悪魔、笑う
綾野美佐は困惑していた。彼女は今、藤澤高雄やコロヌス・デル・トリスタータらと共にテーブルを囲み、そこで彼らと一緒に夕食をとっていた。
「コロヌスさん、僕達でお鍋運ぶんで、配膳の方お願いします」
「よしきた。サラダの皿も持ってきた方がいいか?」
「お願いします。それとコロヌス様、ドレッシングもついでに持ってきていただけないでしょうか?」
「わかった。持ってくるとしよう」
自分がここに運び込まれてきた理由については理解していた。藤澤高雄の自宅についた途端、痛みと疲労で意識を手放してしまった事も自覚していた――実際はアイビーの魔法で眠らされたからなのだが、美佐本人はそう思っていた。
ではなぜ覚醒し、傷も癒えた自分がこんなことをしているのか? それが全く解らなかった。
「今日のメニューはシチューでございます。暖かい内にお召し上がりください」
「む? 今日のこいつは白いんだな。前に食べたものは黒っぽかったが」
「この前のあれはビーフシチューで、今日のこれはクリームシチューっていうんですよ」
「シチューにも種類があるのか? 面白いな」
そして自分と共に食卓を囲んでいた三人は、目の前で平然と会話を交わしていた。まるで自分など存在していないかのように、和気藹々と食事を楽しんでいた。
美佐はますます混乱した。彼女はスプーンを手に持ち、手元に置かれたシチューを呆然と見つめた。今自分が置かれているこの状況の意図を読みとる事が出来ず、思考回路がショートしてしまっていたのだ。
こいつらはいったい何がしたいんだ。わざわざ敵に塩を送るような真似をして、いったい何を企んでいるんだ?
「どうした? 食べないのか?」
「ひゃいっ!?」
その時、唐突にコロヌスが声をかける。いきなり呼びかけられた美佐は驚きのあまり素っ頓狂な声を上げ、そしてそれを聞いた三人は一様に呆然とした表情を浮かべた。
「え?」
「へえ……」
「今のはなかなか……」
三人がまじまじと自分を見つめてくる。そんな三人の顔を見ている内に、美佐もまた己の「失態」に気づいて顔を赤くする。
「な、なによ!? なんなのよ!」
そして自分の恥を誤魔化さんとして、その顔をより一層真っ赤にして声を張り上げる。注目していた相手からいきなり叫ばれた三人は再び驚いたが、そのうち高雄が「変に注目してごめんなさい」と素直に謝った後で躊躇いがちに美佐に言った。
「その、なんていうか」
「な、何よ」
「あなたも、その、そういうかわいい反応するんだなって、思って……」
「なっ……」
美佐が顔を三度赤くする。しかしその顔を覆う「赤み」は、それまでのものとは趣を異にしていた。
ではそれはいったい何に起因するものなのか。そこにいた四人の中で、少なくともアイビーはそれを悟っていた。淫魔の嗅覚からは何者も逃れられないのだ。
「そ、それ、どういう意味ですか? さっきの反応見るまで、私が血も涙もない人形みたいな奴だと思ってたって事なんですか?」
そして「それ」――本人もまだ自覚していない美佐の感情の揺れに気づいたアイビーが人知れず他人事のようにニヤニヤと笑みを浮かべるその横で、美佐が強い口調で高雄に詰め寄る。問われた高雄は、本当に彼女の言葉通りに思っていたのだが、だからといってハッキリ「その通りだ」と言える訳もなく、結局視線を逸らして口ごもるばかりであった。
「そうだ。私はそう思っていたぞ」
するとその瞬間、コロヌスが横から口を挟んできた。こちらは高雄と違い、容赦なくバッサリと切り込んできた。
一方でストレートにそう言われた美佐は口を噤むしか無かった。まさかこうも全肯定されるとは思っておらず、目を剥いて驚愕と憤りのない交ぜになった表情をコロヌスに向けた。
「だってお前、私達に会う度に仏頂面見せて来るんだものな。感情というものをまるで見せてこないから、そう思われても仕方ないだろう。第一私がそう思ってた」
そんな表情を向けられながら、それでもコロヌスは平然と言葉を続けた。一方の美佐はそうズバズバと容赦なく言ってくるコロヌスを前にして、とても不愉快な気分になった。少しは相手の気持ちを汲んで手加減してやろうとは思わないのだろうか?
