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019:クマとスズメバチ

 小野寺真人まひとが仕事を終え、指定されたホテルに向かったのは、夜も八時になろうとしている頃だった。レストランの入り口でトレンチコートを預ける。春とはいえ、この地の夜はまだまだ冷えた。

 そのまま案内された個室に、彼の友人が夕食と思われる湯気の立つ麺をすすっていた。


「お待たせ。先に食べていてくれて良かったよ。……にしても、せっかくここまで来たんだから、牛タンでも食べていけばいいのに」

「これも名物だよ。温麺うーめんだって」

「ああ、県南の方の。胃の調子でも悪いか?」


 温麺は見た目、素麺そっくりの白く細い麺であるが、短くて食べやすく、油を使っていないので胃腸に優しいのが特徴である。病気の父親の為に、孝行息子が考案したという謂れがあるほどだ。様々な味付けで、温かくしても、冷やしても美味しい。


「牛タンは昼間に食べたし、今夜は冷える」


 それも事実だろうが、実際、胃が痛いだろ。


 「今日は災難だったな」と言いかけて止める。代わりに、給仕に「同じものを」と頼んだ。

 本格的な和食の店だったが、駅直結のホテル内にあるためか観光客向けに郷土料理や名物をメニューに加えていた。頑丈な性質の彼の胃は、厚く切った牛タンを熟成したものを炭火で焼いて、とろろと麦ごはん、テールスープを付けて食べたいと訴えたが、それは明日の昼に専門店に駆け込むからと宥めた。

 それからランチの予定はもう決まっていることを思い出す。


「東、野乃花さんは二×四(ニシ)ビルに落ち着いたよ」


 真人がそう”北上きたかみ あずま”に伝えると、彼は手を止め、呟いた。


「そうか」


 それだけだった。

 沈黙が流れた室内に、ついでに頼んでいた生ビールが先に届く。

 「東は飲まないのか?」と聞かれた東は首を振った。「明日も早いんでね」


「そうか。泊まり?」

「ああ。明日は朝から公務で視察に行く」

「……そうか……そう言えば、お前はこっちの担当になったんだっけ。

よろしく頼むよ。北上先生。この地域の振興の為に、こちらも出来る助力は惜しまない」


 神妙な顔で言う真人に、東も同じように頷いた。相変わらず真面目だな、と思いながら。

 北上東と小野寺真人は三ツ橋宗輔が将来有望な若者を私邸に呼び集めて行っていた交流会“三ツ橋の庭”で知り合った仲だった。とは言え、東はその一員ではない。“三ツ橋の庭”に招待されるのは、名家の出身の次男、もしくは三男が占めていたからだ。つまりは宗輔のたった一人の孫娘である”三ツ橋野乃花”の婿養子候補の選定としての場でもあったのだ。

 宗輔の妻である倫子のりこの甥の子どもという立場の東は、ただ、倫子に呼ばれて三ツ橋邸に出入りしているだけであり、その場にいたとしても、いないような身だった。

 多くの者は東をその通りに扱ったが、真人は違った。彼は常に公正で平等な人間だった。

 東は真人を見た。

 こちらが呼んだくせに、特に話もしない相手を気にする様子もなく、まるでそれが目的だったように、美味しそうにビールを一口飲み、お通しに箸をつけている。

 いいや、彼はもう目的を果たしたのだ。

 東の手が、自分の古傷に向かった。


「真人――頼んだぞ」


 誰をとも何をとも言わなかった。

 しかし、真人は「分かっている」と答え、「あまり触るな。癖になるぞ」と気遣った。

 手癖は危険だ。どれだけ言葉や表情で繕っても、その人間の感情を知らせてしまう。

 東が古傷に触れている時は、彼の最大の“弱点”について考えていることを、古い友人は知っていた。

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