005:スズメバチの古傷
「皆さんも、ミツバチを守ることは、ご自身の街を守ることだと思って、近づかず、静かに見守って下さると嬉しいです」
東の言葉に自然と拍手が沸いた。
――が。
選挙カーの上の東に向かって、石が飛んだ。
「お前も“ミツバチ総理”みたいに甘い蜜を吸っているんだろが! 俺は知っているぞ! おい、みんな、忘れるな! こいつの“祖父”は三ツ橋 宗輔だぞ――!」
警備とスタッフが石を投げた男を取り押さえ、報道陣が殺到し、群衆から悲鳴と怒号があがった。混乱の中、東は身を隠すことなく、まっすぐに男と対峙した。
男が怯んだ。
北上東は美しい相貌をしていたが、それを損ねるように右目のすぐ横からこめかみにかけて傷があった。
今の石で出来たものではない。
彼が“祖父”と呼ぶ三ツ橋宗輔は、一代で身代を築き上げた人気と実力のある政治家だったが、総理在職中に汚職疑惑が持ち上がり、その最中に頓死してしまった人物だった。
醜い傷は、その事件を知って義憤にかられた暴漢に、今日のように襲われたせいで出来たものだった。十六歳の子どもの顔に大きな傷跡を残した暴力は、どんな理由があっても卑劣な行為だった。怪我の後遺症で、東の右目の視力は著しく低いとも言われていた。
そのため、三ツ橋宗輔に対して批判的な人間であっても、東に対しては後ろめたい気持ちを持つものが多かった。そうでない人々にとっては、同情するばかりの出来事だった。
石を投げた男が連れて行かれると、東は正面を向く。人々は静まり返って、彼の言葉を待った。
「三ツ橋元総理の夫人が、私の祖父の姉にあたる縁で、小さい頃から可愛がってもらいました。私も本当の”祖父”のように慕い、尊敬しています。
任期中にあのような形で世を去ったのは残念なことです。父がその後を継ぎ、今は自分が、若輩者ですが、代わりに国民のために粉骨砕身する覚悟です」
醜い古傷は、そのまま彼の経歴の傷でもあった。だが、それを受け止めた上での、堂々たる態度は、多くの人々の支持を得て、今では『総理になって欲しい人物』の上位に挙げられるまでになった。
野乃花が遠く、遠くなった東の背中を見ていると、思わぬ方向から声を掛けられた。
「すみませーん。ここでミツバチが分蜂していると聞いたので来たのですが?」
またもや野乃花のよく知った声がした。
「こんにちは! ミツバチいますか? あれ? 野乃花? 野乃花じゃないか? 何? もしかして野乃花が連絡してくれたの?」
「太郎!?」
野乃花に明るく話し掛けたのは、幼馴染の広瀬太郎だった。養蜂用の白い防護服を着て、網付の帽子と白い袋を手にしている。
「違うわ。私じゃない」
端から見れば、素っ気ない返事だったが、太郎にはそれがいつもの野乃花だった。普通に会話を続ける。
「そうなんだ。まぁ、いいや。とにかく、ミツバチを保護しに来ました――あれ、どこに行ったのかな?」
太郎が誰かを探すように視線を巡らすと、お目当ての人物は、選挙カーの上にいた東に話し掛けていた。随分と背が高い男性だった。
素早くミツバチの巣を確認した太郎もそちらに行き、駆け付けた警官や運営スタッフも交えて話し合いがはじまった。蜂球のある木と選挙カーのある広場まではそれなりの距離があり、会話は勿論、表情もかなり分かりにくい。けれども、大柄な男性が野乃花の方を見て、はっと表情を変えたのは、なんとなく伝わってきた。