しかし美佐自身、彼らに対してそういう態度を取っていたという自覚があったので、美佐は結局怒るに怒れなかった。相手にそのような印象を持たせてしまったのは、結局は自分のせいであるからだ。
「だから、さっきの反応を見た時は、正直言ってほっとしたな」
しかし次にそのコロヌスの放った言葉を聞いて、美佐は唖然とした。それはいったいどういう意味だ? 視線でそう問いかけてくる美佐に対し、コロヌスは力を抜くように肩を落としながらそれに答えた。
「お前もちゃんと人並みの反応が出来るんだなと思ってな」
「……ッ」
それを聞いた美佐は先程自分があげた「悲鳴」を思いだし、バツの悪い表情を浮かべた。それから彼女は小さい声で「あれは忘れてください」と言った。
「ご安心を。それで笑ったりはしませんよ」
そこでアイビーが声をかける。美佐がそちらに顔を向けると、アイビーは嘲笑も挑発もせずに優しげな笑みを浮かべていた。
「私達はそこまで愚かではありません。それに良いではありませんか。人間たるもの、感情は発露してしかるべき生き物ですからね」
「それは……」
「人前で泣いたり笑ったりするのは恥ずかしいですか?」
口ごもる美佐にアイビーが追い打ちをかける。図星を突かれた美佐はさらに気まずい顔を見せたが、それを見たアイビーは一瞬意地の悪い笑みを浮かべた後、すぐにいつも通りの澄まし顔に戻って彼女に声をかけた。
「それは間違っています。誰かの前で自然と泣いたり笑ったり出来るのは、それだけ相手を信用しているということ。決して恥ではありません」
「……」
「それに、高雄様も終始渋い顔を見せる女性より、喜怒哀楽をはっきり表現していく女性の方が好みですよね?」
「えっ?」
「えっ?」
いきなり話の渦中に巻き込まれた高雄が驚いてアイビーの方を見る。美佐も同じタイミングで驚きの声を上げていたが、高雄はそれに気づかなかった。
その一方で、アイビーは彼が自分の方を見てくる前から高雄に視線を向けていた。彼を見つめるその顔はとても穏やかに微笑んでいた。
悪魔が笑っていた。
「どうなのですか、高雄様?」
「え、あの、その」
アイビーが重ねて問いかける。高雄は少し戸惑った後、素直にそれを肯定した。
「は、はい。僕もその、明るい人の方が好き、です」
美佐が息をのむ。コロヌスがつまらなそうに頬杖を突く。アイビーが「ほらね?」と満面の笑みを美佐に向ける。
美佐を見る悪魔はニコニコと笑っていた。
「だからあなたもそんな堅苦しくしてないで、もう少し表情を解してみてはいかがですか?」
迷える少女に悪魔が囁く。アイビーに見つめられた美佐は何も言い返せずにその瞳をじっと見つめ返し、それを見たサキュバスの主は人知れずため息をついた。
「人を玩具にするのも程々にしておけよ」
「玩具になどしていません。私はただ、この子の本当の感情を、この子自身に自覚させてあげようとしているだけなのです」
「本当の感情だと?」
コロヌスが眉をひそめる。高雄も興味深そうにアイビーを見つめる。一方でアイビーの言葉を聞いた美佐は咄嗟に何かを悟り、その次の瞬間、逃げるようにアイビーから視線を逸らした。
その顔は茹で蛸のように赤くなっていた。
「そんな、それは」
「おや、もしかしてお気づきになられた?」
「さっきから何の話をしているんだ。我々にもわかりやすく説明してくれ」
その美佐の反応に気づいたアイビーが愉快げに彼女に声をかけ、さらにそのアイビーに向かってコロヌスが不満をぶつける。
アイビーはそのコロヌスの方を向き、「本当に聞きたいんですか?」と問いかけた。その勿体ぶった言い方が逆にコロヌスの好奇心を逆撫でした。
「いいから教えろ。もったいつけるな」
「好きなんですよ」
全く唐突であった。三人が同時にアイビーを見つめ、アイビーその視線を受けながら澄まし顔で再び言った。
「一目惚れというやつです。こちらの方は高雄様を好きになられたようです」
「……は?」
は?
