018:移動養蜂
一つの場所に巣箱を置き、ミツバチにその周辺に咲く花の蜜を集めてもらう養蜂の他に、人間の方から花が多く咲いている場所を巡って巣箱を設置し、次々と花を追いかけて移動していく養蜂があるのだ。それが移動養蜂、もしくは転地養蜂と言われるものだった。
移動養蜂は全国を巡るので、仕事をしながらの週末養蜂家には出来ることではなかった。
「一度でいい、花を追いかけてミツバチと共に旅をしてみたいのだ。
移動養蜂は大変だ。重い巣箱を運ぶ。体力を使うのだ。
だからこそ、まだ元気な内にやりたい。
幸い、懇意にしている養蜂家がいてね。その人の移動養蜂についていってもいいと言ってくれていたんだ」
そうは言いつつつも、ほとんどお客さん扱いになるだろう。それが分かっているからこそ、仕事を辞めた後も耕之進が養蜂家の厚意にすがるつもりはなかった。
が、事情は変わった。彼は二×四ビルという”巣”をすみやかに空ける必要に迫られた。そして、その理由は”女王バチ”が納得して、『仕方がないから代わりに住んであげよう』という気持ちにさせるものでなければなかった。それには移動養蜂に参加したいというのは実に自然だ。しかも、様々理由をつけて決断出来なかった夢に踏み出す口実にもなると考えた。急いで連絡を取れば、歓迎された。
「明日からでも行きたいのだ。
しかし、私はこの二×四ビルの管理人という仕事をしていてね。屋上のミツバチ達から階下の店子達の面倒を見たり、雑用をこなさないといけない。
ここに住み込んで、その代わりをしてくれる人を至急、探さねばならんのだ。だが、すぐにも来てくれる人で、半年ほどの勤務、しかも、信頼してミツバチを預けられる人となると……おお、野乃花ちゃんがいるではないか! と、言う訳なのだ」
まるで天からの助けのように耕之進は野乃花の存在を歓迎した。
「私、ミツバチを飼ったことありません。あの……”祖父”は飼っていましたが」
「でも、好きだろう?」
問われた野乃花はそっと銀と琥珀のミツバチのブローチに触れる。ミツバチは好きだ。あの黄色と黒の身体。首元のふわふわ。勤勉さ。しかし、時に遊ぶこともある愛嬌。一糸乱れぬ美しい六角形の巣。八の字ダンスをはじめとした動き。一日中見ていても飽きない。
「好きです」
自分の好みを口にするなんて野乃花には久しぶりで罪悪感を抱く。と、同時に、気恥かしさも襲ってきて、はにかんだ。
それは真人が、太郎までもがハッとするほど愛らしかった。耕之進の老いた心にも響くものがあった。
「それが最も重要なことだ。ミツバチの世話に関しては太郎が教えてくれる。
ここには週末ごとに、ミツバチ・プロジェクトのメンバーが集まる。
何も心配することはない」
祖父に野乃花とミツバチを託された孫は、やれやれという顔をしながらも請け負った。
「そうだよ。
基本的にミツバチは干渉されるのを嫌がる。定期的に行われる内検の時はプロジェクト・メンバーが集まるし、台風や強風の時の対策も手が空いているメンバーを招集すればいい。
あ、野乃花は携帯持ってないか……」
「家電がある。後で連絡網を渡そう。パソコンもあるから、フリーメールを取得すればいい。
……パソコンは使えるかな?」
耕之進の質問に、野乃花は少し動揺した。
新しい仕事を探すにも、彼女は何も持っていなかった。
貯金も、住む場所も、経験も――。
その全てを、ここならば手に入れられる。




