015:女王バチの涙
中鉢の大女将・由布子も、野乃花の頬を打つことはしなかった。しかし、食事を出していないのは事実だった。
「だって広瀬のお坊ちゃん、せっかく用意して出したのに、何が気に入らないのか、だんまりで、箸もつけなかったんですよ。
もったいないじゃないですか。世の中には満足にご飯も食べられない子どもがたくさんいるんですよ。
前の家で、どれだけちやほやされたお嬢さまか知りませんがね、私に言わせれば、自尊心ばかり肥大した、贅沢で我が儘な子です。
なぜ、私たちが『どうか食べて下さい』とお願いしないといけないのでしょう。
あの子から『ご飯を食べさせて下さい』と言うまで、食事は出しません。
これは虐待ではなくて、教育です。
お腹が減ったら、そう言えばちゃんと食べさせますよ。簡単なことです」
素直な性質だった太郎は、確かに簡単な事だと思った。と、同時に、大人が折れてあげることだって、難しいことでもないと感じた。
由布子はさらに、身体が丈夫ではない由香子に、気苦労をかけていることを責めた。今回の件で、ついには寝込んでしまったらしい。
亮は、由香子の看病と、由利の面倒を見るのにかかりっきりだとも言った。その口調には、どこか勝ち誇った響きがあった。
今の野乃花に寄り添える大人は、中鉢にはいないどころか、由布子によって、ますます意固地にさせてしまう。
そう案じた太郎は、彼なりに考えた結果、持って来ていた蜂蜜のスティックを手渡すことにした。
その頃には、彼の祖父はすっかりミツバチ狂で、「蜂蜜はその八十パーセント以上が単糖類のブドウ糖と果糖で構成されているから、消化する必要もなく、胃腸の負担が少なくて済み、すぐに体内で使える素晴らしいエネルギー源なのだ」と言うのを常々、聞かされていたからだ。空腹の野乃花にはちょうどいい。
蜂蜜は、『ミツバチ太陽銀行』本店の屋上で採取されたものだった。
『ミツバチ太陽銀行』は地域貢献の一環として、近隣の小学校の児童向けに、毎年、本店の屋上でミツバチの観察会を開いていた。
『人間はミツバチが集めた蜂蜜を食べていますが、ミツバチは人間の為に蜜を集めている訳ではありません。
蜂蜜はミツバチの食べ物なんです。それを人間は分けてもらっているのです。
だから花の蜜が採れない冬に備えた分の蜂蜜は採ってはいけません。
ミツバチは冬を越すために、自分たちの蜂蜜をきちんと貯蓄するんですよ』
小さな子どもに貯蓄の啓蒙も忘れない『ミツバチ太陽銀行』も、秋の花から採取された蜜から作られた蜂蜜はミツバチの冬越しのエネルギーとして残すために、採蜜は夏までとしていた。そして、その年の採蜜が全て終わった後、スティックタイプ状に個包装したものを、観察会に来てくれた児童に贈ることにしているのだ。その行事は今でも続いている。
だから太郎は、それが小学五年生の初秋の出来事だったと、すぐに思い出せる。
「これ、給食の時に配られたんだ。君の分だから。甘くて美味しいよ」
ミツバチ観察会は野乃花が在籍する前で、彼女は参加していなかったが、蜂蜜は配布時の人数分用意されていた。野乃花が欠席で余った分を、男子達がジャンケンでその所有権を決めようとしていたが、太郎はそれを止めて持ってきていたのだ。
野乃花はすぐにはそれを受け取らなかった。しばしじっと見つめてから、一旦、目をつむり、何かを決意したように開いた。
「……ありがとう」
蜂蜜を一口、含んだ野乃花は「美味しいわ」と呟き、一粒だけ、その赤く熱をもった頬に涙を流した。




