017:この街の味
とろりとした琥珀色が、銀のスプーンに乗っていた。それは、働きバチが一生を掛けて集めた蜂蜜と同じ量だった。
「この屋上で飼っているニホンミツバチのものだよ」
ミツバチには「訪花の一定性」という、その時期に、蜜がよく"吹いている"花で集中的に集蜜を行う性質があった。その都度、採蜜を行えば、ほぼ一種類の花からなる蜂蜜・『単花蜂蜜』を得ることが出来た。
これに対して、いろいろな花から集められた蜜は『百花蜂蜜』と言われる。
ニホンミツバチは集蜜量が少ないこともあって、採蜜が年に一度となるため、その蜂蜜は自然と『百花蜂蜜』となる。
「つまり一年分……とはいかないけど、半年分のこの街の味ということになるね」
「この街の味……」
そんなこと考えたこともなかった。野乃花は銀のスプーンを受け取ると、それを舐めた。
ふんわりと香る花の味。濃厚で甘酸っぱい味。
――この街に咲く花を集めた味。
「美味しい」
野乃花は多分、どの街の、どの森の蜂蜜を食べても同じ感想を抱くだろう。
この街の蜂蜜は他と比べて特別ではない。しかし、間違いなく、この蜂蜜はこの街でしか出せない味をしている。そしてそれはとても美味しく、野乃花の心の中に沁みわたった。
梅が咲いて、桜が咲いて、藤が咲く。街路樹のマロニエが咲いて、道々に植えられたハーブ類が咲き、柿の花。栃の花……。そのどれも、野乃花は愛でたことがないのに思い至る。
野乃花よりもずっと身体の小さなミツバチの方が、この街をよく知っている。
顔を上げると、眼下に広がる街並みが見えた。これまでこんな風に景色を見たことがなかった。俯いて暮らしていた訳ではない。野乃花はいつも顔を上げて歩いていた。けれども、真人の言うとおり、彼女は何も見ていなかった。見ることを拒絶していた。
小学生の時、広瀬太郎に蜂蜜を貰った時のことを思い出す。あの時、彼女は自分の運命を受け入れようと決心したのだが、本当の意味では受け入れてはいなかった。いつか帰る、ここから出ていく。そんな気持ちで生きてきた。その結果、どこにも行けない自分になってしまっていた。
野乃花はやっぱり一粒だけ涙を流した。
「今までは余裕がなかったんだよ。でも、今ならそんな余裕も出来ると思うよ。
東京に帰るのもいいけど、ここでの生活を糧にしたものであった欲しい。
ここを嫌いになったまま、出て行って欲しくないんだ」
「まだ二か月も経っていないのに」
先程と同じような台詞に、真人はやはり我が意を得たように微笑んだ。
「自分はここの環境観光課の課長ですから。
住む人が愛せる街でなかったら、来て下さいなんて胸を張って言えません」
『為政者は理想を語り、正論を吐くものだ』と、三ツ橋宗輔はよく言っていた。『ただし、実現する方策を備えていなければ、それは暴論となり、民を苦しめる』とも。
正論を吐く男が合図を送ると、耕之進がやって来た。殊更、嬉しそうな顔だ。
「野乃花ちゃん、実は私はね、仕事を辞めた後、長年の夢を叶えたいとずっと思って来たんだ。しかし、それには協力者がいる」
後ろの太郎は困っていた。まさか祖父がそんなことを考えているなど、まして、実行しようとは想像もしていなかったからだ。
「なんでしょうか?」
「私は”移動養蜂”をしてみたかったのだよ」
「移動養蜂?」
語尾が疑問形になったが、野乃花は勿論、それについて知識があった。




