第6話 前進あるのみ
1日目の準備作業はあらかた片付き、クラスメイトは帰って行った。
教室には、長引いている優子を待つ文香と、作業がまだ終わらなかったらしい恭子だけが残る。
スケッチブックを抱えて胡坐を組んで座っている恭子と背中合わせに、文香は足を延ばして座り込む。
「ねえ、のの〜」と恭子の背中にもたれながら話しかける。
「何?重い、邪魔」
「あのさ〜、昼はありがと。なんかちょっと前進できたかも」
「ふ〜ん」
「それでもさ〜、やっぱ分からないんだよね。好きかどうか」
「ふ〜ん」
「さっきさ、晴美たちにも聞いてみたわけ。好きってどんな?って。でもやっぱ分かんなくてさ〜。これは好きじゃないってことかな〜」
「さあねえ」
「きーてるー?ののは好きな人いる?好きってどんな?」
「あーのーねー。邪魔しないでよ。帰れなくなるじゃない!」
「ちぇ、冷たいヤツ」
大きく恭子が息をつくのが聞こえた。
「しょうがないな、このオコチャマは。あのね、恋愛なんていろんな形があるわけよ。それぞれがいろんな気持ちの集合体に恋って名づけてまとめてるの。だからはっきり言って、なかやんの気持ちが恋かどうかなんて誰にも決められないのよ」
「そんなもの?」
「少なくとも、私はそう思う。だから恋かどうか、なんてことよりアンタがどうしたいかって考えてみたら?このままポチ公とずっと仲良くしたいって思うなら、付き合えばいいし、別にこれでバイバイして単なる顔見知りに戻ってもいいなら、はっきり断ればいいのよ!」
「う〜ん」
「どうなの?」
「バイバイはちょっとさみしいかも?」
「じゃあ、付き合えば?」
「でもなんか違和感がぬぐいきれない気がするんだよね」
「今はそうでも、付き合ってみたら変わるかもよ?」
「え〜、そーかなー?」
「じゃあ、キスされてどう思った?うれしかった?嫌だった?」
「ん〜、嫌、じゃなかった、と思う。・・・ああなんかポチ公とキスするってこんなカンジなんだなあって思った」
「・・・アンタ、感情の起伏薄すぎでしょ、ソレ。まあ、ともかく嫌じゃなかったなら、どっちでもいいんじゃない?」
「のの〜?なにその投げやりな感じは?」
「好きかどうかは、付き合おうが付き合わなかろうが、そのうち分かるよ。後悔はするかもしれないけどね。ただし、付き合えばキスとか?それ以上の関係とか?迫られるのは必至だから覚悟しなさいよ?」
「後悔はあんまりしたくないな〜。キスとかそれ以上とかは〜まあどうでもいいかな〜」
「・・・あんた意外に節度ないね・・・処女のくせして・・・ともかく後悔したくないなら、結論出るまであがきなさいよ」
「うん。ねえ、例えばさ、どんな後悔がありえるかなあ?後悔するとしたら、付き合ってみてやっぱ好きじゃなかったーて場合と、付き合うのやめてやっぱ好きって後から気づいちゃった場合だよね?」
「まさか、どっちのリスクが大きいかで結論変えるつもり?打算的な女だな」
「だってよく考えてみると、前者はポチ公が泣く結果、後者は私が泣く結果になるってワケじゃん?」
「ちょっと、ヒドイこと考えてるでしょ?前者だって、なかやんが泣く場合もあるでしょ?」
「なんで?」
「たとえば・・・ポチ公と付き合う、でも恋愛感情じゃないからアンタは他に好きな男ができるワケ。するとポチ公との関係は清算しなきゃってなる。で、その頃には今以上に愛着の湧いてるであろうポチ公を泣く泣く里子に出すってわけだ。ほら罪悪感湧いて来た?苦しいでしょこれも」
「・・・ナニソレ、モーソー?」
「損得勘定じゃなくて、もっと自分がどうしたいのかを考えなってコト!」
「・・・」
「ほら、もうわかったら、邪魔すんな!重い!」
恭子に背中を押し返されて、文香はしぶしぶ立ち上がる。
「アンタそのままポチ公のところ行ってきな。そんで、分かりませんでしたーて言ってきな。アンタの場合は経験不足。一度ぶつかってきなよ。このままじゃ埒明かないでしょ?」
「え〜」と渋る文香をいつになく怖い顔で「ウザい。出て行け」と恭子は追い出した。
追い出された文香はいやいやながらも、覚悟をきめた。それでもとぼとぼと暗い階段を上っていると、バタバタッと急に大きな足音が聞こえた。
「ん?」と顔を上げると同時に、駆け降りてきた誰かと右肩が接触した。
「んが!」強い衝撃を受けて文香はのけ反る。
―ぎゃあ、落ちる落ちる落っこちる!死ぬー!
