが、鎧塚は一歩も動かず、ヒョロガリを凝視している。身体が緊張で強張っている鎧塚を強引に連れようにも、衣縫の膂力では役者不足だった。
対して衣縫からしてみれば、安定した体幹を持っていても、彼女は義足だ。無理に手を引いては倒れてしまうかもしれない。その誤解と、元来持つ穏やかな気性が、衣縫の全力を阻害している。
「無理に倒してもいいから!」
などとは彪雅には言えない。周囲の注目が集まれば、向こうが何を考えているにせよ手出しし難くなる。が、自分でやるならまだしも、衣縫に責任を擦りつける頼みなどあり得ない。
加えて、人目につく場所で、ロボットを使って騒ぎを起こしてしまっては、彼一人で背負える問題ではなくなる。
彪雅の思考は巡る。されど解決の糸口すら掴めない。
一歩ずつ、僕らの距離が縮まる。
接触は避けられない。
手立てがない。
彼がいれば。
メッセージ。
時間。
考えるばかりで、彪雅はそれ以上、ロボットを操作できなかった。進路上の車止めでも避けるように、向こうの三人はロボットの脇を通り過ぎる。
「鷹莱、もう話はついただろう!」
スピーカーのボリュームを上げて音声を飛ばしても、ヒョロガリの鷹莱たちは意に介さない。下校中の生徒たちが何事かと伺う視線を向けたが、すぐに興味を失くして通り過ぎて行く。
とてつもない無力感。彪雅の心を圧迫する。
何もできないまま、難なくヒョロガリが鎧塚に接近し、お互いが目と鼻の先に迫ろうとしたとき、衣縫が意を決して間に割って入ろうと前に出る。だが、取り巻きの一人が太い腕でやんわりと妨害を払い除け、力を誇示することで、穏便に取り押さえる。
遂に接近を許してしまった。
睨み合う鎧塚ら二人。一体、どれだけの時間、そうしていただろう。数分のようで、五秒にも満たない隔たりを経て、ヒョロガリの剣幕が嘘のように穏やかに転じた。
「あの日以来かな、纏さん。こんなナリでごめんね」
「……名前で呼ぶんじゃないわよ、鷹莱」
鎧塚から普段の明るさは鳴りを潜め、冷ややかに刺さる声音――だが、その切っ先は震えている――で応える。
鷹莱は、全く気にする素振りを見せない。
「すまない。そうだね、僕らの仲はもっと丁寧に育むべきだった。鎧塚さん、と呼んでいいかな。……っと、それって新しい義足かな?」
目ざとくメーカーロゴ入りの肩掛けカバンを見つけ、鷹莱は続ける。
「きっと、鎧塚さんによく似合うんだろうなあ。良かったら、ゆっくりと、着けているところ、見せてくれないかい?」
鷹莱の手が鎧塚の肩に触れようとする。
息が零れたような小さな悲鳴を、鎧塚が発したその時――。
鎧塚の背後から伸びた手が、鷹莱の魔手を掴み留める。
その瞬間、彼の視線が手の主の方へずれ、いけすかない顔が若干青ざめた。
トドメの一言を放つため吸った息の逃げ場を唐突に失い、溺れたかの如く喉を小刻みに鳴らしている。
「ちょいと坊ちゃん、気を付けなよ。何ぁんもねえトコで転ぶたあ、鍛え方が足りねえってレベルじゃねえべ?」
掴んだ鷹莱の手を捻り上げながら、突如現れた男が鎧塚の前に躍り出る。鷹莱が関節を捩じられて苦悶の音を上げる。
「お前……っ、おっ、さ、ぐぁ……見てないでさっさと助けろっお前っ!」
手持無沙汰で呆けていた方の取り巻き二号が、鞭に打たれたように動き出す。強靭な腕が振り上げられる直前、男は鷹莱を突き放す。
やがて拳は振り下ろされる。
しかし、標的の顔に拳が直撃する直前、当の標的によって武骨な手首を掴まれてしまう。力任せに押し通そうとも、体勢を立て直すために引こうともビクともしない。引き絞り、凝縮された力でもって、取り巻き二号の剛腕を制圧している。
「何だ? そんなガタイであんたも足腰立たねえのか? ほら、しっかり立ちなって。立つってわかるか? こうすんだよ」
徐々に掴んだ手首を捻り上げる男。体格で圧倒している相手に手も足も出ない取り巻き二号の表情が、苦痛に歪む。
「それとも、立たねえのは歯か? まさかな。今日はまだ噛みついちゃいねえよ。俺も、あんたらも」
鷹莱が解放された腕を摩る。悔しさを滲ませ、憎しみを込めて男を睨んだ後、わざとらしく鼻を鳴らして踵を返し、取り巻きがそれに追従した。
「後があると思うなよ、紀鋼……」
良く知った名を聞き、ようやく彪雅は振り返った。
