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021:眠れる口座

 野乃花は目を覚ました。


「……夢」


 一瞬、戸惑った後、野乃花は自分の居場所を確認した。ここは二×四ビルの六階だ。

 広瀬耕之進は野乃花にすっかり自分の巣を明け渡したどころか、弁護士と孫の太郎を『中鉢』にやって、必要な手続きのほとんど全てを代行してくれた。

 ベッドから起き上がり、新しいパジャマからジーンズとカットソーに着替える。

 なけなしの持ち金と、それから父親の亮が太郎に託した野乃花名義の通帳の預金で揃えたものだ。と言っても、二つ合わせてもそれほどの金額ではなかった。

 野乃花はサイドテーブルから一冊の通帳を取り上げる。黄色に六角形の地紋。ミツバチ太陽銀行のものだ。そこには、十五年前の日付で半年と少しの間、毎月千円が入金された記載が印字されていた。総額、八千円。それっきり。そのせいで、すでに休眠口座扱いになっていたので、行員の太郎が「うちからの知らせが届いていなかったのかな?」と首を傾げた後、解約と新規口座の開設を勧めた。「今なら春のキャンペーン中で、新規開設には粗品に加え、特典に応募出来るよ」

 もう無効になった通帳には穴が開けられた。父が自分に残してくれたお金はわずかだった。それでも野乃花は嬉しいと感じた。

 通帳を大事にしまうと、鏡に全身を映す。


「変じゃないかしら?」


 パンツ姿は久々だった。二×四ビルの仕事にはその方がいいらしい。


「おかしくてもいいんだわ、もう……人前に出る仕事じゃないんだし」


 しばらく眺めた後、そう決断すると、髪の毛をかんざし一本で軽くまとめる。先端に付いたミツバチのモチーフが揺れた。耕之進から渡されたものだ。支度金を受け取るのは断ったのだが、いくつかの物は、二×四ビルで働くには、蜂蜜に関するものを身につけなければならない。言わば、制服だ。という理由で、了承させられた。


「私、気を遣わせている……」


 どうせ野乃花のことだから、素直には受け取らないだろと思われているのだ。正論で外堀を埋められる。それが野乃花に対しての親切だとは頭では分かっている。


「分かっているけど」


 施しを受けたくないという、幼い頃に培った自負心の高さ。

 自分にそこまでしてもらう価値などないという、『中鉢』時代に植え付けられた卑屈さ。

 二つの相反する鎖が、野乃花の心を縛っていた。


「どうすればいいのかしら」


 太郎は「もっと素直になればいいのに」といつも言う。真人は「いつでも頼りにして下さい」と言い残していった。


「分からないわ」


 朝からため息を吐き、顔を洗おうと鏡の前から去ろうとした。


『野乃花ちゃんはそのままでいいんだよ』


 鏡の中から呼びかけられた気がした。慌てて覗き込んだが、勿論、野乃花以外の人間が映っているはずがない。


『そのままでいいんだ。君は』


 鏡の中には相変わらず自分しか映っていないが、野乃花はその言葉を誰が言っていたか、知っていた。

 幼い頃から、ああしなさい、こうであるべき、そうでなければならない、と育てられてきた彼女に、「そのままでいい」と声を掛けてくれたのは、たった一人しかいなかったからだ。

 思えば、彼はいつも彼女を肯定してくれた。最後の最後まで、彼女を守ってくれた。


『気にしなくてもいいよ』


 血まみれになっても尚、その人は、野乃花にそう言ったのだ。

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