022:鏡よ、鏡
洗面所に行くと、二階のアロマとハーブの店・『ビー・ガーデン』で扱っている蜂蜜を使った化粧品のサンプルがたくさん置いてあった。蜂蜜は保湿力に抗菌力があるだけでなく、石鹸に加えれば泡立ちも良くなるので、様々な商品が展開されているのだ。
たっぷりのぬるま湯で顔を予洗いし、洗顔ネットで蜂蜜と炭の石鹸を泡立てる。そのままその泡でパックをするように顔に乗せ、汚れを吸着させると、これまたたっぷりのぬるま湯で優しく洗い流す。手拭いを……ミツバチが楽しげに飛ぶ柄で、川内美波の店『おひるごはん』の名が一緒に染められている……軽く押し当てるようにして水気を取った。
化粧水は、日本酒とラベンダー蒸留水を合わせ、蜂蜜その他を加えたものにした。水分の蓋となる油分には椿油をつけることにした。一滴だけ手に取り出すと、両手でしっかり温めてから、肌に置くようにして馴染ませる。
「化粧はした方がいいのかしら?」
右手を右頬に置いた。
水分と油分で整えられた肌は、キメが整い、しっとりと手に吸い付く。
鏡の中に、傷一つない自分の顔を見た野乃花は、その代わりに傷を負った男の顔を、思い出さずにはいられなかった。
「あの人、毎日、どんな気持ちで自分の顔を見ているのかしら」
そっと右目の脇を手で撫でる。
『気にしなくてもいいよ』
まるで野乃花の苦悩を先読みしたように、東はそう言った。
「なんで……」
憎んでくれた方が楽だったのに。野乃花が東に対し、そうしたように。祖父と父を陥れた敵の息子として、野乃花は東をそう見做すことで、様々な感情から逃げていた。憎しみは強い感情だ。他に何も考えなくて済む。そう、彼に対して他の感情など、持っていない。
野乃花の頬が熱を持つ。
急いで冷水を蛇口から出し、顔を冷やすと、もう一度、鏡を見た。
「今はどう思っているのかしら? あの人は、昨日、私を一瞥もしなかった」
すると、水道の水よりもずっと冷たい声が答えた。
『この疫病神が! “私の”東に近寄るんじゃない! お前が近くにいると東の不利益にしかならないんだよ!』
野乃花の頬が再び、熱を持った。同じ熱でも、先のとは違う。
じんじんと痛み、口の中には鉄の味まで甦ってくるようだ。
「そうだ。私と関わりになって、いいことなんて何一つなかったじゃない」
怪我とハチに刺された治療の為に、髪の毛は坊主に刈られ、顔の右半分は白い包帯で覆われていた。それでも、赤黒く変色した肌が隠しきれず見えていた。その下が、どんな状態なのか、恐ろしくて考えたくないほどだ。
そんな状態だったのに、東は探しに来てくれたのだ。東京に逃げ帰ってきた野乃花を。それなのにやっぱり、野乃花は素直に彼の手を取れなかった。そしてまた、逃げ遅れた。
「あれで懲りたはずよ。私だって……!
それでも、言えば良かった……」
ごめんなさいって――。
鏡の自分に言っても、何になろう。
***
気持ちの良い朝とは裏腹に、野乃花の気持ちは沈んでしまった。
口を濯いでも、一度、思い出した鉄の味がなくならない。
「いけない……。勤務初日だっていうのに。何か気分を上げることを考えないと。ここに居る為には、頑張らないといけないの」
そうだ――と、野乃花が思い付いたのは、耕之進から託されたパントリーだった。