「おいすー。ひょうちゃん、ゆりっぺ、まーさん、おひさー」
低く、よく響くが、張り詰めた緊張を解きほぐす気安さを備えた、聞き慣れた声で、彪雅は自分のあだ名らしいものが呼ばれた気がした。
念のため、カメラの焦点を調節する。画面に映るのは、呼ばれた名の記憶と食い違う風貌の、背の高い男子である。
ヘアフロントからネーブにかけて脱色した金髪のソフトモヒカンに、蓄え始めの顎髭、ティアドロップ型のサングラスを掛けている。学校の風紀を無視した格好だが、制服は間違いなくこの高校のものだ。
思い描いていた人物像とのギャップに、ただでさえ余裕のない脳が混乱した。衣縫に至っては、警戒して彪雅の後ろに隠れてしまう有様だ。
それでもはっきりしている。鷹莱に手を引かせて、彪雅のことを「ひょうちゃん」と呼ぶ人物は、彼の知る限りでは一人しかいない。
「本当に、紀鋼君?」
衣縫が目を丸くして僕と彼を見比べる。
「ウィーッス。終業式、お疲れい」
紀鋼はサングラスを持ち上げ、見覚えのあるひょうきんな垂れ目を覗かせた。衣縫はようやく彼を紀鋼だと認識し、「お、紀鋼君ぉおいす……」と挨拶を返した。
紀鋼拳志。三人の元クラスメイトである。
元々がクセのあるショートヘアで、顔には何も着けていなかったのだから、彼の変貌を驚かずにはいられなかった。
つい最近退学したはずの彼が、どうして学校に来ているのか尋ねると、校内に残している私物の持ち帰り期限が今日までらしく、ぎりぎりになってようやく私物を引き取りに来たのだそうだ。
しかし、彪雅にとって「こんなことって、あるんだ」と、思ってしまう展開だった。紀鋼がいる。こんなに心強いことはない。
「ん、何の話すか?」と聞く紀鋼には、「こっちの話」だとはぐらかす。
「ま、いっか」紀鋼がうなじを掻く。「で、誰、今の? あいつ顔面マジッベエじゃん。救急いる?」
電話をかける仕草で茶化しているのか、本気で自分のしたことを忘れているのか、紀鋼は彼が誰だかわかっていない素振りだった。いたずらに話を蒸し返しても事態がややこしくなりそうだったため、知らぬ存ぜぬを通しておいた。
ふと、彪雅の脳裏に疑問が過る。引き返した鷹莱は、ここまで身なりが変わった紀鋼のどこを見て紀鋼だと思ったのか。これがわからない。
紀鋼は事情を承知の上で、僕らを気遣ってくれているのかもしれない。
「ふーん、何つーか気の毒なこって」
そううそぶく紀鋼は、鎧塚の方へ歩み寄る。紀鋼との再会に対応が精一杯だったので気付かなかったが、鎧塚は、もうとっくに去った鷹莱の姿を廊下の先に探しているようだった。
「んで、まーさんさぁ、そろそろ絡もうぜ?」紀鋼は馴れ馴れしく鎧塚の肩を組む。「オレ寂しんだけドヴォ!!」
害虫が身体を這った時のような悲鳴を上げ、鎧塚の平手が紀鋼の顎を的確に捉えた。
◆
電子式スターターピストルの音源データを再生する。乾いた発砲音が青空に響くと同時、連動するタイマーが時間を刻み、カメラが録画を開始する。
同時に、鎧塚がスタートを切る。陸上用のTシャツとハーフパンツを着用し、義足も競技専用の物に交換している。
昼時で他の部員はおらず、他の部活動の人間もまばら。運動場はほぼ独占状態だった。
赤土色のウレタン舗装のトラックを蹴り進む鎧塚。義足のピンクが直線を引く弾丸ランナー――踵を高くし、S字型に形成した義足は、馬やチーターなど、走行能力の高い動物たちを思わせた。
鎧塚はあっという間に一〇〇メートルのゴールラインを通過した。十分な減速を経て、記録の確認に彪雅の元へ駆け寄った。
「……何秒?」
「一三秒一一」
傍で見ていた衣縫が、感嘆とともに拍手を送った。預かっていた水筒とタオルを鎧塚に手渡す。
ちなみに紀鋼には、予定時間をずらしてもらった業者の相手を頼んでいる。
息を整え、汗を拭う鎧塚。頬を伝い、顎を滴る汗がグラウンドに染み込んでいた。
鎧塚は次第に息を大きく、深くし、平時に戻した後、受け取った水筒からスポーツドリンクを一口含んだ。
彪雅は鎧塚の様子を窺う。
表面的には平常、あるいは走ることに没頭しているようにも映る。ストイックに陸上に取り組む姿だ。
しかし、心穏やかなはずがない。
身体を十分に温めた段階で、自己ベストより二秒以上も遅いタイムしか出せていない。しかもピークを抜け、徐々に脚が鈍くなっている。