バランスを崩して倒れそうになった文香は、腕をアワアワと振り回し、指先に触ったものを引っ掴んだ。
「うわっ」
「うぎゃ〜!」
少しの浮遊感と衝撃の後、文香は固くつむっていた目を開く。
「アイタタタ」と肩をさすりながら起き上がると、どうやらぶつかって来た誰かを思いっきり下敷きにしたらしい。
大した怪我をしなかったことを確認しながら、立ち上がり、自分の下にいた、うつぶせに倒れている人に声をかける。
「あの〜、大丈夫ですか?」
もぞもぞと動き出したことにホッとしながら、近寄ってしゃがみ込み、肩を叩きながらもう一度声をかける。
「大丈夫ですか?意識はありますか?えーと、ここがどこかわかりますか?自分の名前を言えますか?」
救急処置の手順を思い返しながら、とりあえず意識確認をしてみた。
「えーと、ここは高校の階段で、名前は橘裕也・・・」
「意識は大丈夫そうね。じゃあ、どこか痛いところはありませんか?足は大丈夫ですか?」
「なんとか無事。痛いけど」
「う〜ん、とりあえず保健室行きますか。立てますか?」
「ああ、ありがとう。なんとか立てそうだ。ってオマエ中山か?」
「ん?げっ、若っング、じゃなくて橘君!!!」
「・・・なんでお前が今頃びっくりするんだよ?俺はさっき名乗ってるだろうが」
「いや〜、ちょっと慌てて聞き逃した。えへっ」
「今のが慌ててたのか?俺には至極落ち着いているように見えたけど・・・」
「で?怪我は?保健室行く?」
「いや。大丈夫だ。打ち身くらいだろう。それほど上から落ちたわけじゃないし。・・・悪かったなぶつかって」
「いえいえ、こちらこそ下敷きにしちゃってごめんね。・・・で、何をそう慌ててたの?」
「あっそうだ!電車の時間!・・・いや、いい、次の電車にする」
「あらら、まあ飛び込み乗車は危険だし?そんな急がなくてもまだ電車はあるんでしょ?」
「まあな。ただ今の逃すと乗り継ぎが面倒なんだ・・・」
「そうか、それはそれはご愁傷様です」
「ご丁寧に傷み入ります」
―あれ?なんかまた同じようなパターンになっちゃった?
顔を上げると、橘もやはり同じことを思ったのだろう、目が合い、一緒に噴き出す。
「あ〜、もう暗いんだから電気ぐらい点けないとね。あやうく魂ぬけかけたよ」
そう笑って、文香は立ち上がって電気を点けた。急に明るくなったため目をしばたかせて、やはり立ち上がってきた橘を見る。
「ほんとに大丈夫?あっごめん。背中に思いっきり私の足跡が付いてる」
「え?」
「ちょっと背中貸して?」
ぱたぱたとはたいてやると、だいぶ足跡は薄くなったが、うっすら黒くなっている。
「まだ、ちょっと汚れてるけど、後は洗濯してもらってね」
「ああ、了解」
そんなやり取りをしてから、文香が階段を上り始めると、橘も教室に戻るのだろう、一緒に上り始めた。
「橘君も、慌ててるからって階段を駆け下りちゃだめだよ」
「はは、悪い悪い。でも中山も前見てなかっただろ」
「ううっ、そうだけど、今回のは断然、橘君に責任があると思うな」
「・・・だな。スマン」
「あはは。ま、お互い気をつけようね」
「あっ!ふみちゃん!」
「うん?」
足元を見ながら階段を上っていた文香は、突然違う方向から聞こえてきた声に顔を上げた。
―あ、ポチ公
「えっと、斎藤君。なんか久しぶりだね」
「ああ?誰かさんが避けてたんじゃなかったっけ?」
「うっ」
心当たりがめちゃくちゃあった文香は眼をそらす。斎藤は無表情で文香と橘の様子を見つめる。
微妙な雰囲気を感じたのか、橘が「じゃあ、中山。俺、先行くわ」と声をかけて文香を置き去りにする。
―橘!若殿なら助けろ!弱きを助ける武士道精神はどうした?!
