000:報道記録「第七天頂丸」
私生活がようやく落ち着いてきたので、書き続けられそうな内容で執筆活動を再開しました。
頑張ります。
その日、漁船第七天頂丸は天平湾の沖合で底引き網漁を行っていた。
水揚げした魚介類の仕分けの手を動かしながら、若い船員が呟く。
「また増えてるな」
船員の手には、剃刀のように鋭利な鱗を逆立てた魚が息絶えている。
五年前を境にして、水揚げの度にこのような奇抜な見た目をした新種生物が紛れ込むようになっていた。
頭部から泡立つように複数の目を持つ甲殻類や、モミジ型をした半透明のナメクジウオに似た何か、口から肛門まで見通せる大穴の開いた筒状の魚など、見慣れない物であれば十中八九が新発見であった。
揃いも揃って独特な異臭を放つため食べられたものではなく、市場に卸せる代物ではない。一方で、従来獲れていた食用魚の漁獲量が徐々に減っており、市場での売り上げも言わずもがなであった。
夏場の新種はとりわけ臭いがきつい。船員は鼻が曲がりそうなのを堪えながら、魚を「ブサイク」と書かれたカゴの中に投げ入れた。
若者の隣で仕分けをしていた壮年の船員が言う。
「口より手ぇ動かせや」
「へい、すんません」
気を取り直して選別を続ける若い船員。それをジッと見ていた壮年の船員は、彼の手袋が所々裂けているのに気付く。
「お前ぇ、そん手袋ぁどうした」
「へ? どうって、古くなったから買い替えて、って、あれ、何だこりゃ……? まさか、さっきの奴の鱗でか?」
「とんでもねえのが揚がってるみてえだな。おうい、皆、えらい鋭いのがおる。手を切らんように気を付けてな」
甲板で作業をしている男たちがポツポツと返事をする。
「で、怪我はねえか」
若い船員は裂けた手袋を脱いで見せた。
「この通り、手袋だけで済んだみてっす」
「適当こくな。かすってねえか、しっかり見とけ。奴ら、どいつがどんな毒ぅ持っとるかわからんでな」
へい。と、生返事をした若い船員は手の平の肉を摘まんで、血が滲まないか調べることにした。
仕事から離れると、今まで気にも留めていなかった物事を感じることができた。穏やかな波を切って前進する漁船の駆動、身体に当たる潮風の香り、いつの間にか高く昇っていた太陽の輝き……緊張の糸がたわんだ若者の心が、タバコの一服を欲していた。
だが、仕事中の喫煙は、この船上では御法度だ。
若い船員は気持ちを紛らわせるように、口を開く。
「しかし、おやっさん、漁師としちゃ、こんな煮ても焼いても食えないモンばっかこうも揚がるってのは、ちっと癪に障りやせんか?」
「市場か学者様かの違いだ。売れりゃ何でも構わんわい。それより怪我はなかったのか」
「へえ、傷一つありやせんでした」
食用魚が獲れなくとも、漁師はしたたかである。
新種は生死を問わず、研究目的で学者や水族館が買い取ってくれる。相対的に漁獲量が減っている食用魚を補って余りある金額で取引され、結果的に全体の売り上げは伸びていた。
「まあ、しかし、だ」壮年が漏らし言う。「こん臭いでカモメが着いて来ねえなあ、寂しくていけねえわな」
さしもの海鳥も嗅ぎ慣れない臭いに耐えられないのか、同じく五年前を境にして、徐々に人前から姿を消していった。今ではどこで何をしているのか、魚群を見つけても海鳥は飛び交っていなかった。
おやっさんと呼ばれた男は、ふと、ある方向へ顔を向ける。そこには、海面から雲を突くほど高い黒い塔のような物がそびえ立っていた。
アレが現れてからだ。彼らの生活が、海の環境が変わったのは。
不意に冷やりと、風が頬を撫でる。塔の方角から水の匂いの濃い空気を運び、にわかに視界が白み始めた。
「……霧か」