きっと、鷹莱と面と向かったことが影響しているのだろう。
鎧塚がスタートラインに戻りながら、背中越しに投げかける。
「彪雅、もう一度、いい?」
鎧塚は逃げているのだと彪雅は思う。
明確なゴールや区切りのないトラックで無心に走り続け、記憶を振り切ろうとしているのだ。
だが、一度刻まれた記憶から逃れる術など限られている。
少なくとも彼女の講じている手段は間違いだ。
心の中の事象に距離などなく、失ったつもりでも、必ずどこかに潜んでいる。そしてその在処は、自身の心の中とは限らない。
そう教えてもらった彪雅なのだが。
「……ごめん、そろそろ時間目一杯」
内藤先生からもらった期限、十二時が迫る。
僕は、鎧塚が必要としているものを、持っていない。
彪雅は己の弱さを恥じた。
「あー、もう……そっか」振り向く鎧塚は、いつもの笑顔だった。「ありがと。引き留めてごめん。またね」
「うん。また休み明けに」
鎧塚は、呼吸を整えるように深く息を吐き出した。どこまでも高く青い夏の空を見上げ、相貌を伝う汗を拭う。
「蝉がうるさいなあ」
彪雅は一瞬、鎧塚が何を言っているのかわからなかった。
間を経て、賑やかな教室内で感じた奇妙な静けさの正体がわかる。彼の耳には蝉の声など聞こえていない。それどころか、思い返せば学校で蝉の鳴き声を聞いたことがなかった。
マイクが拾える音域ではないのだ。
「夏だね」
また一つ、人と違う点を見つけてしまった。更に友人との距離が開くような気がして、彪雅は誤魔化すように相槌を打った。
「な、夏ゥと言ったらァーァ!」
珍しく衣縫が、会話に割って入る。不慣れなくせに大声を出すものだから、変に上擦っていた。恥ずかしそうに口を隠し、咳払いで声を整え、気を取り直す。
「は、花火、行こう!」
二人は驚いた。衣縫が自ら話題を振ることは滅多にないことだからだ。
「花火? 鎮魂祭の?」
「う、うん、七月二五日」
「もうそんな時期かあ」
三人は、何気なく海のある方角、その空に目を向けた。
都心部を越えた先、海から一本の黒い縦線が天を左右に分かつかの如く伸びている。
五年前、世界各地に突如として発生した、標高一万メートルに達する塔の様な島だ。
日常を取り戻しつつある世界に穿たれた、非日常の楔の一つである。
「そうね、来年は進路で皆忙しいだろうし、拳志は田舎に引っ越すって言うし。……四人で自由にどこか行けるのって、この夏が最後なのよね」
最後――言葉が胸中にずしりとのしかかったように感じた。
島の手前、都心部に、建設中の高層ビル群の姿が見える。
友達はいつまでも傍にいるわけでなく、それぞれの道を進んでいるのだ。
「行こう」
と言ったのは、鎧塚よりも彪雅の方が先だった。
鎧塚は目を丸め、その後、優しげに目を細めて言った。
「病院の先生に聞いてからじゃないの?」
「聞き入れてもらうよ。直接会おう。こんなロボット越しじゃなくてさ」
そう言っておきながら、彪雅自身、普段なら思いもよらないことを口走った自分はおかしくなってしまったのではないかと訝しんだ。
それでも、この程度のことで嬉しそうにする衣縫と鎧塚を見て、おかしくなっていても良いと思った。
三人で運送業者の元へ向かう。
学校の敷地内、校門の近くに、業者のトラックが停めてあった。
その近くで、荷物をまとめた紀鋼(鎧塚に叩かれた左頬を今も擦っている)と業者二人が談笑する姿があった。
最近の高校の学食も捨てたもんじゃないとか、月一限定メニューの四川風麻婆カツ丼がガチで旨いだとか、胃袋がしゃしゃり出て喋っているような内容だ。
早めの昼食がてら学生食堂で待ってもらったためだろう。
そうこう考えている内に、業者の人がこちらに気付き、帽子を脱いで頭を下げてくれた。
頭を下げなければならないのはこっちなのだが、生憎このロボットでお辞儀を再現するには機能が少なすぎる。
鎧塚が前に出て、頭を下げる。
「天平高校二年の鎧塚です。お待たせしました。こちらの勝手でご迷惑をおかけして、すみません」
「すみません、よろしくお願いします」
会話を交わすのもそこそこに、業者がすぐさま仕事にかかる。
荷台のリフトの準備中、解放された紀鋼に衣縫が声をかける。
「……紀鋼君、来週、花火、あるよ」
