少年、月に向かう
美佐がその話を聞いたのは、彼女がエルフの面々に説明をしていたまさにその時であった。
「月ですって?」
高雄からその言葉を聞いた美佐は、最初相手の正気を疑った。体育館ごと月に飛ばす。意味が分からなかった。
「あなた、それ本当に言ってるの?」
「少なくとも、向こうは本気でやろうとしてます」
美佐は呆れた顔を浮かべた。横にいたジョゼは腕を組んでニヤニヤ笑っていた。そしてすぐに、美佐は他の面々も同じように飛ばすのかと高雄に尋ねた。
「そのつもりです」
「やっぱりそうなのね」
予想通りの返答であった。美佐は頭を抱えた。今目の前にある事案が、完全に自分の常識の範疇を逸脱していたからだ。
しかしそこで「意味が分からないからこれ以上はつきあわない」と膝を折るのは、彼女のプライドが許さなかった。美佐は表情を引き締め、気丈な態度で高雄に問いかけた。
「話はわかったわ。要は学園にいる余所者連中を全員地球外に飛ばすということに決まったのね?」
「そうなります」
「飛ばされる方ははそれに同意したのかしら」
「皆喜んでました」
「あなたも月に行くの?」
「そうです」
最後の高雄の返答を聞いた瞬間、美佐の目の色が変わった。ジョゼは口笛を吹いた。
「どうしてあなたが行くのよ」
「コロヌスさんが向こうで彼らの監督を務める事になりまして。その手伝いをするつもりなんです」
美佐の問いかけに高雄は正直に答えた。美佐はますます動揺した。
いつの間にそんな話になっていたんだ。困惑する美佐の横でジョゼが言った。
「即断即決はあいつの十八番だからね」
「まあ確かに、決まるのは速かったですね。ところで美佐さんはどうするんですか? 向こうに行くんですか?」
そんな美佐に、今度は高雄が尋ねてきた。それはジョゼの言葉に答えてからの質問であり、美佐は最初彼が何を言っているのかわからなかった。
しかし聡明な彼女は、すぐにその質問の意図を察した。そして知ると同時に困惑した。
「ど、どうして私が月に行かなくちゃいけないのよ」
「さっきまでエルフの人達と仲良くしてたものですから、あなたがこの人達の面倒見るのかなって思いまして」
「私はあくまで、彼らの頼みを一時的に聞いてるだけよ。そこまで付き合う義理は無いわ」
「え? そうなんですか?」
その時、近くにいたエルフの一人が美佐に声をかける。その目は潤み、今にも泣きそうだった。
「ここでお別れなんですか? せっかくですから一緒に行きましょうよ」
美佐と離れたくない。そのエルフの目は言外にそう告げていた。見れば他のエルフ達も、それと同様の視線を美佐に向けていた。
「お願いします」
「見捨てないでください」
「ええ……」
異口同音に声が響く。エルフ達の合唱が体育館に響く。
正直、美佐は迷惑に思った。彼女はあからさまに苦虫を噛み潰した顔を見せたが、それを見た高雄が諭すように言った。
「せっかくですから、付き合ってあげてもいいんじゃないですか?」
「はあ? どうして私が?」
「だって、エルフ達とても美佐さんに懐いてるみたいだし。きっと他に頼る人がいないんですよ」
「コロヌスにやらせればいいじゃない」
「みんなはあなたがいいそうですよ」
高雄の言葉に従うまま、美佐が改めてエルフ達に目を向ける。一カ所に集まった彼らは、皆一様に期待の眼差しを彼女に向けていた。
美佐はますます困惑した。
「どうして私なの? 他に優秀な人はいくらでもいるのに」
「たぶん優しく接したからじゃないですか? コロヌスさんは縄解いて広場に集めただけでしたし。きっとこっちの世界で真摯に接してきたのは、あなたが初めてだったんだと思うんです」
「そんな理由で?」
優しくするんじゃなかった。美佐は心から後悔した。横でジョゼがため息をつくのが聞こえてくる。
しかしどれだけ後悔しても、目の前の状況は絶対に覆らなかった。
「お願いします。今頼れるのはあなただけなんです」
「お願いします!」
一人が頼み込むと、途端に方々から同じような声が一斉に上がる。彼らの決意は固かった。
もう腹を括るしか無い。美佐は今の自分に逃げ場所が無いことを悟った。
「……私、政治とかそういうの得意じゃないんだけど、それでもいいの?」
「もちろんです。私達も全然知りませんから」
「私子供なんだけど。本当にいいのね?」
「はい。私達のいた世界では子供の王も珍しくありませんでしたから」
「それは最初からそういう教育を施されてきただけでしょうが」
美佐は突っ込みを入れたが、拒絶する事は無かった。彼女は一度深呼吸をし、それからエルフ達を見て言い放った。
「わかった。私があなた達の面倒を見る。あまり期待しすぎないでよね?」
「はい!」
「ありがとうございます!」
エルフ達は一斉に表情を明るくした。それはまさに地獄で仏に会ったかのような、救われた事を喜び感謝する顔だった。
「やった! この人が一緒に来てくれるぞ!」
「本当に良かった! 助かった!」
「ばんざーい!」
誰もが嬉しさを爆発させていた。しかしその光景を見た美佐は、なおも釈然としない表情を見せていた。なぜここまで喜ばれるのか理解できなかったからだ。
そんな美佐に向かって、ジョゼが笑いながら言葉を放った。
「エルフってのはね、人の心を敏感に読みとる事が出来るのよ。その彼らが、あんたの優しさを読み取ったの」
「優しさですって?」
「そう、優しい気持ちをね。それで彼らは確信したのよ。この人にならついていける。一緒に進んでいける、ってね」
「現状ではこの人が一番マシだ、の間違いではないのかしら?」
「捻くれてるわね。まあそれも間違いではないのでしょうけど、素直に喜ぶのも大事よ?」
大人しく喜べない美佐に向かって、ジョゼが苦笑しながら口を尖らせる。美佐はツンとした態度を崩さず、そのままジョゼに言った。
「ところで、あなたはどうするの? こっちに残るの?」
「まさか。私もあんたと一緒に行くわよ」
「はあ?」
どうして? ジョゼを見た美佐が目で問いかける。ジョゼは肩を竦めてそれに答えた。
「あんたが放っておけないからね。あんた、結構溜め込むタイプみたいだし。相談役が傍にいた方が落ち着くでしょ?」
「お節介ってこと?」
「そういうこと。それから拒んでも駄目だからね。どれだけ拒否られても、私はあんたと一緒に月に行く。これは決定事項だから」
ジョゼは頑なだった。その顔つきと口調から相手が譲る気のない事を察した美佐は、それ以上抵抗するのを諦めた。これから死ぬほど面倒な事に巻き込まれるというのに、今ここでくだらない事に労力を割きたくなかった。
「勝手になさい」
「もちろんそのつもりよ」
投げ遣りに放った美佐の言葉にジョゼが反応する。その後ジョゼは高雄の方に向き直り、そのまま彼に問いかけた。
「それで、いつやるのかしら?」
「準備が終わったら僕の方に連絡が来ることになってます。今日中に仕上がるって言ってましたけど……」
高雄の携帯電話が音を立てて震えだしたのは、彼がそう答えたまさにその時だった。