心の中で助けを求めたが、無情にもその背中は遠ざかっていく。すぐに見えなくなった背中のあった場所を睨みながら、「若殿」の身分は旗本じゃなくて御家人なんだから、と格下げを決定した。
「それで、3階に何か用事?」
「えっ・・・え〜と優ちゃんの様子をうかがいに・・・」
「ん?木下なら今日は帰ったぞ」
「えっ、嘘!・・・じゃあ私も帰る・・・」
「じゃあ、俺も帰ろ・・・」
文香は教室に戻りかけたが、恭子の顔を思い出して考え直す。
「あの、斎藤君。話があるんだけど」
「ん〜、何?」
「ちょっと、こっち来て」
階段を下りて、昇降口まで行き、誰もいないことを確認してから立ち止まり、斎藤を振り返る。
「あのさ、私ちょっと考えたんだけど」
「ん、何?」
「あ〜、その前に聞いていい?」
「ん?」
「何であんなことしたの?」
「あんなこと?」
「分かってるでしょ?木曜日の放課後、斎藤君が私にしたことだよ」
「ああ、なんでキスしたか?」
「・・・うん」
「そりゃ、したかったからデショ」
「だから、なんでしたかったのか聞いてるの!」
「そりゃ、ふみちゃんが好きだからデショ」
その軽い口調に文香は斎藤の顔を見る。
しかし口調とは裏腹に斎藤の顔は笑っていない。
「・・・そう。でも、私の気持ちを無視してそういうことをしないで欲しい」
「ふみちゃんの気持ち?」
「私は・・・斎藤君のこと好きなのかどうか分からない。曖昧な気持ちしかない」
「うん」
「だから、斎藤君と付き合わないし、キスもしない」
「ん」
「でも斎藤君の気持ちに気づかないふりして無視してたのは悪いと思ってマス。斎藤君と一緒にいると楽しかったから、ズルイことした。ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げ、頭を上げると同時に肩を掴まれて引き寄せられる。
柑橘系の香りが鼻をつき、直後斎藤の固い胸に肩を抱かれて押し付けられる。
―・・・ポチ公、やっぱ体温高い・・・
それほど小さいわけでもない標準サイズの文香がすっぽりと納まる、意外に筋肉質な胸にドギマギしながらも、急いで離れようと体をよじる。
「・・・動くな・・・他には何もしねぇから」
そんな斎藤の勝手な言葉に、それでも文香は力を抜いた。
「ふみちゃんがいいって言うまで何もしない。だから、これまで通りに付き合って?」
「そんなの無理・・・」
「なんで?ふみちゃんも楽しかったって言ったじゃん?」
「でも、斎藤君の気持ちに気づいちゃったら、それまで通り楽しくなんて、無理」
「でも、ふみちゃんも俺のこと好きかもよ?分かんないんだろ?」
「好きじゃない可能性もあるんだけど・・・分かるまで待ってもらうなんて、できないよ」
「でも、まだ待てる。待ちたい」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・じゃあ、文化祭が終わるまで待って?はっきり返事をするから。それまでもう少し考えてみる」
「でも文化祭までじゃ、放課後一緒にいれないじゃん」
「そうだけど、もう避けないから。そうしたいの。ずるずる斎藤君の気持ちを無視して楽しく過ごすことなんてこと、もうしたくないよ」
「・・・そっか。わかった」
「ごめんね」
言いながら文香が斎藤の胸に額を軽くぶつけると、斎藤は文香の肩を押して、腕の中から解放する。
「はあ〜。じゃあ俺、もう帰るわ。あっそうだ、木下まだ教室にいるよ。さっきのは嘘」
「え?」
「ちょっとふみちゃんと話したかったからさ。なんか橘と楽しそーにおしゃべりしてるし?」
「楽しそーって、そんなんじゃないよ!」
「どーであっても、ムカつく・・・ぐぁ〜かっこ悪いこと言っちったよ・・・。じゃ、ホント帰るわ。バイバイ」
「バイバイ、また明日ね」
さて教室に戻るか、と首をパキパキ回しながら階段に向かうと、階段に恭子が座っていた。
「ぉわっと・・・聞いてたんだ?」
「まあね。帰ろうと思ったら、進行方向が取り込み中だったから、待ってたの」
「そっか、悪い」
「ううん、まあ、お疲れサン」
「うん、疲れた・・・」
「なかやん、アンタにしては、よく頑張ったじゃん?」
「ははは、そっかな」
「あくまでも、アンタにしては、だけどね」
「ふん」
「じゃあ、じっくり考えなよ。お先!」
「は〜い、またね〜」
立ち上がる恭子に手を貸しながら、軽く挨拶を交わして別れる。
―ののがいてくれてよかった、いなかったら自己嫌悪で溺れてたな・・・
そのまま勢いよく3階まで階段を駆け上がった。