「海辺のン? マジかー。なーんかバタバタしてすっかり忘れてたわ」
「行ける?」
「モチよ。バッチリ予定キープしとくし。ひょうちゃんも行くべ?」
「そのつもり」
「ひゃー、にしてもマジ久し振りじゃね? 昔みたいに四人でどっか出かけんのって」
「……」
彪雅は少し言葉に詰まってしまった。
鎧塚が紀鋼の脇腹を肘で小突く。金栗の顔にしまったと言う文字が浮かび、口を手で覆う。
気を遣わせてしまい、彪雅は申し訳ない気持ちになった。
「……紀鋼君、もう、帰れ?」
いつものたどたどしい言葉遣いで毒を吐き、衣縫が紀鋼に膝かっくんを見舞う。
「ゆりっぺが地味に攻撃的に!」
「衣縫さん、少し、おさえて」
衣縫は時々、普段からは想像できないくらい過激になる。
体勢を立て直す紀鋼。
「ツかまあ、確かにそろそろ……」顎髭を弄り、考える紀鋼。サングラス越しに鎧塚を見て「いや、真面目な話、もうちょい残ってるわ」
ぶっちゃけ鎧塚の陸上ウェア見るのも最後かもしれんと思うと、今の内に記憶にめっちゃ焼きつけたくなった。と大真面目に語る紀鋼を、鎧塚は変態と称し、自分の身体を隠した。
質問の答え以外に用のない衣縫はそれを無視し、僕の方に寄ってライブカメラを覗いた。
「……お見舞い、行く」
「……ありがとう」
四人で騒いでいる間に、業者がロボットを積み込む準備を整える。
「それでは、黒須さん。移送に入りますんで、機体の電源を切ってもらえますか」
「あの、カメラだけ運転席に置いてもらえますか。こんな身体の事情で、通学路の景色を見ることなんてありませんから」
「構いませんよ。内藤先生からは黒須さんのご希望に沿うようにと言付かってますから」
「すみません。じゃあ、その前に」
友人たちへ向き直り、彪雅は別れを告げる。
「じゃあまた、花火大会で」
「うん、じゃあね」
「おう、また今度」
「……また後で」
三人とも、彪雅の見送りで手を振った。
「ありがとう。お疲れ様。それでは、外してください」
カメラを外す業者のやや不慣れな手付きに、酔いが回りそうになる彪雅であった。
◆
五年前の厄災を知らぬ者は、その後に生まれた世代を除けばきっといないだろう。
日本時間で西暦二一四五年七月二五日午後五時五五分。文字通り、全世界を震撼させる現象が起こった。
世界各地で同時に多発した大地震である。
震源は千万無量にして、現在でもその総数は判明していない。各震源域の揺れが相互に作用し合うことで一つの地震のように振る舞い、災害の全貌をうやむやに、被害をより甚大なものにしたのだと言う。
世界は――人々は、崩落する瓦礫の山に、押し寄せる津波に呑み込まれ、最終的な死者・行方不明者数は九億人超。まさに「地球が震えた」としか言い表せない未曽有の大災害であった。
一瞬にして世界地図を描き直さなければならないほどの爪痕を残した大震災である。一時は以前の水準と同等の文明を再建することが不可能とまで言われたそうだ。
そんな地震の常識外れっぷりを否が応でも思い知らせるのが、校庭から見えた塔のような島である。
地震の直後、世界各地に点在する特に大きな揺れをもたらした震源から、同様の島が一斉に生えたのだと言う。
その島々が発生したメカニズムは、今日でも不明のままだった。
馬鹿げた規模の地震が原因の大陸移動の産物でもなければ、信じ難い粘度の溶岩が冷えたものでもなく、ましてや天変地異に恐れおののいたサンゴ礁が怪獣化したものでもない。
ただ、謎。専門家でさえ諸手を上げて口をつぐみ、専門家を騙るその筋の数奇者がこぞって妄想を叫び合うような代物だ。
当時の厄災を忌避し、日本では「忌島」だの「忌柱」だのと呼ばれているが、その由来が神秘のベールに包まれているためか、同時に、死者を偲ぶための慰霊碑のような役割も果たし、一部では畏れから信仰を集めるに至っていた――。
車載されたライブカメラから送られる映像を見ながら、病院の彪雅は震災の概要をまとめたサイトを流し読んでいた。
トラックは十分な広さを備えた車道を走っている。脇の歩道で下校途中の学生を追い抜くのは何となく気分が良い。
その更に脇にカメラを向ける。夏の陽を浴びて眩しいくらいに真新しい住宅が建ち並んでいる。時折、背の高い雑草の生い茂った空き地が現れた。売地を示す看板が、鬱蒼とした緑に呑まれていた。