正午近くのことだった。かつての天平湾の海流や気候で霧が発生するのは滅多にないことだったが、五年前に塔が現れてからというもの、度々不規則に発生していた。
こうなれば視界が遮られ、漁に危険が伴う。船員たちは次の網を最後に港へ戻ろうと、慌ただしく動き始めた。
引き上げる網が重い。最後に良い獲物かと船員が期待して甲板に獲物を撒けると。
「何だあ、こりゃあ」
揚がったのは、大きな氷塊だった。
うずくまった大人ほどの大きな氷。しかし、氷であれば海面に浮くため、水底に沈む道理がない。それ以前に、夏場に氷が水揚げされるなど明らかに不自然だった。
「見ろ、これ」
氷は強烈な冷気を放っていた。直前まで海水で濡れそぼっていたのに、表面に残った僅かな水滴はおろか、甲板を流れる水でさえ凍り始めていた。
「気味が悪いな……」
「捨てちまいましょう」
「沼田、お前やれよ」
「ヤだよ」
魚以外が揚がるのは決して珍しいことではないものの、中でも特に奇妙な物を前に船員が集まる。船員同士が顔を合わせていると、誰からともなく。
「中に何かある」
言われてみると、透明な氷の中に、何やら色合いの違う物が閉じ込められているように見えた。
最初に動いたのはおやっさんだった。おもむろに船内から錐を持ち出し、氷に尖端を立て、削る。好奇心が掻き立てられ続けて一人、また一人と彼に追従し、思い思いの道具で氷を削り始めた。
しばらくして表面の氷が割れ、錐が氷よりも硬い物に当たる。亀裂の周りを削り、表面を磨くと、中に閉じ込められた物の一部が露出した。
「こりゃあ……宝石か? だけどこりゃあ……」
ほの暗いマリンカラーの結晶だった。錐の先が当たったはずだが、表面には傷一つついておらず、むしろ錐の先端が欠けるほど硬い物質がそこにあった。
冷気の源はこの結晶のようで、気のせいか露出したことで一段と周囲の気温が下がったようで、船員たちが思わず身震いを起こすほどの寒気を感じた。
明らかに普通の物ではない。おやっさんが実感した時。
「へえ、綺麗っすね」
「馬鹿おめえ触るな!」
若い船員が横から覗き込み、結晶に手を触れる。
「痛っ」
反射的に手を引く若者。結晶に触れた指先には切り傷が出来ており、赤い血が流れていた。
「馬鹿野郎、何だかわかんねえモンに素手で触るヤツがあるか!」
「す、すいやせん、おやっさん」
若者は傷口に唾を吐き、やや乱暴に塗り込んだ。
「とにかく、血い絞って、傷う洗っとけ。ひとまず港ン戻るぞ。こいつが何か考えるのは学者の先生方に任せようや」
「へい。でも、見れば見るほど本当綺麗っすよね。きっと金目のモンですって」
「だとしたら、俺らぁ今日から億万長者か」
「古いっすよそれ。せめてセレブって言いましょうや」
「ワシらがセレブって柄け、バカタレ」
「違いねえ」
霧が濃くなる中、船員たちの談笑が海上に木魂する。
笑い声と船のエンジン音、波切が、小刻みに震える氷塊の物音を掻き消して。
やがて、誰も気付かぬまま、結晶と若者の指先で何かが罅割れる音がした。
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ニュース。一〇時二二分更新。
漁船一隻が行方不明。天平市。
七月一七日午前七時より、同市の漁業、岡松重里さん(五五)の底引き網漁船「第七天頂丸」(四・七トン)の捜索が開始された。
同船は岡松さん他乗組員四名を乗せ、一六日午前五時に天平港を出港して以降、同日午前一一時三五分頃を最後に信号が途切れ、行方がわからなくなっている。
海上保安部によると、一六日より天平湾海上に霧が発生しており、捜査は難航が予想される。同船は燃料切れを起こした可能性があり、同保安部などが捜索している。