059:彼の向こう側
人影に気付いた真人は、言葉を切った。
「課長さん! 皆で蜂蜜当てゲームをするそうです。ご一緒にいかがですかって」
「……野乃花ちゃん?
あ、ちょっと待って。悪い、また後で――」
野乃花の姿を認め、その名を呼んでから、彼はハッとした顔になった。
やや険しい表情の彼に、野乃花は何か難しい話をしていたのだと察した。
「あ、すみません。お電話中だったんですね……お仕事の邪魔をしてしまいましたか?」
「いいえ……友人と……話していただけです。お気になさらずに」
小野寺真人には、友人と呼ぶ人間が多そうだ。しかし、野乃花は自分の心臓が鼓動を速めているのが分かった。蜂蜜酒を飲み過ぎたのかもしれない。梅雨時期になればまた肌寒くなるのに、今日は夏を思わせるように暑い。
ブンブンと音がする。
失った蜜を補う為に、ミツバチ達が集蜜作業に励んでいるのだろうか。
「そうでしたか……それでもお邪魔しました」
「野乃花さん!」
一礼して、去ろうとしたのを、真人が呼び止めた。
「なんでしょうか?」
「――あ……この用件が済んだら、すぐに行くから」
手に持った携帯端末がまだ通話中であることを、暗に示す。
「はい。皆さん、待っていますよ。
課長さん、蜂蜜当てゲームが得意そうだから、皆さん、是非とも組みたいそうです」
「どうかな? 野乃花ちゃんの方が断然、得意でしょう。私がお願いしたいくらいだ」
野乃花は真人の通話相手に、この会話が聞こえていることを意識しない訳にはいかない。友人とは誰だろうか。それを考えるだけで、蜂蜜酒の酔いが、さらに回るような気がした。
それなのに、酔っているせいもあるのか、野乃花は真人との会話を続ける。
「私は喜多ちゃんと組みますので……負けませんからね」
語尾に付けられた棘は、以前とは違って、はっきりと意図されたものだったが、とても楽しげで魅力的な口調に聞こえた。
「それは、手ごわそうだ」
そこでようやく沈黙が落ちる。
ブンブンという音が、やけに響いた。
「じゃあ……いきます」
一転、小さな声でそう言うと、野乃花は室内へと戻っていった。
***
野乃花が去った後、真人は携帯端末を本来の位置に戻した。
「泣いているのか?」
『……ないよ』
否定しているようだが、泣いている。
『良かった。野乃花ちゃん、楽しそうだ』
野乃花の声を聞いて、それが楽しそうだからという理由で、大の男が泣いている。
「そうだな。野乃花ちゃんは元気だよ」
野乃花が来たのを見て、通話を切ろうとした真人に、電話の向こうの声が言ったのだ。
『待て! ……頼むから……そのままで』
それはあんまり公平じゃないな、と思ったが、友人のあまりに悲痛な嘆願に真人は折れてしまった。それでも野乃花には相手先とは通話中で、それが“友人”であることを伝えた。野乃花はなんとなく気が付いている風だった。気が付いたのに、野乃花はそのまま話し続けた。これまでとは考えられない展開だ。
「東……野乃花ちゃんの声が聞きたかったら、ちゃんと面を向かって話すべきだと思うぞ」
『俺にそんな資格は無い』
「あると思うけど?」
その身を挺して守った。
『いいや、無いんだよ。俺には』
憂鬱で、思いつめたような声が、一切の迷いもなく、答えた。