後は大体、似た光景が続く。家、空き地、家、空き地地が交互に現れては、進路後方へ過ぎて行った。
暫く道路を走ると、右手に広い土地が広がった。
住宅地としては何区画分になるのだろうか。地上からは正確にその面積を把握できない。ただ、遊ばせておくには広大に過ぎる広場が、単純な目的の下に利用されているのだ。
そこにあるのは、遥かなる瓦礫の山。
地震で倒壊した家屋の残骸、その仮集積場である。
彪雅は目を奪われた。被害より五年が経過すると言うのに、見渡す限りを埋め尽くす瓦礫が残っている。
ネットによると、先の地震で発生した廃棄物の量は、全世界の処理能力など話にならない規模に上っているらしく、現在でもこのような光景は至る所に存在するらしい。
黙する光景が語る、現実感を伴った破壊力に、ただただ圧倒される。
日常に今なお巣食う、地震の痕跡。非日常の楔の二つ目。
それでも、町は日々新しく塗り替えられていく。瓦礫の山とて、日々削られて小さくなっていることだろう。いずれ、この広場も綺麗な町並みの一部と化すのだ。
が、その塗り替えられた下で、人々は傷を抱えて生きていかなければならない。たとえ町が再建され、表面的な復興を遂げても、その家に住まう人々の失ったもの全てが戻って来るわけではない。
恐らく、あの地震を経験した全ての人が人生を全うするまで、災害の後の時代は続くのだろう。
◆
カメラの中継を切る。
彪雅の視界が暗転する。
残るは左の義眼に映る表示。
時刻表示とアプリアイコン数種。
心音が徐々に耳へ迫り、拍を打つ。
心電図の電子音が、脈拍に重なった。
窓ガラス一枚を隔てて伝わる油蝉の熱気。
次第に元の肉体へ意識が浸透してゆく感覚。
やがて血液は指先を痺れさせるほど強く巡った。
渇いて粘る口腔と、発汗した肌に張り付く寝間着が煩わしい。
胸一杯に空気を吸う。シーツに染み付いた漂白剤の臭いが、鼻腔に満ちる。
意識をロボットから病院のベッドの上に戻す過程で、彪雅は五感が肉体に順応する感覚を意識するよう、内藤医師から言いつけられていた。
ロボット――あるいはライブカメラから離脱する感覚は、夢から覚める時のそれと似ている。
学校で自覚未満の不満を燻らせることのある彪雅だが、ロボットを通して見る世界が現実で、病室で横たわる自分の方が夢であれば良かったと思うことは少なくない。
目を開き、現実を見据える。
横たわるベッドから見えるのは、白い天井と蛍光灯、一輪挿しに造花と花冠、雑誌、そして枕元を取り囲むように配置された電子機器の数々。そこからコード類が伸び、彪雅の左側頭に埋め込まれた端子に接続されているが、今では邪魔に思うこともなくなった。
黒須彪雅は左目と脳を機械化した、いわゆるサイボーグである。
五年前の震災時、彪雅は崩落したビルの破片で頭を強く打ち、左目と左脳が潰れる致命的な傷を負った。
災害後の混乱の中、本来ならば治療すら試みられないほどの重体。その彼の命を繋ぎ止めたのは、当時より内藤蛍が研究を進めていた電脳化技術だった。
その時から、彪雅は頸承塾病院の個人病室で過ごしている。
脳の半分を損傷し、失ったのだ。一定の運動機能を失い、心臓はペースメーカーの補助が必要だった。それどころか事故以前の記憶までも失われたのだ。
そのため、記憶の始まりが病院だからだろうか。ここの風景は見慣れているなどというものでは済まない。もはや実家にいる心地と言って差し支えないだろう。
肺に溜めた空気を吐き出す。前歯に擦れた吐息が、か細く蒸気を抜くような音を立てた。
「お帰り、彪雅」
声の方に目を向ける。義眼が焦点を自動調整すると、女性の顔が鮮明に映った。シニヨンにまとめた髪の洗練された印象とは対照的に、若干の疲れが浮かぶ表情が見て取れた。
「遅かったわね。学校、楽しかった?」
努めて溌剌と振る舞う女性。カバンから新しい寝間着やタオルを取り出し、洗濯する分を仕舞っていた。
彪雅の母、黒須莉々江と言う。
もっとも、彪雅からしてみれば事故以前の記憶がないため、正確に言えば母と説明されたから母と呼んでいる女性だった。
「母さん……」
誰がブリタニアの王だ。
ここぞとばかりに閉じた日傘を岩から引き抜く真似するのやめて、お母さん。
「ガウェインとモードレッドは死刑」
病院で死ネタ禁止!