何を言っているんだこいつは。
「私の紫蔦眼光は全てを見通します。そしてこの我が眼が、この者の本心をしっかりと捉えたのです。その内に眠る、高雄様への愛の炎を」
アイビーがゆっくりと美佐を見つめる。悪魔に見つめられた美佐は、まるで自分の心臓を鷲掴みにされたかのような錯覚を覚えた。背筋が凍り付き、息が詰まる。
「ば、馬鹿なことを言わないで。私が、そ、そんなことあるわけないじゃない。そんなの」
アイビーに見据えられた美佐が苦し紛れに声を放つ。だが心臓の締め付けは一向に治まらない。
こいつの言っていることは全部出鱈目だ。なのになぜ、こうも胸が苦しいんだ?
「いい加減にして。いくらなんでも失礼よ。嘘をついて人を混乱させるなんて、最低よ」
否定すればするほど胸の苦しさが強まっていく。なんだこれは? いったい自分の体はどうなってしまったんだ?
まったく忌々しい!
「この嘘つき! 私を苛めてそんなに楽しい? 仕返しのつもりなのかしら?」
「私は嘘をついているつもりは無いのですが」
そんな混乱の極みにあった美佐に対し、アイビーは平然とそう言い返した。それからアイビーはゆっくり視線を高雄に移し、「あなたがあくまで否定するというのなら、それでも構いませんが」と言った上で言葉を続けた。
「ではあなたは、高雄様が他の誰かに取られてしまっても構わないと言うのですね? 自分よりも劣る、どこの馬の骨とも知れない女に高雄様を独占され、自分の手の届かない所に行ってしまわれても構わないと?」
「それは駄目!」
全く不意に美佐が叫ぶ。それを聞いた高雄が反射的に美佐の方に目をやり、そして美佐もまた無意識のうちに放たれた自分の言葉に驚きながら、高雄の視線に気づいてそちらに目を向けた。
両者の視線が重なる。互いの目線に気づいた二人は慌てて視線を逸らす。
「そんなにジロジロ見ないで」
「ご、ごめん」
横を向いたまま美佐が弱々しく言い放つ。そこにこれまで見せていた冷徹さは完全に無く、今の彼女は完全に「乙女」と化していた。そして高雄もまた顔を俯かせながら声を絞り出し、どう反応していいかわからないと言わんばかりに困惑の顔を見せていた。
それは端から見れば、非常に初々しい光景であった。
「マジかよ……」
それを見たコロヌスは唖然としていた。目と口をあんぐりと開け、まさに驚愕の表情を二人に向けていた。
殺意を向ける余裕すらなかった。
「ああ、眼福眼福」
そんな主に対し、アイビーは新たな恋の芽生えを前にして恍惚の表情を浮かべていた。主であるコロヌスの恋路を邪魔する人間が現れた事に対する危機感はまるでなく、それどころか、彼女はコロヌスに恋のライバルが現れた事に対して喜びすら感じていた。
やった。これで当面は退屈せずに済みそうだ。アイビーは主君への忠誠心よりも、淫魔としての好奇心を優先したのだった。
「さ、早く食事を済ませてしまいましょう。冷めてしまってはせっかくの料理が美味しく無くなってしまいますからね」
そうして一人満足感を覚えながら、アイビーが他の三人に声をかける。他の三人はそれぞれが気まずい表情を浮かべたまま、アイビーの「要求」通りに黙々と食事を再開した。別にアイビーが催眠術をかけたから素直にそれに応じたのではない。単純に何かをして気を紛らわせないと、やってられなかったのだ。
「今日のシチューも私が一人で作ってみたのですが、いかがでしょうか? 高雄様、美味しく出来ていますでしょうか?」
「う、うん。すごい美味しいよ。おいしい」
「まあ、良かった。努力した甲斐がありましたわ。高雄様もご指導ご鞭撻、ありがとうございます」
シチューの味も、アイビーの喜びの声も、三人の心には全く届かなかった。彼らはただ淡々と、目の前に並んだ料理を事務的に処理していった。アイビーの白々しい程に嬉しさの籠もった声だけが居間に響き、その中で三人は拷問のような気まずさを噛みしめながら食事を続けていった。
結局、この日はアイビーの一人勝ちだった。