彪雅は呂律の回らない口を恥じて噤んだ。電脳化で補っていても、思うように身体が動かせない。これだから生身は嫌いだ、と心の中でつぶやき、そそくさと文章読み上げアプリを起動させた。
枕元の機器に接続された小型スピーカーから、彪雅の意を表する電子音声が発せられる。
「母さん、ただいま」
「どうだった? 学校は」
「母さん……こうなる前の僕って、どんなヤツだった?」
「んー? 急にどうしたの?」
友達に言われて気になったから。と、言うだけ野暮だろう。
彪雅が言葉を選んでいる内に、焦れた母の方から口を開く。
「正義感の強い子、かしらね。時々、パッと見はとんでもないことをしでかすことがあったけど、どれも誰かのためにやったことだった。ハラハラさせられたけど、おかしな話、安心して見守れるような……」
「……変なヤツ?」
「フフッ、個性的だったのよ。だけどね彪雅、お母さんは、あなたがあれから変わったなんて、これっぽっちも思っていないわ。今だって、昔、骨折で入院して暇を持て余してた時のまんまだもの。彪雅はやっぱり彪雅のままよ。安心なさい」
「そう。ありがとう、母さん」
言われて彪雅は、母の言葉はきっと母自身に言い聞かせているもののように感じた。彪雅自身、話に聞くような活発な人間であったとは思えない。
彪雅は、かつての彪雅と違っているのは明白だった。それなのに、震災で息子を失いかけた親に向かって、あんな問いかけは酷に過ぎるのではなかったか。
この話題はやめよう。誓って、別の話を探る彪雅。そして。
「それより、来週の土曜日にさ、友達と花火を見に行く約束したんだ」
ピタリと、洗濯物を仕舞う手を止める母。彪雅の方に向き直し、真剣な面持ちで語りかける。
この話題もまずかったかもしれない。
「行く……って、まさか生身で?」
「そうだけど」
「先生はどうおっしゃっているの?」
「これから伝える」
そうとしか言えなかった。嘘を告げたところで、先生を通して母にばれるのは時間の問題でしかない。
「今年はやめておいたら?」
「何で?」
「だって、外で何かあったら大変じゃない」
「バッテリー切れなら予備を持って行けば良いし、電脳だってもう邪魔にならない大きさに改良してもらったから大丈夫だよ」
「だからって、肝心の身体の調子が戻っていないのに」
「関係ない。今年じゃないとだめなんだ」
母は、困ったように笑顔を繕った。
「どんなことでも、彪雅にやりたいことがあるって、お母さん嬉しいよ? でも、もう五年経って通院治療の見込みも立っていないのに、いきなり外出なんて」
「構いませんよ」
母の背後から声が割り込む。
看護師を伴って、いつの間にか白衣を着た男性が入室していた。
医師と一目でわかる出で立ちの男は、少女漫画の中から具現化したような細身の長い手足と、甘いマスクの持ち主だった。まだ誰の診察さえしていないにもかかわらず、手にしたカルテに何やら短く走り書いたようだった。
『頸承塾病院 外科 医師 内藤蛍』の名札が胸元に誇らしく光っている。
母と軽く挨拶を交わし、内藤が続ける。
「彪雅君に使った電脳化技術は未だ試験段階で、かつ彼は代替脳を用いた電脳化に成功した初の人間です。彼は世界的にも特異な個人ですから、したがって日常生活に戻るには技術的にも肉体的にも社会的にも経済的にも、何から何まで多くの課題が残っています。ですが、ほんの一日、花火の見物に行く程度のことでしたら、ご心配には及びません」
でも……と、不安を吐露する母をなだめるように内藤は言葉を選ぶ。
「それでも気掛かりでしたら、……そうだ、私が引率しましょう。ああ、お気になさらず。こういうことでもないと有休を取る機会がないもので」
「あの、できれば、友達と水入らずが良いんですけど」
「ああ、なるほどね。気が利かなくて申し訳ない。だけど立場上、保護者の同伴については一言言わせてもらうよ」
彪雅の希望に、訳知り顔でそのくせ自嘲気味に冗談っぽく顔をほころばせた後、内藤は表情を優しげに引き締めた。
「それはさておき、何より黒須さんがおっしゃるように、彪雅君の意思の尊重は支援に不可欠だと、私も考えています。自分の身体を押してまでやりたいことがある、それは努力次第で叶う。その経験が彼の背中を押す場面もこの先きっとあります。思い立ったが吉日ですよ、お母さん。大丈夫、今日まで彼を支えて来れたんですから。息子さんが自ら踏み出す一歩を喜び、背中を押してあげましょう」
懸念を解き、自信を促す医師の言葉に、母は考える。
「今年が多分、皆と一緒に見られる最後のチャンスなんだ」
息子の懇願が母を揺さぶった。
脳裏に浮かぶのは、病院に運ばれた時の息子の姿。
変形するほど損傷した頭に幾重にも巻かれた包帯とガーゼからは血が滲み、人工呼吸器や心電計、点滴、輸血パックのチューブに繋がれた凄惨な姿が記憶に焼きついている。瞼は重く閉じ、二度と開かないのではないかと思ったのを覚えている。
病院内で渦巻く災害後の混乱、狂乱、波乱。息子を除く全てが目にも耳にも入らなかった中で差し伸べられた救いの手は、内藤医師のものだった。
彪雅の方へ向き直る母。
息子の目は、開いている。
友達と遊びに行きたいと、高校生らしいことを言えるのだ。
災害後にはまだ幼さを残していた顔立ちは、僅かに痩せこけているものの、今や大人びた雰囲気を漂わせている。
我の強さも併せて、母の記憶にある愛おしさを想起させた。
やがて母は頷き。
「彪雅」
「うん」
「送り迎えだけは、お母さんがやるからね」
譲歩しながらも諦観を含めて微笑む母の表情は、どこか板についた振る舞いだった。結局、どう転がってもこうなるような気がしていたと自嘲気に項垂れる母は、ハッとして時計を見る。
「いけない。先生、昼食会はこの時間からでも参加できます?」
「ええ。先生方は離席されていますが、この時間なら参加者様方でお話をされている頃かと」
「わかりました。じゃあ彪雅、お母さんお昼を食べたら仕事に戻るから。あんまり先生にわがまま言っちゃだめよ。……それでは先生、失礼します」
一礼し、退室する母。
「そうそう、彪雅。あの子、刺百合ちゃんって今日も来るの?」
一転、母は思い出したように、半開きのドアから顔を覗かせた。
「来るけど」
「そう」母が下心を隠さずニヤニヤして親指を立てて言う。「若いって良いわねえ。頑張りなさい」
「良いから行けよ!」
「はいはい、またね」
余計な一言に、彪雅の顔から火が出そうだった。
彪雅の母が部屋を出た後、看護師の助けを借りて昼食を取る。
その後、学校の予定のない日の彪雅は、内藤医師らの立ち合いの下、リハビリテーションルームで訓練を行うのが日課だった。
電脳と機器を接続するケーブルを取り外し、代わりにバッテリーを搭載したベストを着て、電源用端子と接続。これで約六時間はコンセントから離れられた。
車椅子に座り、別の階にあるリハビリテーションルームへ連れて行ってもらう。
彪雅のリハビリは多岐に渡った。着替えから、音読、指先訓練用のペグボード、プーリー、手足でエアロバイク、筋力トレーニング機器各種……思うように身体を動かないせいで、どれも上手くいかなかったが、中でも歩行訓練はとりわけ苦手だった。
手摺の介助があるにもかかわらず、立っているだけで膝が笑う。無理矢理に脚を黙らせて一歩進めると、姿勢が崩れてそうになり、腕で踏ん張らなければ膝から崩れてしまう。だが、腕を動かそうとすると彪雅の意思を無視してデタラメな痙攣を起こすせいで、体勢を立て直すにも一苦労だった。
たかだか数分の歩行訓練が、果てしなく長いものに感じる。
ようやく全てのリハビリを終え、彪雅は車椅子に身を投げた。息が上がって仕方がない。荷物を持つとか、ただ道を歩く負荷にも満たない運動でこの体たらくでは、人並みの生活を送ることなど無理だろう。
愚痴る彪雅に「それでも、始めた頃と比べたら……かなり、良くなってますよ」と、看護師がタオルで額の汗を拭いながら労った。
だが、それは彪雅の努力が実ったと言えるのだろうか。
事実、ここまで身体を動かせるようになったのは、彪雅自身の筋力が戻ったためでも、電脳に身体が慣れたためでもない。リハビリで得たデータから、少しずつ電脳の調整と改良を加えた成果だった。
研究の成果が確実に彪雅の回復へ繋がっている一方で、結局のところ、第三者の手を借りなければ成長すら怪しい。リハビリよりも、むしろデバッグを受けているゲームのキャラクターに近い立場である。
一人では何も出来ない――たとえ電脳の|改良≪アップグレード≫を繰り返した末に退院できたところで、今の彪雅の生活が変わる兆しは全く見えない。
彪雅の悔しさがはち切れそうだった。
悔しさが呼び水となり、沸々と怒りが込み上げてくる。だが、怪我の原因が自然災害だったために矛を向ける先がない。
出来ることなら、車椅子の肘掛けを殴るところか、フットレストに地団太を踏むところか。しかし、力を込めれば意に反して痙攣する彪雅の身では、それしきの我儘すら叶わない。
鬱積の逃げ場が見つからぬ内に熱は冷め、燃え残った煤のような苛立ちが、澱のように心の底へ沈み、積もり、層を成した。
大きく深呼吸し、彪雅は背もたれに身を預ける。ふと、内藤医師の隣に衣縫刺百合の姿を見つけた。
いつの間にか見舞いに来てくれていたらしい。
衣縫は内藤医師と、何やら二人でルーズリーフを見ながら、話に花を咲かせているようだ。
内向的な衣縫にしては驚くべきことだが、内藤医師と話している間は、学校では見たことのない活き活きとした表情をしている。不得手なはずの会話も、彼に対しては積極的に行っているようだった。
見舞いは口実なのだろう。彪雅は思う。
衣縫は内藤医師に会いに来ているのだ。
表面をなぞっただけでも、内藤はイケメン医師だ。衣縫が憧れるのも無理はない。
出会いのダシに使われている彪雅としては、複雑な心境であるが。
と、話の途中で衣縫が彪雅の視線に気付き、はにかみながら手を振った。
彪雅も笑顔を作り、独りでに震える腕を何とか抑え、手を挙げて応えた。
病室へ戻る。
彪雅はベッドに横になり、衣縫がその脇に座った。
リハビリ後の電脳デバッグの時間と重なってしまったため、面会の時間は一五分だけ許された。
「あ、あの、こ、これ」
おずおずと衣縫が、彪雅に吸い飲みを差し出した。
やや気恥ずかしさを覚えた彪雅だが、丁度、喉が渇いていたこともあって、素直に吸い口を咥え、水を飲んだ。
「ありがとう」
口が塞がっていても、スピーカーで会話する彪雅には関係ない。水を飲みながら声を出す腹話術のような芸当は簡単にできる。
「今日も、が、頑張った、ね。歩けるように、なってきたね」
衣縫は一輪挿しの造花を抜き、花冠に編み込んだ。一輪挿しに僅かに付いた埃を布巾で拭い、新しい造花をカバンから取り出し、代わりに挿した。
「違う」
不思議そうに衣縫が手を止める。安易な労いの言葉は彪雅にとって余計なお世話でしかなく、彼の気分を逆撫でた。
「歩けるようにさせられているんだ。僕が元に戻ってるんじゃない。頭の中のコンピュータが僕っぽく真似するように、医者がいじくり回しているんだよ。頑張ってどうにかなってるなら、もうとっくに退院してる。簡単に言うな」
言って彪雅はハッとする。衣縫の方を見ると、顔を伏せ、真っ赤にして今にも泣き出しそうになりながら、うわ言のように謝り続けていた。
「ごめん、言い過ぎた。少しイライラしてて……。頭を下げたいんだけど、身体がこんなだから許して。衣縫さんたちがお見舞いに来てくれるから、これまで頑張ってこれたんだ。きつく言って本当にごめん」
衣縫は鼻をすすり、首を振る。
「わ、悪いの、わ、私だから。ごめん、なさい」
そそくさと病室に備えつけの洗面台へ向かう衣縫。空になった吸い飲みを洗い始めた。
「衣縫さん、あまり思い詰めないで。衣縫さんは何も悪気があったわけじゃないでしょ? それでも悪いと思うなら、僕だって悪いことしたって思っている。だったら今のは、おあいこで手を打ってくれたら嬉しいな」
ベッドの脇に衣縫が戻る。洗った吸い飲みをベッド脇の棚に置く。
微かに悲哀の滲む表情が、彪雅の胸を締めつけた。
「……私、く、黒須君、苦しめて、ばかり」
「そんなことない。それだったら、僕だって衣縫さんにつらく当たったから、ごめんなさい」
「ううん、ご、ごめんなさい、だ、だって、私……」
「いいんだよ、もう。謝らないで」
「あ、うん、ごめ……あっ」
一瞬の間、外のセミが一斉に見計らったかのように黙る。
きょとんとして、顔を見合わせる二人。
たまらず、彪雅は笑いを噴き出した。スピーカー越しではない、喉から出る声だ。不完全な運動機能から生まれた笑い声は、酷く掠れて不格好だった。
釣られてクスクスと控え目に笑う衣縫。
「仲直りしよう」
彪雅は小刻みに震える右手を、衣縫に差し伸べる。
「う、うん、仲直り」
衣縫が優しくその手を取る。彪雅の手の平に収まる、小さくか細い手の、柔らかく木目細かい感触がくすぐったい。衣縫の手は少しだけ冷たく、何故だか安心を覚える包容力を持っていた。
彪雅はようやく胸を撫で下ろすことができた。
「来週の花火、みんなで一緒に楽しもう」
「えっ、あっ、そ、そう、だね!」
「何を慌ててるの」
「ううん、何でもない!」
いつもと比べて言葉に迷いがなさ過ぎる。
「……まあ、いいや。それより花火って、どんな花火があるの?」
「ま、毎年、変わる、けど」衣縫は両手を横一杯に伸ばして、「目の前、いっぱい、一面が花火! だ、大スペクタクル!」
肝心の詳細がよくわからない説明だったが、そんなことはどうでも良い。
「当日、楽しみにしとくよ」
衣縫たちと一緒に、学生らしい思い出が作れれば、それで良かった。
「ところで」彪雅が問う。「内藤先生と話していたみたいだけど、何の話をしていたの?」
衣縫が目に見えて硬直する。
「な、な、何でも、ない」
表情も声も動揺を隠しきれていない。
「そう? 何か紙? 一緒に見てたみたいだけど」
「えと、えと、い、医学部、受験、べ、勉強、のツボ……的な」
言われてみれば確かに、衣縫の将来の希望は医療に携わることだと聞いていた。しかし、普段以上に言い淀む様子を目の当たりにして、彪雅は嘘を疑わずにはいられなかった。
だからと言って、これ以上の追及は野暮だろう。
「そ、そろそろ、時間、だから。また、ら、来週ね」
「うん、また来週」
余程、内藤医師の話題に触れられたくなかったのだろう。取り繕った言い訳じみたことを言い、衣縫は荷物をまとめて、速足で部屋を後にした。
衣縫はドアの外に出た後、思い出したように振り返り、手を振って帰って行った。
衣縫の残した造花の方へ目を向ける彪雅。拭き残された吸い飲みの水滴と、再び窓の外で鳴き始めていたアブラゼミが、いかにも夏らしい雰囲気を演出している。
花のことはよく知らなかった。義眼で画像を撮影し、検索にかけて類似したものを探してみる。
花冠に加えられた一輪は、ガーベラ。新しく一輪挿しに飾られたのはダイヤモンドリリーと言うらしい。
ふと、花の紹介文に添えられた、花言葉の欄が目に飛び込む。
花火を見る日が待ち遠しく思う彪雅だった。